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読売新聞編集委員  丸山淳一

天守閣復旧の熊本城 復旧はこれからが正念場

  

 2016年の熊本地震で傷んだ熊本城天守閣の復旧工事が完了した。5年前に熊本地震に遭遇した筆者にはうれしいニュースだ。だが、復旧工事が完了したのは天守閣と重要文化財長塀ながべいだけで、熊本城全体の復旧はまだ2割程度しか終わっていないとされる。

 復旧がすべて完了するのは2037年度の予定。まだ16年以上先のことだ。完全復旧がいかに気の遠くなるような作業かについては以前にも触れたが、熊本地震から5年の節目にあわせ、改めてまとめた。

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  •  気が遠くなるような石垣の積み直し 
  • 西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価
  •  元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も
  •  明治熊本地震からの復旧、裏に2人の巨頭 
  •  宇土櫓を倒壊から救った昭和の解体修理

 気が遠くなるような石垣の積み直し 

 天守閣は昭和35年(1960年)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート建造物で、重要文化財ではないから早く復旧できた。しかし、やぐらなどの重要文化財建造物は解体して取り出した瓦や柱などを可能な限り使って元通りにしなければならない。

 さらに難題なのは石垣だ。崩落した石垣はもちろん、変形した石垣も、すべて地震の前の状態に積み直す必要がある。崩落時に割れた石は貼り合わせて使う。再使用が無理な石は新しい石に差し替えるが、形は崩落した石と寸分違わぬように加工する。再び大きな地震が来ても石垣が崩れないように、崩落の原因を究明する必要もある。

 熊本地震では全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの石垣が被災し、このうち8200平方メートルで石垣が崩落したが、天守閣の復旧工事に伴って積み直した石垣は740平方メートルにすぎない。積み直しが必要な石は一説には10万個を超える。

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 1列の隅石すみいしが櫓を支え、「奇跡の一本石垣」が有名になった飯田丸五階櫓はすでに解体されているが、石垣の積み直しは今年度から始まる。戌亥櫓いぬいやぐら地震から5年たった今も「一本石垣」の状態が続き、今年度からようやく建造物の解体・保存工事に着手する。

 重要文化財宇土うと櫓の復旧も難航が予想される。建物は傾き、外壁の漆喰しっくいが落ちるなど大きな被害が出たが、より深刻なのは櫓が立つ巨大な高石垣に「はらみ(膨らみ)」が出ていることだ。

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加藤清正(『肖像』国立国会図書館蔵)
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川中島の合戦で捏造された「戦いに勝った証し」とは

 コロナ禍が長期化し、全国各地のお祭りやイベントの多くが延期や中止、縮小を余儀なくされている。戦国武将、武田信玄(1521~73)の命日(4月12日)にあわせて開催される山梨の春の風物詩、甲府市の「信玄公祭り」も10月下旬に延期された。信玄の好敵手、上杉謙信(1530~78)の地元、越後・春日山新潟県上越市)で毎年8月下旬に開かれている「謙信公祭けんしんこうさい」は縮小され、川中島に出陣する越後軍団の武者行列などは2年続けて行われない予定だという。

 残念だが仕方ない。今年は信玄の生誕500年という節目の年だけに、節目の祭りは命日より誕生日(11月3日)にあわせて行う方がふさわしいかもしれない。

  • 史料によって大きく異なる合戦の記録 
  • 一騎打ちは原野で?川の中で?
  •  上杉方の合戦記は誰が書いたのか
  • 紀州藩の軍師がなぜ上杉の軍記を書いたのか
  •  『甲陽軍鑑』の写しを手に出奔、定行の子孫名乗る
  • 頼宣は本当に勝興に騙されたのか

史料によって大きく異なる合戦の記録 

 信玄と謙信が信濃北部の領有権を巡って激突した川中島の合戦は、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで12年にわたって続いたといわれる。特に永禄4年(1561年)の合戦は最大の激戦となり、信玄も謙信も合戦直後から自軍の勝利を喧伝けんでんしている。負けを認めたとたんに求心力を失う戦国武将として当然の振る舞いではあるが、勝者がはっきりしないもうひとつの理由について取り上げた。

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 互いに「勝った」というだけならよくある話ともいえる。しかし、主な戦いだけで5回あったとされる川中島の合戦については、武田方の史料『甲陽軍鑑』と上杉方の史料『川中島五箇度合戦記』(『合戦記』)の時期や経緯がことごとく異なっている。f:id:maru4049:20210812231518j:plain

一騎打ちは原野で?川の中で?

 『甲陽軍鑑』は「啄木鳥きつつきの戦法」や「車懸くるまがかりの戦法」を永禄4年の第4回合戦での出来事とするが、『合戦記』では第3回合戦の出来事となっている。最大の違いは信玄と謙信の一騎打ちで、『甲陽軍鑑』では第4回合戦に八幡原はちまんぱらで行われ、信玄が軍配で謙信の太刀を受け止めるが、『合戦記』では第2回合戦のシーンとされ、信玄と謙信は御幣川おんべがわの中で、ともに馬上で太刀を交わしたことになっている。

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信玄・謙信の一騎打ちを描いた錦絵の陸上版(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

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信玄・謙信の一騎打ちを描いた錦絵の水中版(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

 『合戦記』はわざわざ「一騎打ちが第4回合戦で行われたという甲陽軍鑑の記述は誤りだ」と記しているから、どうやら『合戦記』は先に世に出た『甲陽軍鑑』を読んで書かれたようなのだが、両雄が一騎打ちをした可能性がある最大の激戦は、『甲陽軍鑑』が記す通り、第4回合戦だったことはほぼ間違いない。なぜ『合戦記』は虚偽とみられる経緯を強調したのだろう。

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鎖国下で進められた人類初ワクチンの接種

 先進国ではワクチン接種が遅れたところに、感染の第4波がやってきた。ワクチンについては副反応を懸念して接種しない人もいるが、効き目を信じている人も打つワクチンがなければどうしようもない。こんな状況で東京五輪が本当に開催できるのか、疑問を持つ人は少なくない。

 しかし、日本はかつて、鎖国下の正確な情報が乏しい中で、人類初のワクチンとなった天然痘ワクチン(痘瘡)をものすごいスピードで拡げたことがある。今回は江戸時代にあったワクチン接種プロジェクトの話を取り上げた。

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  •  人類初のワクチンを鎖国下で拡散
  • 牛痘より前から始まっていた人痘
  •  届いていたワクチン開発のニュース 
  • バタビアルートでついに到着
  • 漢方医らの“抵抗勢力”にもめげず
  • コロナワクチン接種は遅れているが…

 人類初のワクチンを鎖国下で拡散

  天然痘はWHO(世界保健機関)が1980年、全世界で撲滅されたと宣言した唯一の感染症だ。ワクチンは1796年、イギリスでエドワード・ジェンナー(1749~1823)が雌牛からとった牛痘ぎゅうとうを使って開発した。このワクチンは人類が初めて手にしたワクチンで、「ワクチン」の語源がラテン語のvacca(ワッカ=雌牛)なのは、初のワクチンが牛痘から開発されたためだ。

 ウシから取った痘苗をヒトに接種するのだから、欧米でも当初、抵抗があったのは当然だろう。ジェンナーの論文は最初は英国の学会(王立協会)でも相手にされず、効果があるとわかってからも「接種すると角が生え、牛になる」といううわさが広がった。

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1802年に描かれたアメリカの天然痘ワクチン接種の風刺画(米議会図書館蔵)

 欧米ですらこんな調子だったのだから、日本ではさぞ普及に時間がかかっただろうと思いきや、意外にも日本の対応は早かった。長崎に外国製の痘苗が上陸したのは嘉永2年(1849年)のことだが、この時日本はまだ鎖国をしていたにもかかわらず、上陸したその年に痘苗は江戸まで広がっている。

 開国の5年前、明治維新より20年近くも前に、欧米でさえ進まなかったワクチン接種を進めたのは、緒方洪庵(1810~63)を中心とする民間蘭学者のネットワークだった。

牛痘より前から始まっていた人痘

 天然痘の有効な治療法はなかったが、死を免れると二度かかることはほとんどないことは古くから知られていた。寛政2年(1790年)には秋月藩(福岡県)の藩医、緒方春朔しゅんさく(1748~1810)がジェンナーより6年も早く、清(中国)から伝えられた「患者のかさぶたを鼻から吸う」方法で日本初のワクチン接種を行ったとされる。

 ジェンナーの牛痘ワクチンはほとんど無毒なのに対し、人のウイルス(人痘)を使う春朔の方法は、天然痘にかかった人のウイルスをそのまま使う危険な方法だった。だが、のちに牛痘を普及させる洪庵も、牛痘を手に入れるまでは人痘を使っている。牛痘より前に免疫の有効性が実証されていたことが、早期のワクチン普及を後押ししたといえる。

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ジェンナー(左、『中外医事新報』)と緒方春朔(右、『医学先哲肖像集』)
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貞観津波と「末の松山」が物語る震災忘却の歴史

 マグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)から10年がたつ。今年も「3・11」には、新聞もテレビも「あの巨大地震を忘れてはならない」と特集記事や特番を組む。あの悲劇を思い出したくないと思う人もいるだろうが、やはり、これは続けなければならない。人間は忘れる生き物なのだ。

 それは、10年前の地震に匹敵する超巨大地震だったとみられる貞観じょうがん11年(869年)5月26日夜に発生した貞観地震の伝承でもうかがい知ることができる。コラム本文では、貞観地震の教訓を歌枕にした和歌に注目し、地震の記憶が人々からいつごろ、どのように消えていったかを紹介した。

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  •  津波が決して届かない届かない「末の松山」
  •  元歌の特異点から浮かび上がるのは
  • 貞観地震の詳しい状況、朝廷に残らず
  • 地震はまた必ずやってくる

 津波が決して届かない届かない「末の松山」

 貞観地震による大津波で仙台平野はほぼ一面が冠水したが、国府多賀城の宝国寺にある末の松山(宮城県多賀城市八幡)には届かなかった。「末の松山」は「決して波が越えることがない地」として、好んで和歌に詠まれる言葉(歌枕)となった。

 最も有名なのは、小倉百人一首にも選ばれた清原元輔きよはらのもとすけ(908~990)が詠んだ『後拾遺ごしゅうい和歌集』にある歌だろう。元輔は『枕草子』の作者、清少納言(966?~1025?)の父で三十六歌仙のひとりという高名な歌人だ。

 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
 (私たちは心変わりすることはないと約束したのに。お互いの着物の袖が涙で絞れるくらいらして、末の松山を波が越えることはないのと同じように)

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百人一首の絵札に描かれた元輔

 この歌には、元になったと思われる歌がある。『古今和歌集』に収められた陸奥の詠み人知らずの歌だ。

 君をおきて あだし心をわが持たば 末の松山 波も越えなむ
 (あなたを差し置いて、他の人への浮気心を持つようなら、末の松山を波が越えてしまうでしょう)

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『青天を衝け』渋沢栄一のすごさを知る三つのポイント

 「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一(1840~1931)を吉沢亮さんが演じるNHK大河ドラマ『青天を衝け』が始まった。渋沢は3年後には福沢諭吉(1835~1901)に代わって1万円札の顔になる。

 波乱万丈の人生は、大河ドラマの主人公にふさわしい。天保から昭和まで11もの元号を生き抜いた栄一は、幕末には尊王攘夷運動に傾倒し、明治維新を軌道に乗せ、大正時代には関東大震災からの復興に尽くし、昭和には国際協調にも尽力して、2度もノーベル平和賞の候補になった。言論を通じて日本の近代化を進めた福沢の思想を、実務面から形にしたのは渋沢だ。福沢の後の1万円札の顔としても最適任だろう。

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 今回のコラムは『青天を衝け』のガイドブックのつもりで書いたが、渋沢の生涯については自叙伝を含め、多くの記録が残っている。エピソードが多い一方で創作がしにくいわけで、大河ドラマがどこまで史実に忠実に描くのかも楽しみにしている。

  • 栄一成功の3つのポイント(1)相手の懐に飛び込む
  • 栄一成功の3つのポイント(2)官尊民卑を嫌う
  • 栄一成功の3つのポイント(3)利をひとり占めしない
  • 「資本主義の父」は今の市場をどう見るか

栄一成功の3つのポイント(1)相手の懐に飛び込む

 渋沢は倒幕の火付け役になろうと高崎城(群馬県)を乗っ取って横浜を焼き討ちする計画を立てるが、直前に取りやめる。横浜では外国人は見つけ次第斬る計画だったから、これは今なら立派なテロだ。

 計画を直前に取りやめたのはいとこの尾高長七郎(1836~68)から「うまくいくはずがない」と止められたからだが、栄一はすでに150両も使って武具などを買いそろえていた。普通なら取りやめずに決行するところだ。いとこの反対を無視していたら、その後の栄一の活躍はなかった。

 テロ計画の発覚を恐れて京都に逃げた栄一は、かつて江戸で知り合った一橋慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)に会いに行き、平岡の計らいで一橋家に仕える。慶喜が将軍になると、渋沢も幕臣に取り立てられる。京都では身を潜めるどころか、面識がなかった西郷隆盛(1828~77)にも会って同じ鍋をつついている。

 渋沢は、自分の間違いに気づいたら、すっぱりと方針を変える柔軟さを持っていた。自ら相手の懐に飛び込み、「人の話をよく聞く」ことができたからだろう。

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『麒麟がくる』本能寺の変の今の学説は?

 大河ドラマ麒麟がくる』が完結した。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を襲ったこのクーデターは、光秀の動機を巡る論争が続き、「戦国最大のミステリー」と言われる。

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 真相究明はどこまで進んでいるのか。最新の研究では、変の首謀者は、ドラマではあまり目立たなかった須賀すが貴匡たかまささんが演じた光秀の家老、斎藤利三としみつ(1534~82)だとみられている。

光秀は本能寺にいなかった?

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斎藤利三月岡芳年『月百姿』国立国会図書館蔵)

 最新の研究といえば、富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔さんが「光秀は変の当日、本能寺の現場にはいなかった」とする説をまとめて話題になっているが、利三はこの説にも深い関係がある。

 萩原さんは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する『乙夜之書物いつやのかきもの』という書物に、変の当日、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」という記述があることに注目した。

 『乙夜之書物』が書かれたのは本能寺の変から87年も後で、これだけ時間が空いた記録には後世の脚色や創作が入り込むため、信ぴょう性は低いとされる。だが、この話は変に従軍した利三の三男、斎藤利宗(1567~1647)が、加賀藩士だったおいに語った内容だ。利三に近い人物の証言だからこそ、ここまで注目されているわけだ。

 過去の大河ドラマでも『麒麟が来る』でも、光秀は例外なく本能寺に行き、距離は近くはないが、信長に面と向かって口上を述べるシーンもあった。そのせいか、私も光秀は本能寺に行ったことには何の疑いも持たなかった。だが、言われてみれば、信ぴょう性が高いとされる史料に「光秀は本能寺にいた」とはっきり書かれたものはない。

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 だが、では鳥羽で決まりかというと、それにも疑問がある。光秀が控えたという「鳥羽」(京都市伏見区)は、当時の本能寺(今の本能寺の位置ではない)から8キロ近く離れている。丹波亀山城から山陰道を進んで京都に入った光秀は、七条大路から七条堀川を右折して本能寺と逆の方向に布陣したことになり、ちょっと不自然だ。 

山崎の戦いまで本陣は鳥羽南殿付近か

 光秀は山崎の戦いの2日前の同年6月11日、下鳥羽の鳥羽離宮南殿なんでん伏見区中島鳥羽離宮町)付近に布陣したという記録がある。「利宗が本能寺と山崎の戦いの記憶を混同していたのでは」という声もある。

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はたして本能寺に光秀はいたのか(『新書太閤記国立国会図書館蔵)

 この点について萩原さんは「鳥羽に布陣したのは万一信長を討ちもらした際に、信長が大坂にいた三男、織田信孝(1558~83)のもとに逃走するのを阻もうとしたのでは。鳥羽は交通の要衝ようしょうで、兵力を機動的に動かしやすい。光秀は本能寺の変から山崎の戦いまで、ずっと軍の主力を鳥羽においていたかもしれない」と話す。

 「光秀は桂川を渡ったところで全軍に本能寺襲撃を告げた」という史料もある。光秀軍の主力は七条大路に入らず、桂川の川岸から南東の鳥羽に向かい、本能寺に向ったのは利三隊など一部だけだったというシナリオもありうる。

 

利三が直面していた2つの大問題

 この時、大坂に信孝がいた理由にも、利三が深く関わっている。利三は本能寺の変の直前に「四国問題」と「切腹命令」という2つ問題に直面していた。

 「四国問題」とは、信長の四国統治の方針が急に変わり、四国の長宗我部元親ちょうそかべもとちか(1539~99)とのパイプ役だった光秀が窮地に陥ったというものだ。光秀が取次役になったのは、利三が元親の親戚(小舅)こじゅうとだったためだ。

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長宗我部元親(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 本能寺の変が起きた時に信孝が大坂にいたのは、変の翌日の6月3日、四国攻めのために渡海するためだった。つまり、本能寺の変は長宗我部氏との衝突を阻止するためだった可能性があるということだ。

 「切腹命令」とは、『稲葉家譜』などにある話で、天正10年、光秀と稲葉一鉄(1515~89)が稲葉家の家老だった那波なわ直治なおはるを奪い合って訴訟沙汰になり、直治の引き抜きに加担した利三が信長から切腹を命じられた問題だ。結局、信長の側近がとりなして信長も切腹命令は取り消したが、「直治は稲葉家に戻せ」という命令が出たことは史料で確認できる。その日付は天正10年5月27日。当時の暦では5月は29日までしかないから、本能寺の変のわずか4日前ということになる。

 このころ、安土城で信長が光秀を足蹴にしたという話があり、それは以前にもこのコラムで紹介した。利三に対する切腹命令は取り消されたが、光秀の敗訴は明らかで、利三も無罪放免ではなかったはずだ。

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亀山城址に立つ光秀像

光秀は追い詰められていた

 徳川家の史料『当代記』によると、この時光秀は「利三を隠した(かくまった)」という。6月1日、利三は外部から丹波亀山城に入り、そこから光秀らとともに本能寺に向かっているが、亀山城で利三の顔を見た光秀はたいそう喜んだという。光秀は信長の命令を無視して利三をかくまっていたとすれば、見つかれば光秀も処罰される可能性がある。光秀は追い詰められていた。

伏線を回収しきれなかった

 「四国問題」の詳しい経緯はコラム本文に記したのでお読みいただきたい。『麒麟がくる』の感想もコラム本文にあるので重複は避ける。

 「非道阻止説」をベースにしたのはドラマとしては理解できるし、そうでなければ光秀は視聴者に勇気や希望は与えられない。だが、「四国問題」も「切腹命令」も、せっかく伏線(切腹命令の方は利三をめぐるトラブルだったが)を張っておきながら、回収しきれなかった。やはり終盤の「尺」不足が残念だった。本能寺の変を扱った大河ドラマで「四国問題」を扱ったのは初めてだというから、それだけでも画期的とはいえるのだが。

 

 

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『麒麟がくる』本能寺のトリガーは家康?は大外れだったが…

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織田信長

 麒麟がくる』最終回の本能寺の変については、ドラマの結末を見てからもう一度書く、と前回のコラムに記したが、公表された最終回の粗筋を読んで言っておきたいことができた。本能寺のトリガーは家康暗殺指令になる恐れがあるが、それはないと思う。

気になる「究極の命令」の内容

 15分延長で描かれる最終回のあらすじは以下の通りだ。

 「宿敵・武田家を打ち滅ぼした戦勝祝いの席で、光秀は信長から理不尽な叱責を受け、饗応役の任を解かれる。追い打ちをかけるように信長は、光秀と縁深い四国の長宗我部征伐に相談もなしに乗り出すと告げる。『殿は戦の度に変わってしまった』と、その行き過ぎた態度をいさめる光秀に、『己を変えたのは戦ではなく光秀自身だ』と信長は冷たく言い放つ。そしてついに、ある究極の命令を光秀に突き付ける――。」

 気になるのは最後の「究極の命令」だ。すでに謀反に傾いている明智光秀(?~1582)を本能寺の変に走らせる、とても呑めない命令であることは間違いない。

 前のコラムで、光秀が織田信長(1534~82)を月に昇る「桂男」に見たてているのは、本能寺の変と暦との関係を描くつもりではないかと考え、信長が朝廷の大権だった暦の制定にも介入しようとしていたことを紹介した。しかし、暦の改変工作を光秀に命じたというのだけでは、謀反の理由としては弱い。暦の改変を信長の「非道」のひとつとしても、その改変工作を命じたくらいでは究極の命令とはいわないだろう。

史実に従うなら斎藤利三への切腹命令

 本能寺の変直前に信長が光秀に出したと伝わる中で信ぴょう性が高いとみられているのは、主君を稲葉氏から光秀に鞍替えした斎藤利三(1534~82)に対する「切腹命令」だ。直接これを裏付ける証拠はないが、利三とともに光秀に引き抜かれた稲葉家の家臣、那波直治については、信長が「法に背く」として稲葉氏に返すよう裁定した書状が残っている。この時期に稲葉家と光秀が家臣をめぐって揉めていたのは間違いない。

 最終回には長曾我部元親(1539~99)も登場するというから、謀反の理由には「四国説」の要素も加えるのだろう。利三は元親と親戚関係にある。利三が四国攻めに反対し、切腹させよと光秀に命じて光秀の堪忍袋の緒が切れる、という展開はありうるが、究極の命令というには、やはり弱い。ドラマでは利三の引き抜き問題を最初に光秀に話した時、信長は「小さい話」と言っていた。

 もうひとつ、信長が光秀に、領国の丹波、近江を召し上げて、石見、出雲への国替えを命じたという話もある。しかし、領国の再編成は「大きな国をつくる」ためには避けて通れず、光秀は領国を召し上げられて追放されるわけではない。

 では、だれもが「究極」と納得する命令は、と考えると、思い浮かぶのがドラマ終盤に光秀に急速に接近している徳川家康(1543~1616)の暗殺命令くらい残らない。

まさかの家康暗殺命令か

 家康が本能寺の変を事前に知っていたという筋書きが大河ドラマで描かれるのは初めてではない。2017年に放送された『おんな城主 直虎』でも市川海老蔵さん(『麒麟がくる』ではナレーター)が演じる信長が家康暗殺を光秀に命じる展開だった。堺にいる家康を本能寺におびき出し、光秀に襲わせるつもりが、光秀の謀反にあって殺されたという説で、光秀の子孫だという明智憲三郎氏が唱えている説だ。暗殺命令の動機は宿敵の武田氏を滅ぼし、もはや家康は用済みになったからというのだが、これはおかしい。

 信長が家康を暗殺したいなら、わざわざ本能寺におびき寄せなくても、安土の饗応の席で襲えばいい。まだ東国が安定しておらず、信長とは友好的な姿勢をとっているとはいえ、小田原には北条氏がいる。家康を殺す戦略的な理由はどこにもない。

戦略的な暗殺動機はないが…

 戦略的な動機がなければ、感情的な動機で押し通す?まさか、自分になびかない光秀を慕う家康に嫉妬したのが殺害の動機、とはすまい…と書いたところで、いや、あり得るなと思い直した。ドラマの中で信長は、宣教師からもらった洋服を贈ったり、いっしょに鼓を打とうと誘ったり、官位をあげるといったりして、光秀の気を引こうとしている。なのに光秀との溝は深まる一方で、光秀は信長になびくどころか、特段何の便宜も図っていない家康と仲良くしている。

 ひょっとして、家康を殺せば光秀は自分の方を向くだろう、という屈折した心理から家康暗殺を命じる筋書きではないか。そうなると、光秀は家康は殺さず、岡村隆史さんが演じる菊丸に「本能寺には行くな」とでもメッセージを託し、家康を逃がすのだろう。岡村さんのコメントは、この予想と符合する。

終盤が駆け足過ぎたのが残念だ 

 もし筆者の予想が当たっていたとしたら、飛躍が過ぎる。ドラマはフィクションだからどう描いてもいいのだが、家康暗殺命令説は学会ではほとんど支持されておらず、時代考証を担当した小和田哲男さんも著書の中で明確に否定している。現時点では「陰謀論」の類といえる。フィクションゆえの細部の創作はいいとしても、信長と家康の関係を決定的に左右する出来事を創作するのはいかがなものか。

 『麒麟がくる』は途中までは最新の学説も取り入れた骨太の大河ドラマと評価していたが、終盤になるにつれて光秀が鞆の浦に行ったり、帰蝶を上京させて「信長に毒を盛る」と言わせたり、家康が船に乗って会いにきたりという荒唐無稽な創作シーンが増えていた。

 全部で44回しかない尺不足のせいで、あわただしく伏線を張って、架空の人物やシーンを挿入して無理に回収している感がぬぐえない。最終回の台本が書きあがったのは昨年12月初めだったというから、コロナの影響もあったのだろう。ドラマの中で「信長様は焦っている」というセリフがあったが、焦っているのはドラマの方ではないか。

 もはや最終回もl撮り終えた時点でこんなことを書いても仕方ないけれど、大河ドラマはやはりホームドラマとは一線を画してほしいと思うのは、私だけだろうか。「家康暗殺命令」は、見当違いの筆者の嫌な夢であってほしいが、桂男のくだりまでは、筆者の予想はおおむね当たっている。

            ◇

 日曜日の最終回、BSの「早麒麟」と総合の「本麒麟」2回視た。上記の結果は大外れ。「義昭暗殺命令」だったとは…。このころ義昭は、身を寄せていた毛利からも疎んじられていたというし、ドラマの中では釣りしかしておらず、もはや影響力はなかったと思う。家康でなくてよかったが、これも史実とは思えず、将軍の影響力を過大評価しすぎだろう。

 『麒麟がくる』の筆者なりの総括は、コラム本文で書くことにする。

*2月9日に加筆しました。

 

 

 

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