今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

『麒麟がくる』本能寺の変の今の学説は?

 大河ドラマ麒麟がくる』が完結した。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を襲ったこのクーデターは、光秀の動機を巡る論争が続き、「戦国最大のミステリー」と言われる。

読売新聞オンラインのコラム本文

↑読売新聞オンラインに読者登録するとお読みになれます。

 真相究明はどこまで進んでいるのか。最新の研究では、変の首謀者は、ドラマではあまり目立たなかった須賀すが貴匡たかまささんが演じた光秀の家老、斎藤利三としみつ(1534~82)だとみられている。

光秀は本能寺にいなかった?

f:id:maru4049:20210211235051j:plain

斎藤利三月岡芳年『月百姿』国立国会図書館蔵)

 最新の研究といえば、富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔さんが「光秀は変の当日、本能寺の現場にはいなかった」とする説をまとめて話題になっているが、利三はこの説にも深い関係がある。

 萩原さんは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する『乙夜之書物いつやのかきもの』という書物に、変の当日、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」という記述があることに注目した。

 『乙夜之書物』が書かれたのは本能寺の変から87年も後で、これだけ時間が空いた記録には後世の脚色や創作が入り込むため、信ぴょう性は低いとされる。だが、この話は変に従軍した利三の三男、斎藤利宗(1567~1647)が、加賀藩士だったおいに語った内容だ。利三に近い人物の証言だからこそ、ここまで注目されているわけだ。

 過去の大河ドラマでも『麒麟が来る』でも、光秀は例外なく本能寺に行き、距離は近くはないが、信長に面と向かって口上を述べるシーンもあった。そのせいか、私も光秀は本能寺に行ったことには何の疑いも持たなかった。だが、言われてみれば、信ぴょう性が高いとされる史料に「光秀は本能寺にいた」とはっきり書かれたものはない。

f:id:maru4049:20210211224213j:plain

 だが、では鳥羽で決まりかというと、それにも疑問がある。光秀が控えたという「鳥羽」(京都市伏見区)は、当時の本能寺(今の本能寺の位置ではない)から8キロ近く離れている。丹波亀山城から山陰道を進んで京都に入った光秀は、七条大路から七条堀川を右折して本能寺と逆の方向に布陣したことになり、ちょっと不自然だ。 

山崎の戦いまで本陣は鳥羽南殿付近か

 光秀は山崎の戦いの2日前の同年6月11日、下鳥羽の鳥羽離宮南殿なんでん伏見区中島鳥羽離宮町)付近に布陣したという記録がある。「利宗が本能寺と山崎の戦いの記憶を混同していたのでは」という声もある。

f:id:maru4049:20210213115135j:plain

はたして本能寺に光秀はいたのか(『新書太閤記国立国会図書館蔵)

 この点について萩原さんは「鳥羽に布陣したのは万一信長を討ちもらした際に、信長が大坂にいた三男、織田信孝(1558~83)のもとに逃走するのを阻もうとしたのでは。鳥羽は交通の要衝ようしょうで、兵力を機動的に動かしやすい。光秀は本能寺の変から山崎の戦いまで、ずっと軍の主力を鳥羽においていたかもしれない」と話す。

 「光秀は桂川を渡ったところで全軍に本能寺襲撃を告げた」という史料もある。光秀軍の主力は七条大路に入らず、桂川の川岸から南東の鳥羽に向かい、本能寺に向ったのは利三隊など一部だけだったというシナリオもありうる。

 

利三が直面していた2つの大問題

 この時、大坂に信孝がいた理由にも、利三が深く関わっている。利三は本能寺の変の直前に「四国問題」と「切腹命令」という2つ問題に直面していた。

 「四国問題」とは、信長の四国統治の方針が急に変わり、四国の長宗我部元親ちょうそかべもとちか(1539~99)とのパイプ役だった光秀が窮地に陥ったというものだ。光秀が取次役になったのは、利三が元親の親戚(小舅)こじゅうとだったためだ。

f:id:maru4049:20210212005342j:plain

長宗我部元親(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 本能寺の変が起きた時に信孝が大坂にいたのは、変の翌日の6月3日、四国攻めのために渡海するためだった。つまり、本能寺の変は長宗我部氏との衝突を阻止するためだった可能性があるということだ。

 「切腹命令」とは、『稲葉家譜』などにある話で、天正10年、光秀と稲葉一鉄(1515~89)が稲葉家の家老だった那波なわ直治なおはるを奪い合って訴訟沙汰になり、直治の引き抜きに加担した利三が信長から切腹を命じられた問題だ。結局、信長の側近がとりなして信長も切腹命令は取り消したが、「直治は稲葉家に戻せ」という命令が出たことは史料で確認できる。その日付は天正10年5月27日。当時の暦では5月は29日までしかないから、本能寺の変のわずか4日前ということになる。

 このころ、安土城で信長が光秀を足蹴にしたという話があり、それは以前にもこのコラムで紹介した。利三に対する切腹命令は取り消されたが、光秀の敗訴は明らかで、利三も無罪放免ではなかったはずだ。

f:id:maru4049:20210212010816j:plain

亀山城址に立つ光秀像

光秀は追い詰められていた

 徳川家の史料『当代記』によると、この時光秀は「利三を隠した(かくまった)」という。6月1日、利三は外部から丹波亀山城に入り、そこから光秀らとともに本能寺に向かっているが、亀山城で利三の顔を見た光秀はたいそう喜んだという。光秀は信長の命令を無視して利三をかくまっていたとすれば、見つかれば光秀も処罰される可能性がある。光秀は追い詰められていた。

伏線を回収しきれなかった

 「四国問題」の詳しい経緯はコラム本文に記したのでお読みいただきたい。『麒麟がくる』の感想もコラム本文にあるので重複は避ける。

 「非道阻止説」をベースにしたのはドラマとしては理解できるし、そうでなければ光秀は視聴者に勇気や希望は与えられない。だが、「四国問題」も「切腹命令」も、せっかく伏線(切腹命令の方は利三をめぐるトラブルだったが)を張っておきながら、回収しきれなかった。やはり終盤の「尺」不足が残念だった。本能寺の変を扱った大河ドラマで「四国問題」を扱ったのは初めてだというから、それだけでも画期的とはいえるのだが。

 

 

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 テレビブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング

 

 

『麒麟がくる』本能寺のトリガーは家康?は大外れだったが…

f:id:maru4049:20210203014427j:plain

織田信長

 麒麟がくる』最終回の本能寺の変については、ドラマの結末を見てからもう一度書く、と前回のコラムに記したが、公表された最終回の粗筋を読んで言っておきたいことができた。本能寺のトリガーは家康暗殺指令になる恐れがあるが、それはないと思う。

気になる「究極の命令」の内容

 15分延長で描かれる最終回のあらすじは以下の通りだ。

 「宿敵・武田家を打ち滅ぼした戦勝祝いの席で、光秀は信長から理不尽な叱責を受け、饗応役の任を解かれる。追い打ちをかけるように信長は、光秀と縁深い四国の長宗我部征伐に相談もなしに乗り出すと告げる。『殿は戦の度に変わってしまった』と、その行き過ぎた態度をいさめる光秀に、『己を変えたのは戦ではなく光秀自身だ』と信長は冷たく言い放つ。そしてついに、ある究極の命令を光秀に突き付ける――。」

 気になるのは最後の「究極の命令」だ。すでに謀反に傾いている明智光秀(?~1582)を本能寺の変に走らせる、とても呑めない命令であることは間違いない。

 前のコラムで、光秀が織田信長(1534~82)を月に昇る「桂男」に見たてているのは、本能寺の変と暦との関係を描くつもりではないかと考え、信長が朝廷の大権だった暦の制定にも介入しようとしていたことを紹介した。しかし、暦の改変工作を光秀に命じたというのだけでは、謀反の理由としては弱い。暦の改変を信長の「非道」のひとつとしても、その改変工作を命じたくらいでは究極の命令とはいわないだろう。

史実に従うなら斎藤利三への切腹命令

 本能寺の変直前に信長が光秀に出したと伝わる中で信ぴょう性が高いとみられているのは、主君を稲葉氏から光秀に鞍替えした斎藤利三(1534~82)に対する「切腹命令」だ。直接これを裏付ける証拠はないが、利三とともに光秀に引き抜かれた稲葉家の家臣、那波直治については、信長が「法に背く」として稲葉氏に返すよう裁定した書状が残っている。この時期に稲葉家と光秀が家臣をめぐって揉めていたのは間違いない。

 最終回には長曾我部元親(1539~99)も登場するというから、謀反の理由には「四国説」の要素も加えるのだろう。利三は元親と親戚関係にある。利三が四国攻めに反対し、切腹させよと光秀に命じて光秀の堪忍袋の緒が切れる、という展開はありうるが、究極の命令というには、やはり弱い。ドラマでは利三の引き抜き問題を最初に光秀に話した時、信長は「小さい話」と言っていた。

 もうひとつ、信長が光秀に、領国の丹波、近江を召し上げて、石見、出雲への国替えを命じたという話もある。しかし、領国の再編成は「大きな国をつくる」ためには避けて通れず、光秀は領国を召し上げられて追放されるわけではない。

 では、だれもが「究極」と納得する命令は、と考えると、思い浮かぶのがドラマ終盤に光秀に急速に接近している徳川家康(1543~1616)の暗殺命令くらい残らない。

まさかの家康暗殺命令か

 家康が本能寺の変を事前に知っていたという筋書きが大河ドラマで描かれるのは初めてではない。2017年に放送された『おんな城主 直虎』でも市川海老蔵さん(『麒麟がくる』ではナレーター)が演じる信長が家康暗殺を光秀に命じる展開だった。堺にいる家康を本能寺におびき出し、光秀に襲わせるつもりが、光秀の謀反にあって殺されたという説で、光秀の子孫だという明智憲三郎氏が唱えている説だ。暗殺命令の動機は宿敵の武田氏を滅ぼし、もはや家康は用済みになったからというのだが、これはおかしい。

 信長が家康を暗殺したいなら、わざわざ本能寺におびき寄せなくても、安土の饗応の席で襲えばいい。まだ東国が安定しておらず、信長とは友好的な姿勢をとっているとはいえ、小田原には北条氏がいる。家康を殺す戦略的な理由はどこにもない。

戦略的な暗殺動機はないが…

 戦略的な動機がなければ、感情的な動機で押し通す?まさか、自分になびかない光秀を慕う家康に嫉妬したのが殺害の動機、とはすまい…と書いたところで、いや、あり得るなと思い直した。ドラマの中で信長は、宣教師からもらった洋服を贈ったり、いっしょに鼓を打とうと誘ったり、官位をあげるといったりして、光秀の気を引こうとしている。なのに光秀との溝は深まる一方で、光秀は信長になびくどころか、特段何の便宜も図っていない家康と仲良くしている。

 ひょっとして、家康を殺せば光秀は自分の方を向くだろう、という屈折した心理から家康暗殺を命じる筋書きではないか。そうなると、光秀は家康は殺さず、岡村隆史さんが演じる菊丸に「本能寺には行くな」とでもメッセージを託し、家康を逃がすのだろう。岡村さんのコメントは、この予想と符合する。

終盤が駆け足過ぎたのが残念だ 

 もし筆者の予想が当たっていたとしたら、飛躍が過ぎる。ドラマはフィクションだからどう描いてもいいのだが、家康暗殺命令説は学会ではほとんど支持されておらず、時代考証を担当した小和田哲男さんも著書の中で明確に否定している。現時点では「陰謀論」の類といえる。フィクションゆえの細部の創作はいいとしても、信長と家康の関係を決定的に左右する出来事を創作するのはいかがなものか。

 『麒麟がくる』は途中までは最新の学説も取り入れた骨太の大河ドラマと評価していたが、終盤になるにつれて光秀が鞆の浦に行ったり、帰蝶を上京させて「信長に毒を盛る」と言わせたり、家康が船に乗って会いにきたりという荒唐無稽な創作シーンが増えていた。

 全部で44回しかない尺不足のせいで、あわただしく伏線を張って、架空の人物やシーンを挿入して無理に回収している感がぬぐえない。最終回の台本が書きあがったのは昨年12月初めだったというから、コロナの影響もあったのだろう。ドラマの中で「信長様は焦っている」というセリフがあったが、焦っているのはドラマの方ではないか。

 もはや最終回もl撮り終えた時点でこんなことを書いても仕方ないけれど、大河ドラマはやはりホームドラマとは一線を画してほしいと思うのは、私だけだろうか。「家康暗殺命令」は、見当違いの筆者の嫌な夢であってほしいが、桂男のくだりまでは、筆者の予想はおおむね当たっている。

            ◇

 日曜日の最終回、BSの「早麒麟」と総合の「本麒麟」2回視た。上記の結果は大外れ。「義昭暗殺命令」だったとは…。このころ義昭は、身を寄せていた毛利からも疎んじられていたというし、ドラマの中では釣りしかしておらず、もはや影響力はなかったと思う。家康でなくてよかったが、これも史実とは思えず、将軍の影響力を過大評価しすぎだろう。

 『麒麟がくる』の筆者なりの総括は、コラム本文で書くことにする。

*2月9日に加筆しました。

 

 

 

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 テレビブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング

 

『麒麟がくる』の桂男に重なる本能寺の変と月=暦との縁

 撮り直しでスタートが2週間遅れ、新型コロナの影響で2か月半も放送を休んだNHK大河ドラマ麒麟がくる』が、いよいよ完結する。

 2月7日放送予定の最終回(第44回)「本能寺の変」まであと2回。クライマックスが近づくにつれ、ドラマでは「月」に絡んだ描写が増えていることから、こんなコラムを書いてみた。

読売新聞オンラインコラム本文

↑読売新聞オンラインに読者登録すると全文がお読みになれます

月が強調され、何度も登場する「桂男」

 第41回「月にのぼる者」では、坂東玉三郎さんが演じる正親町おうぎまち天皇(1517~93)が、内裏で長谷川博己さん演じる明智光秀(?~1582)と月見をしながら「桂男かつらおとこ」の話をする。

 桂男は第36回「訣別けつべつ」でも、光秀が木村文乃さんが演じた妻のひろとともに、坂本城で琵琶湖を眺めながら詠じた歌「月は船 星は白波 雲は海 いかにぐらん桂男は ただ一人して」のなかに登場した。

f:id:maru4049:20210130233911j:plain

月に昇る呉剛(月岡芳年『月百姿』国立国会図書館蔵)

 桂男とは、古代中国・唐の時代に書かれた『ゆうようざっ』に登場する伝説の人物で、本名をごうという。月の宮殿にある桂の木の花に不老不死の効能があると知った呉剛は、満月の日だけにかかる梯子はしごを使って月に昇った。だが、花を独り占めしようとして、すべて木からふるい落としたために神の怒りを買い、罰として高さ500丈(約1500メートル)もある桂の木をおのることを命じられる。しかし、斧を入れても切り口はすぐに塞がってしまう。呉剛は桂の木を伐り続け、月に閉じ込められてしまった――というのが伝説のあらましだ。

 ドラマの中で正親町天皇みかど)は、「あまたの武士たちが月に昇るのを見たが、この下界へ帰ってくる者はなかった」と語り、染谷将太さん演じる織田信長(1534~82)が道を間違えぬよう、光秀に「しかと見届けよ」と命じる。このシーンはドラマ上の創作だが、桂男は富や権力を独り占めしようとする権力者、つまり信長を指しているのだろう。

 一方、光秀と煕子が坂本城で詠んだのは『梁塵秘抄りょうじんひしょう』に収められた今様(歌謡曲)が出典。こちらも一人で月の船を漕ぐ桂男を信長とすれば、「一人ではどこへ漕ぎだすか分かったものではない。私が補佐しなければ」という光秀の決意が込められているとも取れる。

 ちなみにこの歌の桂男を「美男」と読み替える向きもあるが、桂男→月の象徴→美男と転じるのは江戸時代になってからのようだ。筆者は光秀の時代には、この歌は「美男子がどちらの女性に漕ぎだすのか」とはやす恋歌ではなかったと思っている。

当日、本能寺の上に月はなかった

 本能寺の変が起きた天正10年(1582年)6月2日は当時の西暦(ユリウス暦)では6月21日、今の西暦(グレゴリオ暦)では7月1日。「今の暦では6月21日の夏至に起きた」と勘違いする向きが多いが、ローマ教皇庁本能寺の変が起きた1582年10月に西暦をユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替えているので、今の暦なら7月1日になる。

 それでも夏至に近いのは確かだから、日の出は早い。だが、旧暦(太陰太陽暦)は月の初めは新月(朔)から始まる(だから「新月」なわけだが)から、日の出前は真っ暗闇だったことは、科学的に断定できる。漆黒の夜陰に紛れて1万余の大軍を移動させ、空が白んで周囲がはっきり見えるが相手はまだ寝ている未明に襲う――光秀は暦=月を味方につけることまで計算していたのではないか。

 逆に信長は、暦を敵に回したともいえる。前日に起きた日食をみて、京暦(宣明暦)を廃止し、自らの領国などで使われていた三島暦を採用するよう求めて、朝廷と対立していたからだ。

f:id:maru4049:20210131002417j:plain

三島暦(文化15年の暦、国立国会図書館蔵)

暦問題は史実の裏付けがある

 暦(太陰太陽暦)の話は、当ブログでもたびたび書いている。本能寺の変との偶然にしてはできすぎた暦との縁についてはコラム本文に詳しく書いているが、①当時の暦は月の満ち欠けで決められ、月は暦の象徴だった②信長は朝廷が定めた宣明暦を変えるよう求めていた③前日に京都では日食が観測されたが、信長はこれを予想できなかった朝廷を責めていた④しかし朝廷は、大権である暦の制定権を手放す気はなく、信長の要求を却下しようとしていた――ことは、ほぼ間違いない。暦をめぐる信長と朝廷の軋轢は公家の日記など一次史料にも記されている。

f:id:maru4049:20210131003853j:plain

暦の改変は信長の非道のひとつだった? 

 だとすれば、ドラマに唐突に、しかし何度も桂男を登場させた意味も分かる気がする。桂男は富や権力を独り占めしようとする者の象徴で、光秀はその非道を阻止しようと本能寺の変を起こしたという筋書きはあり得る。『麒麟がくる』の時代考証を務める静岡大学名誉教授の小和田哲男さんは「非道阻止説」を唱えている。

 むろん、以上は筆者の勝手な憶測ではある。光秀が6月2日に信長を襲ったのは暦とは関係なく、「信長が少人数の兵力しか連れずに本能寺に宿泊していたから」「翌3日に四国にわたることになっていた織田信孝(1558~83)率いる四国討伐軍を止めるためだった」という方が、はるかに説得力がある。

 いずれにしても、『麒麟がくる』が本能寺の変をどう描くか、楽しみだ。本能寺の変については『麒麟がくる』の最終回を見終えてから、もう一度取り上げる予定にしている。

 

 

note.com

 

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 テレビブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング

 

 

 

「転落の歴史」からコロナ対策を考える

  2021年は緊急事態宣言の再発令から始まった。今年もコロナとの戦いが最大の懸案になることは間違いない。読売新聞オンラインのコラム本文は、元通産官僚で衆議院議員齋藤健さんのインタビューだ。

 齋藤さんは、日露戦争の勝利から第2次世界大戦に惨敗するまでの旧日本軍の変容について克明に調べ、『転落の歴史に何を見るか』という本を出版している。

f:id:maru4049:20210130142052j:plain

齋藤氏(右)と筆者

 旧通産省を取材していた私とは30年近く前から斎藤さんを知っている。現在の政府のコロナ対応について、旧日本軍の失敗から学ぶところが多い。インタビューの内容は、こちらをお読みいただきたい。

読売新聞オンラインのコラム本文

↑読売新聞オンラインに読者登録すると全文お読みになれます

 失敗の本質は「十七条憲法」にある?

 齋藤さんはインタビューの中で、奉天会戦日本海海戦ノモンハン事件真珠湾攻撃などを振り返りながら旧日本軍の問題点を探り、根源は聖徳太子が制定したとされる十七条憲法にあるという説を展開する。十七条憲法が「和をもって貴しとなす」から始まるのは有名だが、条文の並びが持つ意味はあまり考えたことがなかった。

f:id:maru4049:20210131180320j:plain

第一条は「和」を尊ぶ十七条憲法国立国会図書館蔵)

 和を重視すれば、みんなの意見を重視することにつながる。争いを避けるにはいい再組だが、あくまでこれは平時の話。戦時や非常時にまわりの意見を聞きすぎると、戦略目的があいまいになり、さまざまな弊害が出てくる。

 「あの人の意見も入れなければ」「あの人のことも配慮しなければ」と言っていると戦略目的がぼけていき、対策も逐次投入になってしまう。

f:id:maru4049:20210130150113j:plain

真珠湾攻撃で沈没する米戦艦アリゾナ(米海軍歴史センター所蔵)

 例えば真珠湾攻撃の戦略目的は、米戦艦を沈めることもさることながら、燃料庫を徹底的に破壊することだったのに、それを十分にやらずに作戦を終えてしまった。このことは、後に致命傷になった。

和は組織を緩め、前例踏襲をはびこらせる

 和を重視する仲間同士の結びつきはセクショナリズムにつながり、縦割り割拠になることで、組織の中心が消えてしまう。「和」を重視しすぎて信賞必罰ができなくなったことで人事が緩み、能力主義抜擢ばってきも影を潜めてしまう。

 日本の組織は、できた当初は抜擢なども行い、発想も柔軟なのだが、30年もたつと、「誰それが言っているから」とか「前例はこうだから」という理由で重要な決断がなされてしまいがちになる。

 問題点を突き詰めて戦略を立て直そうとすれば、組織の変革が必要になり、内部に摩擦や対立が生まれる。とりあえず日常が回っていれば、前例通りにしていればいいではないか――。山本七平が言う「日常の自転」が始まるというのだ。「それはおかしい」という個人、そして異論を許容する組織を守ることが肝になる、と斎藤さんは言う。 

f:id:maru4049:20210130141749j:plain

コロナとの戦い、過去の教訓をどう生かすか

 インタビューの最後は、「新型コロナと戦いに過去の失敗の教訓をどう生かすか」。斎藤さんは、「ゼネラリストの政治家がスペシャリストの専門家の言うことを踏まえて、大局的見地からハンドリングできるかどうかが大切だ」と強調する。

 コロナとの戦いの戦略目的は、感染の拡大を止め、医療崩壊を防ぐこと。経済への影響をできるだけ少なくすることは、あくまで配慮事項なのだが、様々な意見を聞いているしすぎると、配慮事項がどんどん膨らんで、戦略目的があいまいになり、政策の逐次投入にも陥りかねない。

↑読売新聞オンラインに読者登録すると全文がお読みになれます

 「かつて見た光景が浮かぶ。これではまずいと思った時には戦うつもり。政治家は歴史を学び、それを教訓に動くことが仕事ですから」と斉藤さん。知らないことも多く、勉強になった。

 

 

 

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 テレビブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング

 

 

 

『 麒麟がくる』で「三悪」の汚名晴らした松永久秀

 NHK大河ドラマ麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんが演じる松永久秀(1508〜77)が織田信長(1534~82)に背き、信貴山城で自害した。

f:id:maru4049:20200921014723j:plain

松永久秀(『太平記英勇伝』)

 天下の大名物といわれた平蜘蛛を抱えて爆死するという俗説を採用しなかったあたりは、最新の研究に忠実なこのドラマらしい。久秀のこれまでの「官有梟雄」のイメージは、最近の学説で変わりつつある。

 2020年9月20日放送回では、向井理さんが演じる足利13代将軍義輝(1536〜65)が、永禄8年(1565年)に三好三人衆らに殺害される「永禄の変」が描かれた。しかし、これまでの大河ドラマのように、久秀を将軍義輝暗殺の首謀者として描かなかった。

 義輝が暗殺された後に久秀は、滝藤賢一さんが演じる義輝の弟の覚慶(足利義昭、1537〜97)を匿うなど、三好三人衆とは別の動きをしているが、これまでの大河ドラマではこのこともきちんと描かれなかった。しかし、最近の研究ではこれが史実とみられている。

  • 久秀=悪人のイメージは『常山紀談』から
  • 将軍暗殺時には不在のアリバイ
  •  主君、その嫡男、弟の死も久秀のせい?
  • 大仏を焼いたのは偶発的な“事故”
  • 平蜘蛛の窯はどうなったか
  • なぜ江戸時代に悪役になったのか

久秀=悪人のイメージは『常山紀談』から

 久秀に梟雄のイメージがついたのは、江戸時代の儒学者、湯浅常山(1708〜81)の『常山紀談』にある以下の話が元になっている。

 徳川家康(1542〜1616)が信長を訪ねて会談した時、たまたま信長の傍に久秀がいた。信長は家康に「この男は、平然と3つの悪事をした」と紹介した。3つの悪事とは、

・将軍を暗殺した

・主君とその子らを死に追い込んだ

東大寺の大仏を焼き払った

 紹介された久秀は面目を失った。

 だが、そもそも信長が家康に久秀を紹介したという逸話自体が創作だろう。内容についてはとても信じられない。3つの悪事について、個別に検証してみよう。

f:id:maru4049:20200921014848j:plain

二条御所で三好勢に襲われる義輝(『絵本石山軍記『国立国会図書館蔵)
続きを読む

本来の「年忘れ」に戻る2020年

  新型コロナは年末になって感染拡大の第3波が襲来し、東京都の小池知事が「年末年始コロナ特別警報」を出して、忘年会や新年会を自粛し、帰省を控えるよう呼びかけた。「Go To トラベルキャンペーン」は一時停止され、いつもの帰省ラッシュもない。

 信用調査会社の東京商工リサーチが約1万社に行った調査によると、約9割の企業が忘年会や新年会を開催しないという。同期などとの小規模な忘年会や、部署での納会についても禁止する会社が多い。最後までコロナ禍に振り回された今年こそ、忘年会でも開いて「年忘れ」をしたいところだが、感染拡大を防ぐにはやむを得まい。年の最後のコラムでは日本で約600年続く忘年会の歴史を遡ってみた。

読売新聞オンラインのコラム本文

↑読売新聞オンラインに読者登録するとお読みになれます

第3波が広がるさなかに

 約100年前のスペイン・インフルエンザ大流行では、大正8年(1919年)12月から第3波の流行が始まったとされる。すでに2波にわたる流行を経験していた日本では「呼吸保護器(マスク)をせずに人の集まる場所に行くな」という呼びかけが行われていたが、忘年会や新年会の自粛は呼びかけられていなかったようだ。

f:id:maru4049:20210103232615j:plain

    スペインインフルエンザ流行の経緯(国内の死者数)

 磯田道史さんによると、第3波の兆候を知ったオーストラリア政府は大正9年1920年)1月に日本政府に事実の有無を問い合わせたが、外務大臣だった内田康哉こうさい(1865〜1936)の返答は「寒気とともに患者数は激増しているのは事実だが、前年度流行当時に比べれば、患者数も死者数もなお少数で、10分の1にも達しない見込みだ」というものだったという(2020年5月13日「古今をちこち」より)。

 すでに感染の波を二度も経験していたにもかかわらず、第3波の流行を甘くみていたと言わざるを得ない。政府がこんな調子だったのは、今と違って有識者の危機感もなかったことも一因かもしれない。コラム本文では、帝国学士院(現在の日本学士院)の納会が、参加者のせきやくしゃみでにぎわう中でも強行されたと紹介する大正8年12月15日の読売新聞記事を紹介している。納会は、当時の日本の「学者のすい」たちが感染リスクを踏まえても、やめるべきではないものだったのだろう。

近代忘年会は明治中期から

 社会学者の園田英弘(1947~2007)は著書『忘年会』のなかで、組織的に大人数で年忘れを行う忘年会を「近代忘年会」と名付け、その起源を明治中期と分析している。身分制が解体され、社会が流動化して一獲千金の商機や才能に応じた抜擢ばってきの道が開かれた。旧大名は文明開化に後れを取るまいと社交や接待の場を増やし、薩長藩閥の要人は自らの権勢を示すために派手な会合を開きたがった。庶民も自分が属する集団(会社など)内部の人脈を広げ、外部の人脈を開拓しようとした。

 職業や地位にかかわらず、「年忘れ」は集会や交遊の場を設ける絶好の名目になり、官民を問わず急速に普及した。明治21年1888年)末には、時の首相、黒田清隆(1840~1900)が、各省庁に官費による公用忘年会はできるだけ質素にするよう訓示しているが、その黒田自身が首相官邸に大臣や要人を招いて忘年会を開いている。夏目漱石(1867~1916)が明治38年(1905年)に発表した『吾輩は猫である』には、注釈もなく「忘年会」という言葉が出てくるから、このころまでに庶民にも広く定着したのだろう。

「歳忘」から「年忘」に、さらに「忘年」に

f:id:maru4049:20201231232014j:plain

建部綾足像(『寒葉斎建部綾足』国立国会図書館蔵)

 忘年会という言葉を最初に使ったのは漱石だ、という人がいるが、それは誤り。江戸時代中期の国学者建部綾足あやたり(1719~74)が『古今物忘れ』のなかで、忘年会は「うき(き)一年」を忘れるための会合と紹介している。ただ、建部は本来の「憂きこと」の意味は「忠孝をつくすべき君主や親がとしをとり、老いていくこと」だった、と嘆いている。

 確かに室町時代連歌会を記した記録には「若者とともに(自分の歳=年齢を忘れて)連歌会の納会でこの1年の上達を喜び合った」という記述がある。

f:id:maru4049:20210101150835j:plain

室町時代連歌会の様子。上流階級の社交の場だった(『慕帰絵々詞』国立国会図書館蔵)

 貝原益軒(1630~1714)の『日本歳時記』によると、江戸時代前期には、まだ「目上の人を交えて酒を酌み交わし、1年間を無事に過ごせて、年を越せる(数え年で1つ歳を重ねることができた)ことを喜び合う」のが年末のしきたりだった。室町時代の「歳忘れ」の精神がまだ残っていることがうかがえる。 

f:id:maru4049:20201231232904j:plain

『日本歳時記』挿絵の「年忘」風景(国立国会図書館蔵)

 どうやら「歳忘れ」が「年忘れ」になり、江戸時代に漢字が「年忘」から「忘年」にひっくり返って近代忘年会へと変化したというのがひとつの流れのようだ。

 コラム本文ではその流れを遡るとともに、「年忘」が「忘年」にひっくり返ったきっかけは、江戸中期に「御歳暮」の風習が庶民にも広がったことが関係しているのではないか、と推理してみた。むろん一つの仮説に過ぎず、おそらく近代忘年会に至る経緯は、多元的にさまざまな風習や慣例が交錯しているのだろうから、これだけが真相とは言えないが。

吉良邸討ち入りはなぜ成功したのか

 経緯には諸説あるとしても、江戸中期にはすす払いや大掃除を中旬までに終わらせ、その後で雇い主に「御歳暮」のあいさつをして、「年忘れ」の宴で酒を飲み明かすというのが恒例になったようだ。 江戸の町では年末の仕事は12月13日までに終わらせるのが定着していたという。

f:id:maru4049:20210101153815j:plain

討ち入りは吉良邸納会直後を狙った?(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

 余談になるが、旧暦の元禄15年12月14日(今の暦で1703年1月30日)、赤穂浪士が吉良邸に打ち入ったのは、大掃除の後に開かれた納会の茶会の後だった。園田の『忘年会』によると、吉良邸の警護役は納会も終わり、すっかり気が緩んでいたところを襲われたから浪士たちに太刀打ちできなかったという説があるという。

気の緩みはやはり禁物

 12月31日、東京都の新型コロナ新規感染者数がついに1337人に達し、初めて1000人を超えた。600年の歴史がある忘年会を我慢したのだから、ここで気が緩んでは元も子もない。振り返ってみると忘れてしまいたいことが多かった2020年だが、1日呑んで騒いだくらいでは忘れることはできない。

 不幸にもコロナで亡くなった方々のご冥福を祈り、厳しい状況で奮闘する医療現場の方々に思いを向け、無事にこの1年を過ごせたことを家族とともに静かに感謝する――2020年は本来の「年忘」の年越しに立ち返る年なのかもしれない。

 今年もご愛読、ありがとうございました。

 

 

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 テレビブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング

 

 

 

 

信長の蘭奢待切り取りの真相は

 大河ドラマ麒麟がくる』(12月20日放送)で、織田信長(1534〜82)が、奈良東大寺正倉院宝物の中でも特に有名な伽羅きゃら黄熟香おうじゅくこうを切り取る。文字の中に「東」「大」「寺」の名を隠した「蘭奢待らんじゃたい」の別名のほうが知られる天下の名香木だ。

f:id:maru4049:20181201112201j:plain

最近手に入れた「ガチャガチャjの蘭奢待ミニチュアです

 信長の朝廷に対するスタンスがわかる

 この話をドラマがどのように描くかで、『麒麟がくる』の信長の朝廷に対するスタンスがわかる。以前はこの一件は強引な香木の切り取りは朝廷に対する自らの権力の示威行動と見られていた。証拠としては正親町天皇(1517~93)が、信長の切り取りを「『朝廷の権威をないがしろにした』と激怒した」という史料もあるとされていた。

 しかし、今は信長が前例に配慮して気を遣っており、強引に切り取ったわけではないという見方が定説になっている。証拠とされていた史料はどうやら主語を読み違えており、天皇は信長ではなく、関白の二条晴良(1526〜79)の開封手続きがずさんだったことを怒ったのだというのが今の定説だ。信長の開封手続きは本当に丁寧だったのか、主な流れを振り返ってみる。

開封手続きは本当に丁寧だったのか

 天正2年(1574年)3月23日、信長は塙直政(?~1576)と筒井順慶(1549〜84)を使者に立て、「東大寺の霊宝、蘭奢待を拝見したい」と東大寺へ申し入れた。東大寺が「宝蔵は勅封(天皇御璽で封印)されており、勅使でなければ開封できない」と伝えたところ、信長は4日後に勅使を伴って奈良にやってきて、その翌日には開封の儀式が行われた。

 東大寺は突然の申し入れにあわててはいるが、信長は使者を立てて事前に申し入れており、勅使が必要と聞いて勅使を伴っている。確かにせっかちではあるが、藤原道長(966~1028)がいきなり正倉院を訪れて自分の宝庫のごとく正倉院に入って見物した先例に比べれば、きちんと手順を踏んでいる。

 勅使を確認した東大寺は僧7人を宝蔵中倉に入れて、蘭奢待を大きな櫃ごと持ち出し、信長が待つ多聞山城へ運ばれた。信長が出向くのではなく、自ら待つところに蘭奢待を運ばせたのは無礼にも見えるが、これも自ら正倉院に出向いて中に入るのは畏れ多いから、だったという。

f:id:maru4049:20201220132351j:plain

多聞山城跡
続きを読む