今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

『 麒麟がくる』で「三悪」の汚名晴らした松永久秀

 NHK大河ドラマ麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんが演じる松永久秀(1508〜77)が織田信長(1534~82)に背き、信貴山城で自害した。

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松永久秀(『太平記英勇伝』)

 天下の大名物といわれた平蜘蛛を抱えて爆死するという俗説を採用しなかったあたりは、最新の研究に忠実なこのドラマらしい。久秀のこれまでの「官有梟雄」のイメージは、最近の学説で変わりつつある。

 2020年9月20日放送回では、向井理さんが演じる足利13代将軍義輝(1536〜65)が、永禄8年(1565年)に三好三人衆らに殺害される「永禄の変」が描かれた。しかし、これまでの大河ドラマのように、久秀を将軍義輝暗殺の首謀者として描かなかった。

 義輝が暗殺された後に久秀は、滝藤賢一さんが演じる義輝の弟の覚慶(足利義昭、1537〜97)を匿うなど、三好三人衆とは別の動きをしているが、これまでの大河ドラマではこのこともきちんと描かれなかった。しかし、最近の研究ではこれが史実とみられている。

  • 久秀=悪人のイメージは『常山紀談』から
  • 将軍暗殺時には不在のアリバイ
  •  主君、その嫡男、弟の死も久秀のせい?
  • 大仏を焼いたのは偶発的な“事故”
  • 平蜘蛛の窯はどうなったか
  • なぜ江戸時代に悪役になったのか

久秀=悪人のイメージは『常山紀談』から

 久秀に梟雄のイメージがついたのは、江戸時代の儒学者、湯浅常山(1708〜81)の『常山紀談』にある以下の話が元になっている。

 徳川家康(1542〜1616)が信長を訪ねて会談した時、たまたま信長の傍に久秀がいた。信長は家康に「この男は、平然と3つの悪事をした」と紹介した。3つの悪事とは、

・将軍を暗殺した

・主君とその子らを死に追い込んだ

東大寺の大仏を焼き払った

 紹介された久秀は面目を失った。

 だが、そもそも信長が家康に久秀を紹介したという逸話自体が創作だろう。内容についてはとても信じられない。3つの悪事について、個別に検証してみよう。

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二条御所で三好勢に襲われる義輝(『絵本石山軍記『国立国会図書館蔵)
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本来の「年忘れ」に戻る2020年

  新型コロナは年末になって感染拡大の第3波が襲来し、東京都の小池知事が「年末年始コロナ特別警報」を出して、忘年会や新年会を自粛し、帰省を控えるよう呼びかけた。「Go To トラベルキャンペーン」は一時停止され、いつもの帰省ラッシュもない。

 信用調査会社の東京商工リサーチが約1万社に行った調査によると、約9割の企業が忘年会や新年会を開催しないという。同期などとの小規模な忘年会や、部署での納会についても禁止する会社が多い。最後までコロナ禍に振り回された今年こそ、忘年会でも開いて「年忘れ」をしたいところだが、感染拡大を防ぐにはやむを得まい。年の最後のコラムでは日本で約600年続く忘年会の歴史を遡ってみた。

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第3波が広がるさなかに

 約100年前のスペイン・インフルエンザ大流行では、大正8年(1919年)12月から第3波の流行が始まったとされる。すでに2波にわたる流行を経験していた日本では「呼吸保護器(マスク)をせずに人の集まる場所に行くな」という呼びかけが行われていたが、忘年会や新年会の自粛は呼びかけられていなかったようだ。

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    スペインインフルエンザ流行の経緯(国内の死者数)

 磯田道史さんによると、第3波の兆候を知ったオーストラリア政府は大正9年1920年)1月に日本政府に事実の有無を問い合わせたが、外務大臣だった内田康哉こうさい(1865〜1936)の返答は「寒気とともに患者数は激増しているのは事実だが、前年度流行当時に比べれば、患者数も死者数もなお少数で、10分の1にも達しない見込みだ」というものだったという(2020年5月13日「古今をちこち」より)。

 すでに感染の波を二度も経験していたにもかかわらず、第3波の流行を甘くみていたと言わざるを得ない。政府がこんな調子だったのは、今と違って有識者の危機感もなかったことも一因かもしれない。コラム本文では、帝国学士院(現在の日本学士院)の納会が、参加者のせきやくしゃみでにぎわう中でも強行されたと紹介する大正8年12月15日の読売新聞記事を紹介している。納会は、当時の日本の「学者のすい」たちが感染リスクを踏まえても、やめるべきではないものだったのだろう。

近代忘年会は明治中期から

 社会学者の園田英弘(1947~2007)は著書『忘年会』のなかで、組織的に大人数で年忘れを行う忘年会を「近代忘年会」と名付け、その起源を明治中期と分析している。身分制が解体され、社会が流動化して一獲千金の商機や才能に応じた抜擢ばってきの道が開かれた。旧大名は文明開化に後れを取るまいと社交や接待の場を増やし、薩長藩閥の要人は自らの権勢を示すために派手な会合を開きたがった。庶民も自分が属する集団(会社など)内部の人脈を広げ、外部の人脈を開拓しようとした。

 職業や地位にかかわらず、「年忘れ」は集会や交遊の場を設ける絶好の名目になり、官民を問わず急速に普及した。明治21年1888年)末には、時の首相、黒田清隆(1840~1900)が、各省庁に官費による公用忘年会はできるだけ質素にするよう訓示しているが、その黒田自身が首相官邸に大臣や要人を招いて忘年会を開いている。夏目漱石(1867~1916)が明治38年(1905年)に発表した『吾輩は猫である』には、注釈もなく「忘年会」という言葉が出てくるから、このころまでに庶民にも広く定着したのだろう。

「歳忘」から「年忘」に、さらに「忘年」に

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建部綾足像(『寒葉斎建部綾足』国立国会図書館蔵)

 忘年会という言葉を最初に使ったのは漱石だ、という人がいるが、それは誤り。江戸時代中期の国学者建部綾足あやたり(1719~74)が『古今物忘れ』のなかで、忘年会は「うき(き)一年」を忘れるための会合と紹介している。ただ、建部は本来の「憂きこと」の意味は「忠孝をつくすべき君主や親がとしをとり、老いていくこと」だった、と嘆いている。

 確かに室町時代連歌会を記した記録には「若者とともに(自分の歳=年齢を忘れて)連歌会の納会でこの1年の上達を喜び合った」という記述がある。

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室町時代連歌会の様子。上流階級の社交の場だった(『慕帰絵々詞』国立国会図書館蔵)

 貝原益軒(1630~1714)の『日本歳時記』によると、江戸時代前期には、まだ「目上の人を交えて酒を酌み交わし、1年間を無事に過ごせて、年を越せる(数え年で1つ歳を重ねることができた)ことを喜び合う」のが年末のしきたりだった。室町時代の「歳忘れ」の精神がまだ残っていることがうかがえる。 

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『日本歳時記』挿絵の「年忘」風景(国立国会図書館蔵)

 どうやら「歳忘れ」が「年忘れ」になり、江戸時代に漢字が「年忘」から「忘年」にひっくり返って近代忘年会へと変化したというのがひとつの流れのようだ。

 コラム本文ではその流れを遡るとともに、「年忘」が「忘年」にひっくり返ったきっかけは、江戸中期に「御歳暮」の風習が庶民にも広がったことが関係しているのではないか、と推理してみた。むろん一つの仮説に過ぎず、おそらく近代忘年会に至る経緯は、多元的にさまざまな風習や慣例が交錯しているのだろうから、これだけが真相とは言えないが。

吉良邸討ち入りはなぜ成功したのか

 経緯には諸説あるとしても、江戸中期にはすす払いや大掃除を中旬までに終わらせ、その後で雇い主に「御歳暮」のあいさつをして、「年忘れ」の宴で酒を飲み明かすというのが恒例になったようだ。 江戸の町では年末の仕事は12月13日までに終わらせるのが定着していたという。

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討ち入りは吉良邸納会直後を狙った?(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

 余談になるが、旧暦の元禄15年12月14日(今の暦で1703年1月30日)、赤穂浪士が吉良邸に打ち入ったのは、大掃除の後に開かれた納会の茶会の後だった。園田の『忘年会』によると、吉良邸の警護役は納会も終わり、すっかり気が緩んでいたところを襲われたから浪士たちに太刀打ちできなかったという説があるという。

気の緩みはやはり禁物

 12月31日、東京都の新型コロナ新規感染者数がついに1337人に達し、初めて1000人を超えた。600年の歴史がある忘年会を我慢したのだから、ここで気が緩んでは元も子もない。振り返ってみると忘れてしまいたいことが多かった2020年だが、1日呑んで騒いだくらいでは忘れることはできない。

 不幸にもコロナで亡くなった方々のご冥福を祈り、厳しい状況で奮闘する医療現場の方々に思いを向け、無事にこの1年を過ごせたことを家族とともに静かに感謝する――2020年は本来の「年忘」の年越しに立ち返る年なのかもしれない。

 今年もご愛読、ありがとうございました。

 

 

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信長の蘭奢待切り取りの真相は

 大河ドラマ麒麟がくる』(12月20日放送)で、織田信長(1534〜82)が、奈良東大寺正倉院宝物の中でも特に有名な伽羅きゃら黄熟香おうじゅくこうを切り取る。文字の中に「東」「大」「寺」の名を隠した「蘭奢待らんじゃたい」の別名のほうが知られる天下の名香木だ。

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最近手に入れた「ガチャガチャjの蘭奢待ミニチュアです

 信長の朝廷に対するスタンスがわかる

 この話をドラマがどのように描くかで、『麒麟がくる』の信長の朝廷に対するスタンスがわかる。以前はこの一件は強引な香木の切り取りは朝廷に対する自らの権力の示威行動と見られていた。証拠としては正親町天皇(1517~93)が、信長の切り取りを「『朝廷の権威をないがしろにした』と激怒した」という史料もあるとされていた。

 しかし、今は信長が前例に配慮して気を遣っており、強引に切り取ったわけではないという見方が定説になっている。証拠とされていた史料はどうやら主語を読み違えており、天皇は信長ではなく、関白の二条晴良(1526〜79)の開封手続きがずさんだったことを怒ったのだというのが今の定説だ。信長の開封手続きは本当に丁寧だったのか、主な流れを振り返ってみる。

開封手続きは本当に丁寧だったのか

 天正2年(1574年)3月23日、信長は塙直政(?~1576)と筒井順慶(1549〜84)を使者に立て、「東大寺の霊宝、蘭奢待を拝見したい」と東大寺へ申し入れた。東大寺が「宝蔵は勅封(天皇御璽で封印)されており、勅使でなければ開封できない」と伝えたところ、信長は4日後に勅使を伴って奈良にやってきて、その翌日には開封の儀式が行われた。

 東大寺は突然の申し入れにあわててはいるが、信長は使者を立てて事前に申し入れており、勅使が必要と聞いて勅使を伴っている。確かにせっかちではあるが、藤原道長(966~1028)がいきなり正倉院を訪れて自分の宝庫のごとく正倉院に入って見物した先例に比べれば、きちんと手順を踏んでいる。

 勅使を確認した東大寺は僧7人を宝蔵中倉に入れて、蘭奢待を大きな櫃ごと持ち出し、信長が待つ多聞山城へ運ばれた。信長が出向くのではなく、自ら待つところに蘭奢待を運ばせたのは無礼にも見えるが、これも自ら正倉院に出向いて中に入るのは畏れ多いから、だったという。

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多聞山城跡
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日本独自のはんこ文化はいつ生まれたか

 河野行政改革担当大臣が進める行政デジタル化の一環として、約1万5000種類の行政手続きから「認め印」の押印がすべて廃止される見通しになった。河野大臣は「ハンコ文化を守ることには協力していく」というが、そもそも日本のはんこ文化の歴史はいつから始まり、どのょうに定着していったのかを振り返った。

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 中国から伝来し「官」から広がる

 はんこの起源は6000年ほど前、紀元前のメソポタミア文明にさかのぼるとされ、シルクロード経由で中国大陸、そして日本へと伝わった。日本最古の印は約2000年前に後漢光武帝から下賜され、福岡県の志賀島で江戸時代に見つかった「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」の金印とされているが、この印は権力の象徴で実際に押されることはなかったとみられる。

 はんこが使われるようになるのは、大宝元年(701年)の大宝律令で公文書の印章制度が定められてから。天皇御璽ぎょじ太政官印などが押された公文書は、現在も正倉院に数多く保管されている。『続日本紀しょくにほんぎ』によると、個人印天平宝字2年(758年)に藤原仲麻呂(706~764)に初めて許されている。

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権力を握った恵美押勝(中央、『扶桑皇統記図会』国立国会図書館蔵)

日本独自の文化ははんこを使わない?

 仲麻呂正倉院への宝物収納を名目に天皇御璽を持ち出したり、反仲麻呂派と太政官印の争奪戦を行ったりしている。官職を唐風に改め、自らもみのおしかつと改姓改名するなど、唐の制度に傾倒した仲麻呂は官印を重視したが、裏返せば、このころのはんこはまだ日本独自の文化ではなかったともいえる。その証拠に、律令制度の衰退に伴って官印は使われなくなる。遣唐使が廃止され、国風文化(=日本独自の文化が芽生える平安後期以降は、公文書には花押を書くのが普通になっていく。今でも閣議決定の書類は大臣印ではなく署名(花押)で承認されている。

大陸から「私印」が伝来して復活

 だが、公印から消えたはんこは、再び中国の影響を受けて息を吹き返す。鎌倉時代に大陸から来日した禅僧が宋・元の「文人印」をもたらし、禅宗の普及に伴って僧侶が「私印」として書画の落款や蔵書印などにはんこを使うようになった。

 室町時代になると武士も私印を使うようになり、戦国時代には武将の「家印」が押された「印判状」が出されるようになる。一度廃れたはんこは武士とともに復活し、公印から私印、家印として使われるようになっていく。

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武蔵・蕨宿の五人組帳御請印帳(安政2年のもの。野村兼太郎『五人組帳の研究』国立国会図書館蔵)


 
江戸時代になるとはんこは庶民の間にも広がるが、普及の理由は江戸幕府が「家」を単位に民衆を管理したためだった。「五人組制度」による組織化が進められ、キリスト教禁止令を徹底するための宗門改しゅうもんあらためも「家」単位で行われ、誓約の証しとして署名の代わりにはんこが使われた。

 農民や町人のはんこは名主に、名主のはんこは代官や町年寄への届け出が義務付けられ、捺印なついんされた印鑑帳(請判帳、五人組帳ともいう)は名主などが保管した。明治維新以降ははんこの管理は名主から市町村に引き継がれた。現在の「実印」と「印鑑登録制度」の起源は江戸時代の戸籍管理制度にあるわけだ。

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官のはんこ廃止に民が抵抗

 明治維新で欧米の様式を取り入れた明治新政府は当初、江戸時代の印鑑制度を廃止しようとした。商取引などでは自筆のサインがあれば実印がなくてもいいという決まりが作られ、識字率が上昇した暁には実印を廃止しようとしうたのだが、この制度改正に金融業界から反対の声が上がった。大量の金融関係の書類にいちいち実印と自署を求めるのは不可能だという理由だった。

 この官民せめぎあいについては、コラム本文に詳しく書いたのでお読みいただきたい。せめぎあいの結果は、はんこの存続を求めた民間側の勝利。しかもはんこの効力があるのは実印に限られていたのに、商取引の証書では実印以外のはんこも可とされた。これが認印三文判)の普及につながった。

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 その一方で、行政手続きでの署名の有効性は変わらず、公的な手続きでは「署名も印も」すなわち署名(自署)した上ではんこを押す「捺印」が必要になった。本来は自署があれば十分なのにはんこが求められ、しかしそのはんこは三文判でもよく、でもシャチハタではダメ、という複雑怪奇な制度はこうして生まれた。

 やたらと文書にはんこを求める役所の手続きと、実印や印鑑証明の制度は、別々の経緯を経て定着した。銀行で署名や身分証明書があっても銀行印がないと自分の預金が下ろせないというのも、明治時代にはんこの存続を求めた銀行ならではの仕組みではある。いずれにさいても、日本独自のはんこ文化の歴史は意外と浅い。

スタンプも立派なはんこ文化だ

 「はんこ文化」という時には、寺社の御朱印や駅スタンプも当然加えるべきだ。これらのはんこは珍しい場所を訪れたり寺社に参拝したりした証しとして、収集・鑑賞の対象になっている。

 コラム本文では駅スタンプ収集家の新潮社元編集者、田中比呂之ひろしさんにご協力いただき、現在確認できる日本最古の駅スタンプを印影とともに紹介している。これまで日本初とされてきたのは昭和6年(1931年)に福井駅に置かれた駅スタンプだが、実はそれより前に別の駅に設置されていた。

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 許諾の関係上、ここでは紹介できないので、コラム本文をお読みいただきたい。

 

 

 

おかげさまでほぼ完売しましたが、在庫まだ少しあります。

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学術会議問題と寛政異学の禁と滝川事件

 日本学術会議が推薦した新会員候補のうち6人を菅首相が任命しなかった一件が、尾を引いている。為政者による弾圧と抵抗は歴史にはつきもので、今回の任命拒否も学問の自由との関係が議論されている。

 だが、今回の一件を現時点で学問の自由の侵害=違憲というのは違う気がする。今の学術会議のあり方については学者の中からも改革を求める声が出ていた。どんな組織でも改革をするとき、人事から手を付けることは間違いではない。江戸時代の寛政異学の禁から、今回の一件を考えてみた。

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定信は老中になる前は朱子学を批判していた

 寛政異学の禁は江戸時代に寛政の改革を進めた老中・松平定信(1759~1829)が寛政2年(1790年)に出した命令で、朱子学を幕府の「正学」とし、昌平黌しょうへいこう昌平坂学問所)で朱子学以外を教えることを禁じた命令だ。

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現在の昌平黌(湯島聖堂

 一般的には封建時代の典型的な学問弾圧とみられがちだが、禁令はあくまで昌平黌で教える内容に限定されていた。在野の文人は正面から禁令に反発して定信に意見書を出すなどしており、それでも弾圧されてはいない。

 定信自身も老中に就任する5年前に書いた『修身録』の中で「学ぶと偏屈になる」と朱子学を批判し、「学ぶのは人それぞれ、〇〇学でなければならないことなどない」と力説している。老中になって宗旨替えしたとしても、学問弾圧の愚を知っていたことは間違いない。

学者が推し進めた異学の禁令

 ただ、各藩は幕府に忖度して藩校で教える学問を朱子学にするなど、影響は全国に広がっているのも確かだ。コラム本文にも書いたが、朱子学以外の学問の排斥に熱心だったのは、定信によって昌平黌の教官に抜擢された柴野栗山りつざん(1736〜1807)ら学者の方だった。定信は昌平黌で行われた役人の登用試験では朱子学以外も試験科目に加えるよう指示したが、栗山らは子の指示を無視して朱子学中心に改め、そのことが定信に露見しないような工作もしている。

 定信には抜擢した学者の監督責任があるから、知らなかったでは済まされないとはいえ、すべてが定信の指示ではなかったわけだ。

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讃岐・高松藩の儒官から抜擢された柴野栗山

背景に林家の乱れも 

 なぜ定信は朱子学以外を昌平黌から排斥したのか。コラム本文では田沼派との抗争が背景にあったことを紹介したが、大学頭だいがくのかみ世襲する林家の人材難も大きな理由だったようだ。

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 徳川家康(1543~1616)が林羅山らざん(1583~1657)の朱子学を「徳川家侍講じこうの学」と定めて以来、林家は学頭の役職を世襲し、旗本の門弟に朱子学を教えてきた。ところが、元禄時代以降は朱子学よりも実践的で、経済的な視点を備えた学派が台頭していた。林家には人材が出ず、大学頭の養母に艶聞が出るなど、家中に乱れもあった。

 定信は外部の朱子学者を昌平黌に招く人事を断行し、まず林家の力を削いだ後、昌平黌を幕府直営にして綱紀粛正を急いだわけだ。禁令は学問の弾圧ではなく、昌平黌の組織改革を主眼にしたといえるだろう。この禁令がどんな展開を辿り、その後の歴史にどんな影響を与えたかはコラム本文をお読みいただきたい。

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学術会議問題は「令和の滝川事件」か

 最後に、学術会議問題を「令和の瀧川事件」と呼ぶ声が上がっていることについて付言したい。瀧川事件とは、昭和8年(1933年)、京都帝国大学法学部教授の瀧川幸辰ゆきとき教授(1891~1962)の講演や著書の内容が自由主義的だとして、当時の文部大臣、鳩山一郎(1883~1959)が瀧川教授の休職を決めた思想弾圧事件だ。京大法学部は決定は学問の自由や侵害するものだと反発し、法学部教官全員が辞表を提出する騒ぎになった。

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京大を追われた瀧川だが、戦後は京大総長となる

 この事件では学術会議問題とは異なり、文部行政のトップにいた鳩山文部相には明白な学問弾圧の意図があり、大学の自治にも足を踏み込んでいる。前述した通り、筆者は学術会議の問題は現時点で学問の自由の侵害とは思っていない。学術会議の6人の任官拒否が組織改革を狙ったというなら、寛政異学の禁の実態の方が近いと考えた。

 だが、今の憲法には明治憲法にはなかった学問の自由が明記されている。今回の問題に将来、学問の自由を脅かす懸念がないとは言い切れない。当然ながら、学問の自由についてはしっかり見ておく必要がある。

 

 

 

安土城天主も江戸城天守も再建できないワケ

 織田信長(1534〜82)の安土城(国の特別名勝)の天主復元を検討してきた滋賀県の三日月知事が建物の復元を見送る方針を明らかにした。デジタル技術を用いた「再現」となる見通しだ。詳しい史料がなく、現時点では史実に忠実に復元することが難しいためだ。

  • 4案の中から選ばれたデジタル化
  • 全国の天守は5種類に分かれる
  • なぜ同じ時期に同じ種類の再建ブームが起きたのか
  • 規制緩和で来るか、令和の築城ブーム
  • 江戸城天守はおそらく復元できない
  • 将軍の叔父の諌め「天守より城下の再建を」

4案の中から選ばれたデジタル化

 滋賀県は2026年の築城450年祭に向け「目に見える形」での復元を目指し、①現地(安土城址)に「復元」②一部を変更する「復元的整備」③安土城址と別の場所に「再現」④デジタル技術を使っての「再現」――の4案について意見を募った。その結果は「建てなくてよい」(53%)という意見が「建ててほしい」(43%)を上回った。「建てなくてよい」のうち(59%)が「デジタルがよい」と答えたという。

 一度城を復元してしまうと、新たな史料が出てきた時に変更が難しくなる。復元には大河ドラマ麒麟がくる」の時代考証も務める小和田哲男さんも反対だったという。当ブログでもアイキャッチに使っている安土城天主の姿については異論がある。妥当な結論だったといえるだろう。

 信長好きの筆者は安土城も大好きで、以前にも当ブログに書いている。

 上記記事の冒頭では、近江八幡市がデジタル技術で「再現」安土城のCG(コンピューターグラフィックス)の映像を紹介している。滋賀県は仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といったデジタル技術で視覚化するというが、日進月歩のデジタル技術を使い、近江八幡市のCG(これも出色の出来だと思うが)よりさらにいいものができることを期待したい(下の映像は滋賀県が制作)。

  

全国の天守は5種類に分かれる

 天守安土城は天主)の復元が検討されているのは安土城だけではない。名古屋城では木造天守の復元が検討されているし、松前城(北海道)、高松城香川県)でも計画が動き出している。なぜ、今なのか。そもそも天守安土城は天主)にはどんな種類があるのか、改めてまとめてみた。

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 「復元」とか「再現」と言われても、違いがわからない人も多いだろう。そもそも、全国にある70を超える天守は史実にどこまで忠実かどうかによって5種類に分類される。

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「麒麟がくる」に反映された「洛中洛外図屏風」の謎解き

 京都市中(洛中)と郊外(洛外)のパノラマ景観を描いた洛中らくちゅう洛外図らくがいず屏風びょうぶの中でも最高傑作とされる「上杉本」(国宝、米沢市上杉博物館所蔵)が、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年」に出品されている。

 70点を超える洛中洛外図屏風のなかでも初期の作品で、狩野永徳かのうえいとく(1543~90)が描き、天正2年(1574年)に織田信長(1534~82)が上杉謙信(1530~78)に贈ったとされる名品だ。

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上杉本洛中洛外図(米沢上杉博物館所蔵)

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屏風は織田信長から上杉謙信に贈られた

謎多き「上杉本」をめぐる大論争

 永徳に屏風を発注した人物は誰が、何のために描かれたのか。多くの学者が描かれた背景や秘められた政治的なメッセージについて考察し、歴史学者の大論争も起きている。その結果、明らかになった屏風の発注主と、そこに隠されていた意外な新事実について紹介した。

 詳しい経緯はコラム本文に書いた。東京国立博物館に行かれる方は、ぜひその前にお読みいただければと思う。ここではコラム本文に書ききれなかった余話を取り上げたい。むしろ東博で実物を見た後にお読みいただいた方がいいかもしれない。

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