今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

新首相の地元 秋田藩が失敗した経済政策とは

  

 安倍首相が持病の悪化で退任し、菅内閣が発足した。秋田県出身者では初の首相で、地元(菅氏の選挙区ではないが)は盛り上がっている。

 菅氏は農家に生まれ、地方議員からたたき上げで首相に上り詰めた苦労人だ。親の選挙地盤を引き継ぐ世襲議員が目立つ昨今だが、菅氏には地方の振興に力を入れ、庶民に向き合う政治を期待したい。

 

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 だが、生まれながらに選挙地盤を持つ“地方の殿様”では庶民の気持ちは分からない、などというつもりはない。領民の暮らしに寄り添おうとした“地方の殿様”もいる。菅氏の地元、秋田藩久保田藩)の第7代藩主、佐竹義明よしはる(1723~58)もそのひとり。今回のコラムはその斬新な経済対策を紹介した。

  • 着眼点はよかった「銀札」発行計画
  •  領内を襲った猛烈なインフレ
  • 「銀遣いの国」で普及しなかった銀札は
  • お家騒動ばかりが有名に

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佐竹義明(天徳寺蔵)

着眼点はよかった「銀札」発行計画

 江戸時代中期に商品経済が発達して経済規模が拡大すると、幕府が供給する貨幣(正貨)だけでは足りず、多くの藩が独自の紙幣「藩札」を出していた。宝暦4年(1754年)、秋田藩も幕府に「今後25年の間、銀札ぎんさつを発行させてほしい」と願い出た。

 領内では当時、大雨、洪水、大火などの災害が相次ぎ、冷害による凶作が続いた。流通している銀貨や銭貨(正銀、正銭)に交換できる紙幣を発行して、財政難を乗り切り、経済活性化を図る政策自体は、目新しい政策ではない。

 だが、秋田藩にはもうひとつ目的があった。銀札を使って領内の正銀を藩に集め、困窮する領民に米や生活必需品を給付するというのだ。銀札を普及させれば、交換された正銀が回り回って藩に入ってくる。

 言い換えれば、領民に銀札を渡し、蔵やかめの中で“タンス預金(預銀?)”になっている正銀を藩に吸い上げる。吸い上げた正貨を藩外への支払いにあて、藩外から米や日用品を買い入れて領民に安く売れば、財政再建と領民救済の一挙両得が図れる――と考えた。

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秋田藩が発行した銀札
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過去の失敗作「アマビエ」が今、脚光を浴びる理由とは

  

 新型コロナの感染拡大が長期化する中、予言する妖怪「アマビエ」が大人気だ。人魚のようなウロコと長い髪、鳥のようなくちばしを持つ3本足の妖怪で、江戸時代に肥後(熊本県)の海に現れて疫病の流行を予言したという。

 アマビエはむろん想像の産物だが、この得体のしれない妖怪が登場した時代背景を知りたくなった。ブームが起きる前から、地道にアマビエを調べていた研究者にも取材した。

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  •  予言獣の“先輩”の元ネタとは
  • 創作者は江戸の瓦版職人か
  •  深海魚か、中国の猿の妖怪か
  • アマビエは何を予言したのか
  • 失敗作だったアマビコ
  • 成功していれば今の流行はなかった?

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           肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵) 

 肥後の海中が毎夜光るため役人が見に行くと、図のような者が現れ、「私は海中に住むアマビヱという者だ。今後6年の間、諸国は豊作だが、あわせて病が流行する。早く私の写し絵を人々に見せなさい」と告げて海中に戻った。これが役人から江戸に送られてきた写しだ 弘化3年4月中旬

 アマビエの絵の説明文は上記にように書いてある。だが、役人が検分したという大騒ぎの伝承が、肥後には一切残っていない。弘化3年(1846)に疫病が流行した形跡もない。奇談の発信源は、どうやら熊本ではない。

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スターリンの犯罪 シベリア抑留と終戦工作の接点

 全国戦没者追悼式がコロナ禍の中で開かれた。節目の「終戦の日」だからこそ、8月15日の恒例行事の意義を再認識することが大事だと思う。

 「終戦の日」は第2次世界大戦の戦闘がんだ日ではない。昭和20年(1945年)8月9日に旧満州中国東北部)に攻め込み対日参戦したソ連は15日以降も軍事行動を止めず、18日未明には千島列島の北端、占守しゅむしゅ島でソ連軍と日本軍守備隊が「開戦」している。

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  • 「日本人将兵50万人を捕虜に」…スターリンの極秘指令 
  •  国際法に明確に違反
  • 勝算ないまま登場したソ連仲介案
  • 近衛の交渉方針に「労務賠償やむなし」
  • 和平斡旋の答えは宣戦布告
  • 北海道占領断念翌日 スターリンの豹変

「日本人将兵50万人を捕虜に」…スターリンの極秘指令 

 ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953)は占守島から南下し、北海道の北半分を占領する野望を抱いていた。陸軍中将・樋口季一郎(1888~1970)は独断で「断乎反撃せよ」と命じた。

 守備隊の奮戦で出端ではなくじかれたスターリンが、北海道占領を断念せざるを得なくなった経緯は別のコラムで紹介している。

 占守島では8月21日に停戦協定が成立し、日本兵は23日に武装解除する。だが、スターリンはこの日に、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘命令を出した。

 千島だけでなく、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行された。その1割にあたる約5万4000人が極寒の中、過酷な労働や食糧不足で死亡したとされる。

   

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施しから棒引きへ…徳政史の変遷と令和コロナ徳政

 新型コロナ感染拡大を受け、国や自治体が中小企業支援策の拡充に踏み切っている。ただ、営業時間の再短縮や休業(自粛)を求められた店の多くからは「月で最大20万円程度の協力金では足りない」という声が出ている。

 倒産や廃業を食い止めるための思い切った支援策を「令和の徳政」と呼ぶらしい。名古屋市河村たかし市長は中小義業者向けの低利融資制度を「ナゴヤ信長徳政プロジェクト」と名付けた。

 ということで、過去に行われた「徳政」の歴史を振り返り、今につながる真の「徳政」とは何か、考えてみた。

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  • 「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ
  •  今川氏真の徳政令を凍結した井伊直虎
  •  将軍義昭の「代替わり徳政」も計画か
  • 幻の「徳政」と「天下」の意味

  

「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ

 広辞苑で「徳政」と引くと、①人民に恩徳を施す政治。租税を免じ、大赦を行い、物を与えるなどの仁政②中世、売買・貸借の契約を破棄すること――という二つの意味がある。もともと徳政には①の意味しかなかったが、鎌倉時代に出された永仁の徳政令によって②の意味が加わり、室町時代には徳政と言えば②の意味になった。

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永仁の徳政令を出した北条貞時(『柳菴随筆』国立国会図書館蔵)

 コラム本文では「徳政」が①の「人民への恩徳」から始まり、次第に②の「借金の棒引き」の代名詞となり、庶民の熱狂的に受け入れられた後、嫌われるようになった経緯を書いた。

 庶民の味方から敵になったのは、戦国時代末期からだと言われている。室町幕府は徳政令を乱発し、徳政令の手数料収入を得る「分一徳政令」まで出したが、織田信長(1534〜82)は天正5年(1577)に安土に出した楽市楽座令で、徳政は行わないと宣言しているが、この時期に一致する。すでにこのころは、庶民、特に新興商人の経済活動に徳政は邪魔と考えられるようになっていたのだろう。

 江戸時代になってからも困窮した旗本御家人に対する救済策が乱発されたが、徳政令という言葉は使われていない。松平定信寛政の改革で断行した徳政令と同じ借金の棒引きは「棄捐きえん令」と呼ばれた。

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信長も考えた?足利16代将軍・義尋の誕生

 乱世は後継者が次々と権力を奪う時代だ。当然、前任者の子孫はその地位を失う。だが、後継者は前任者と敵対していたわけではない。権力の簒奪さんだつには手順が必要になる。

 豊臣秀吉(1537〜98)は織田信長(1534〜82)の孫の三法師、のちの織田秀信(1580〜1605)織田家の後継に据えたが、岐阜中納言にとどめ、自らは関白になった。

 徳川家康(1543〜1616)は臨終の床に就いた秀吉に豊臣家への忠誠を誓いながら、嫡子の豊臣秀頼(1593〜1615)から天下を奪い取り、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした。 

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三法師を抱いて信長の葬儀に出席した秀吉(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

 秀吉はあの世で家康の裏切りにほぞをかんだだろうが、自分も秀信を冷遇した過去がある。秀吉と家康が、それぞれの嫡子から天下を簒奪したことは、多くの人が知っている。

  • 信長の権力掌握に手順はあったか 
  • 信長も義昭の子を将軍にしようとした?
  • 義昭も代替わりを意識していた
  • 官位が義昭を超え、安土に城割り
  • 将軍になれなかった義尋は
  • 世襲でない現代の継承の手順

信長の権力掌握に手順はあったか 

 では、信長はどうだったのか。東大史料編纂所画像史料解析センター准教授の黒嶋敏さんの近著『天下人と二人の将軍』を読んで、目からウロコが落ちた。

 信長は室町幕府15代将軍の足利義昭(1537〜97)を京都から追放して政権を奪ったが、義昭の命は奪っていないし、義昭に代わって将軍職に就いたわけでもないが、義昭には跡を継ぐべき嫡子がいた。その存在は三法師や秀頼ほど知られていないから、信長が嫡子から天下を簒奪したイメージもない。

 しかし、黒嶋さんによれば、信長も秀吉、家康と同じことをしていた。義昭の嫡男、足利義尋ぎじん(1572〜1605)は義昭の次の16代将軍に就くことが既定路線となっていた可能性があるというのだ。

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『麒麟がくる』8月再開!高橋英樹さん 大河と信長を語る

 新型コロナの影響で放送休止中だった大河ドラマ麒麟がくる』が8月30日から再開される。これまで大河ドラマ9作に出演した高橋英樹さんのロングインタビューを2回に分けて読売新聞オンラインに掲載した。

 高橋さんと言えば『国盗り物語』で演じた織田信長(1534〜82)が有名だが、前編では信長以外の出演作についてじっくりと語ってくれた。他では読めないインタビューだと思う。

 

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インタビューに答える高橋さん

 大河ドラマの秘蔵写真も多数ご提供いただいたが、権利許諾の関係でここでは公開できない。読売新聞オンラインwebコラム「今につながる日本史」でご覧いただきたい。

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大河9作に加え『坂の上の雲』も

 前編では大河ドラマのほかに、スペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもたっぷりお話が聞けた。視聴していて涙腺が崩壊した「そこから旅順港が見えるか―っ」「見えまーす!丸見えでありまーす」というシーンを思い出すが、あのシーン、実は…という話も。

【前編に登場する高橋さんが演じた人物】

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「暴れ川」「ダム」の歴史と令和の熊本豪雨

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決壊した球磨川と浸水した人吉市

 梅雨前線の影響で熊本県南部に記録的な大雨が降り、球磨川が氾濫した。支流に近い球磨村特別養護老人ホームが浸水し、土砂崩れも多発した。

 八代市人吉市では橋が流失し、多くの人が孤立した。死者・行方不明者は30人を超えた。大雨はまだ続きそうだ。私も熊本にいた時期、梅雨末期の大雨の猛威を経験した。被災された方には心からお見舞い申し上げるとともに、引き続き警戒するようお願いしたい。

  

  •  洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは
  •  1200年続く水害との戦い
  • 清正が 築いた?遥拝堰
  • 「瀬戸石崩れ」を7日で復旧させた稲津弥右衛門
  • 昭和40年の大水害と市房ダム
  • 緊急放流がは見送られたが…
  • ダムが要るのか、ダム無しがいいのか

 洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは

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球磨川流域図(国土交通省河川局『球磨川水系の流域及び河川の概要』)

 九州は梅雨末期になると毎年のように集中豪雨による水害が発生するが、7月4日未明から朝にかけては観測史上最多雨量を更新する猛烈な雨が降った。球磨川流域は急峻な山々に囲まれ、日本三大急流のひとつとされる。

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 上流の人吉・球磨盆地は、周囲を山に囲まれ、山間部に降った雨がすり鉢状の盆地に集まりやすい。中流域は山の間を流れ、川幅が急に狭まる「山間狭窄部」、つまり「ボトルネック」になっており、急に水位が上昇しやすい。下流八代平野扇状地を蛇行し、河口付近は干拓でできた海抜が低い土地で、堤防決壊や広範囲にわたる浸水が起きやすい。球磨川は上流、中流下流ともに、大雨が降ると一挙に「暴れ川」となり、流域のすべてで氾濫が起きやすく、ひとたび氾濫すると浸水被害は大きくなる。

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