熊本県山都町にある日本最大級の水路石橋、通潤橋が“国宝に指定される見通しとなった。
通潤橋は2016年の熊本地震で通水管が破損し、2年後の豪雨で石垣の一部が崩落し、20年7月に復旧した。安全上の問題からその後も半年間は一般の通行は禁止されてきた。今回は「日本一の石橋王国」熊本の歴史を調べてみた。
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全国に残る石橋の半分は肥後に
筆者は熊本のテレビ局に勤務していた2016年4月14日、16日に熊本地震に遭遇し、東京に戻ってからも熊本の復旧・復興を見つめてきた。これまでこのコラムでも熊本城と阿蘇市の阿蘇神社について取り上げている。
熊本地震で被災した歴史的な建造物はほかにも多い。通潤橋など江戸時代後期から明治時代にかけて造られたアーチ式石橋もそのひとつ。肥後(熊本県)には「 目鑑(眼鏡)橋」と呼ばれるアーチ式石橋が約340もあり、全国の石橋の約半分が集中する「日本一の石橋王国」なのだ。
熊本地震やその後の豪雨で被災した石橋は、国や県、市町村が文化財に指定したものだけで20にのぼる。橋の数が多すぎて、文化財以外の石橋の被災・復旧状況は、熊本県も 全貌 をつかめていないが、主な橋は通潤橋の完全復旧で、ほぼ元に戻ったようだ。
官民協力で磨かれた匠の技術
通潤橋は周囲を峡谷に囲まれた白糸台地に農業用水を送る水路橋として嘉永7年(1854年)に架けられた。建設を主導したのは地元、 矢部手永の 惣庄屋だった布田保之助(1801~73)だ。
「手永」はいくつかの村を束ねる熊本藩独特の行政区画で、「惣庄屋」はその責任者。保之助は住民代表だった。通潤橋の建設費の大半は豪農や、地元住民の寄付で賄われている。つまり、通潤橋は「もっと豊かになろう」という地元住民の総意と、それを後押しした藩の「官民協力」によって建設されたわけだ。
こうした農民らに招かれる形で、優秀な技術を持つ石工 の集団が熊本に定住し、石橋文化が花開いた。通潤橋の建設には41人もの石工が参加し、知恵を持ち寄って難題を解決している。現在の熊本県八代市には当時、「野津石工」と「種山石工」という二つの石工集団があり、通潤橋の石工を率いたのは種山石工の宇市(1819~71)、丈八(1822~97)、甚平(生没年不明)の3兄弟だったという。
実際に造った人が名を残した
種山石工の祖とされる藤原林七(?~1837)については「長崎で石橋の技術を学ぼうとオランダ人に接触し、丈夫な石橋の構造に円周率が関係しているという秘密を知ったが、鎖国中に外国人と接触したことが露見して長崎から逃亡し、採石場があった種山村に流れついた」という逸話がある。「円周率の秘密」や「門外不出の秘伝」といった話はほぼ後世の作り話のようだ。
だが、それでもよく「鶴岡八幡宮は源頼朝、金閣寺は足利義満が建てたといわれるが、歴史的建造物を実際に造ったのは殿様ではない。実際に造った人の名は残らない」と言われることを考えれば、後世に石工の棟梁の名前が残っているのはすごいことだ。
ちなみに丈八は通潤橋を造った後に橋本勘五郎と名を改め、明治新政府にスカウトされて、東京で浅草橋や万世橋を造り、やはり名工としてその名を残している。
石工(技術者)が惣庄屋(事業主)と藩の地方役人(監督官庁)と知恵を出し合い、手柄を分け合って功績はきちんと評価する。今でいう「産学官の連携」が進んだことが、熊本に石橋文化が花開いた最大の理由ではないか。
※文化審議会が2023年6月23日、通潤橋の国宝措定を答申した事実を追加するため記事を修正しました。
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