今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

安倍元首相の殺害を過去6人の宰相殺害から考える

 奈良県参院選の街頭演説中だった安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。憲政史上最長の在任記録を持ち、首相退任後も自民党最大派閥の領袖りょうしゅうだった政界の中心人物が、選挙期間中に銃殺された衝撃は大きい。

 銃撃したのは奈良市に住む無職、山上徹也容疑者。立場や主張の違いを超えて、与野党や言論界、メディアなどが一斉に「卑劣な言論封殺は断じて許されない」と声を上げ、凶行を非難した。今回の事件が民主主義後退のきっかけになってはならないからだ。 

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  • 戦後初めて首相経験者の殺害が起きてしまった
  • 過去の動機も必ずしも明らかではない
  • 「民主主義の危機」は大袈裟ではない

戦後初めて首相経験者の殺害が起きてしまった

 現職の首相や首相経験者が襲撃されて命を落としたのは戦後初めてだが、戦前には6人の現職首相や首相経験者が殺害されている。それぞれの事件の衝撃は時代の「空気」を変え、民主主義政治は後退し、その後の日本の歩みに大きな影響を与えている。

コラム本文では6人の宰相(首相経験者)が殺害された事件を当時の読売新聞紙面とともに振り返っている。五・一五事件で殺された犬養と、二・二六事件で殺された斎藤、高橋は、軍の青年将校らが一斉に決起した組織的クーデター(未遂)で、それ以外の事件や今回の安倍元首相殺害とはかなり態様が異なる。ただ、殺害動機やその後の展開を見ると、これらの事件にはいくつかの共通点もある。

 

" 戦前に殺害された6人の首相経験者。左上から時計回りに伊藤博文原敬浜口雄幸高橋是清斎藤実犬養毅(いずれも国立国会図書館蔵)

 コラム本文で詳しく紹介しているが、いくつかの事件に共通点を順不同であげてみると、以下のようになる。

1、犯人は殺害によって社会に衝撃を起こし、自らの主張を広く伝播させようとした思想犯である(伊藤、犬養、斎藤、高橋殺害のケース)

2、殺害相手に対して恨みを持っていない(伊藤、原、浜口、犬養、斎藤、高橋殺害のケース)

3、なぜ首相経験者を殺害しなければならなかったのか、多くの人が納得できる理由がない(原、浜口殺害のケース)

4、凶器が銃だった(伊藤、浜口、犬養、斎藤、高橋のケース)

5、犯人に対する同情論が高まり、助命嘆願運動が起きている(犬養殺害のケース)

6、逮捕後の取り調べや裁判で犯行動機の追求が不十分で、背後関係が明らかにならなかった(原、浜口殺害のケース)

7、犯人(または組織の主犯格)が実刑服役後に出所し、戦後も政治的活動を続けている(原、浜口、犬養殺害のケース)

安倍元首相
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選挙の後に不要論…参議院はなぜ必要とされたのか

 参議院議員選挙は、当初の予想通り与党の大勝という結果となった。選挙戦の終盤戦で安倍元首相が狙撃され死亡するという予期せぬ事件が起きたが、選挙結果には大きな影響を与えなかったようだ。

 当選した議員の顔ぶれを見て、SNSには「参議院不要論」を説く人が増えているのは、やや不思議な気がする。当選した人が議員にふさわしいかどうか、議論するのは構わないが、当選者は不正をしたわけではない。筆者は参議院不要論を否定する気はないが、良くも悪くもこれが民意である以上、「こんな人が当選するなら参議院はいらない」というのは筋違いだろう。 

 参議院が「衆議院カーボンコピー」とやゆされ、存在意義を問う声が出ていたのは最近のことではない。なのに参院各会派でつくる参院改革協議会は今年6月、改革を選挙後に先送りしている。今度こそ改革議論に真剣に向き合わなければ、参議院不要論はますます広がるだろう。

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 貴族院に代わって戦後に設けられた参議院は、なぜ必要とされたのか。そもそも、なぜ「参議院」なのか。議員たちが「議論に参加する」だけえなく、真剣に改革に向き合っているかどうかを確認するためには、参議院誕生の歴史を知っておくべきだ。

「議論に参加する」から参議院

 なぜ参議院が必要なのか。この問いに対する答えは、よく「衆議」「参議」の言葉の意味から説明される。「大勢の人(衆)が集まって議論する」衆議に対し、参議は文字通り「議論に参加する」こと。大衆の代表が議論する衆議院とは異なる目線で議論に参加し、それだけでなく衆議院の行き過ぎや見落としをチェックするから参議院。国民に代わって議論する「代議士」が衆議院議員だけの別名なのも、参議院が「良識の府」「再考の府」と呼ばれるのも、このためだ。

 日本政府の憲法改正作業のなかで初めて「参議院」の名前があがったのは、昭和20年(1945年)12月、幣原喜重郎(1872~1951)首相が憲法学者松本まつもと烝治じょうじ (1877~1954)を委員長として発足した憲法問題調査委員会(松本委員会)での議論の場だった。委員会に出された大日本帝国憲法の改正試案では「公議院」「元老院」「審議院」など、実にさまざまな名前が提案され、「参議院」はそのうちのひとつだった。

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名将というより優秀な経済官僚だった河井継之助

 コロナ禍の影響などで公開が3度も延期された映画『峠 最後のサムライ』が公開された。原作は司馬遼太郎(1923~96)の同名小説で、主人公は役所広司さんが演じる越後(新潟県)長岡藩の家老、河井継之助(1827~68)。戊辰ぼしん 戦争のなかでも最大の激戦とされる北越戦争で、数に勝る新政府軍をさんざん苦しめた幕末の風雲児だ。映画を観たうえで、継之助の決断について考えてみた。

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  • 非戦から開戦に…藩内は一枚岩ではなかった
  • 藩政改革で戦力を過信?
  • 継之助は名将ではなく能吏だった
  • 職業訓練格差是正…いまでも通用する経済政策
  • 焦土、朝敵となった長岡藩を引き継いだ2人

河井継之助河井継之助伝』国立国会図書館蔵)

非戦から開戦に…藩内は一枚岩ではなかった

継之助は旧幕府軍会津藩など東北諸藩軍(映画では東軍)にも新政府軍(同じく西軍)にも くみしない「非戦中立」を掲げるが、その願いがかなわないと知ると、藩をあげて新政府軍と戦う道を選ぶ。一度は失った長岡城を奪還するなど善戦するが、数で勝る新政府軍の反撃を受けて敗走し、会津に逃れる途中に戦いで受けた傷が悪化して力尽きる。

 映画は司馬の小説通り、継之助を誇り高きサムライとして描く。しかし、継之助が戦う道を選んだ結果、長岡は焦土と化し、多くの領民が命を失い、家を焼かれた。原作も映画も描いていないが、戦いの最中には戦争継続に反対する藩内の農民が一揆をおこし、少なからぬ藩士が継之助と たもとを分かち、新政府軍に投降している。

 司馬は「新政府軍に恭順しても会津との戦いの先兵に回されるだけだった」と説明しているが、同様の立場に追い込まれた仙台藩は、あらかじめ会津と示し合わせて戦うふりをして窮地をしのいでいる。

藩政改革で戦力を過信?

 歴史家の安藤優一郎さんは著書『河井継之助』のなかで、継之助が開戦に転じたのは継之助の「過信」が原因、と分析している。藩政改革による富国強兵に成功した継之助が藩の自衛力に自信を持ち、自分なら新政府と会津の和解も周旋できると過信した、というわけだ。

 開戦直前、新政府軍と長岡藩軍がにらみ合う中で行われた 小千谷おじや・慈眼寺での談判で、河井は新政府側の軍監、岩村精一郎(1845~1906)を相手に「今は内戦で国土を疲弊させる時ではない」と力説し、自分が新政府と会津の和平を取り持つと申し出た。

 精一郎は全く聞く耳を持たず、総督府への嘆願書の取り次ぎも拒んだことはのちに非難される。だが、精一郎は「談判で継之助は 傲然ごうぜん たる態度を取り、議論で圧服しようとした」と釈明している。若い精一郎を議論で打ち負かそうとしたなら、自らの力を過信した継之助にも非があったことになろう。

継之助は名将ではなく能吏だった

 実は継之助は名将としてより、経済官僚としての手腕の方が際立っているのだが、映画では戦争以前の継之助の活躍をほとんど描いていない。

山田方谷(『河井継之助伝』国立国会図書館蔵)

 継之助は、不遇の時代に備中(岡山県松山藩の財政を立て直した陽明学者の山田 方谷ほうこく (1805~77)から、財政再建の極意を学んでいた。方谷から学んだ藩政改革の極意は「規律を整え、賄賂や 贅沢ぜいたく を戒め、倹約により質素な生活を奨励する」。一見すると 手垢てあか が付いた手法に見える。しかし、継之助は方谷の教えをさらに進化させ、今でも通用する政策を導入している。

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後白河法皇は「日本一の大天狗」ではなかった?

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の6月5日放送回「義時の生きる道」で、西田敏行さんが演じた後白河法皇(1127~92)が天寿を全うした。ドラマでは通説に従って大泉洋さんが演じる源頼朝(1147~99)が、法皇を「日本一の 大天狗おおてんぐ」と呼んだエピソードが紹介された。

後白河法皇(出典:ColBase<https://colbase.nich.go.jp/>一部加工)


 頼朝が
法皇を「日本一の大天狗」と評した話は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』などにも登場するが、本当に頼朝は法皇を「大天狗」と呼んだのかどうかについての学説は割れている。背景には、「治天の君」としての法皇の政治手腕に対する評価の違いがある。

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法皇=大天狗」の通説はどのように生まれたのか

 後白河法皇は文治元年(1185年)、ドラマで杉本哲太さんが演じた源行家(1140?~86)と源義経(1159~89)に頼朝追討の 院宣いんぜん(命令書)を出す。しかし、義経の旗色が悪いと知るとこの命令を取り消し、逆に頼朝に義経追討の院宣を出す。

院御所に参内する義経(『日本歴史図会』国立国会図書館蔵)

 頼朝の怒りを恐れた院の近臣で大蔵卿おおくらきょうだった高階泰経たかしなのやすつね(1130~1201)は鎌倉に弁明の使者を出す。使者は鎌倉に着くと、頼朝の妹を妻にしていた公家の一条能保(1147~97)に「弁明の席に同席し、頼朝が怒ったらなだめてほしい」と頼み込んでいる。こんな弁明では頼朝は到底納得しないだろうことはわかっていたのだろう。以下は『吾妻鏡』11月15日の条に記された弁明の内容だ。

 「行家と義経の謀反を許可したのは、天魔に魅入られた仕業だ。(2人は)もし(頼朝追討の)院宣が下りなければ、宮中で自殺すると言ってきた。(宮中がけが されるという)災いを逃れるために一度は(追討の)許可を出したが、本心は別なので、本当の許可はしていないのと同じなのだ」

 案の定、頼朝は激怒し、使者を罵倒する。

 「謀反を許可したのは天魔に魅入られたとは、これほど根も葉もない言い訳はない。天魔とは仏法を守るために悪鬼を防ぎ、道理の分からない者を抑えるものだ。私(頼朝)は朝廷に敵対した平家を降伏させ、年貢の徴収などで朝廷に忠実に奉仕している。それをなぜ反逆者扱いして、よく院の意向を確認せず、(頼朝追討の)院宣を出したのか。行家も義経も召し捕るまであちこちを荒らしまわり、諸国は荒れ果て、人民も滅んでしまうではないか。その原因を作った日本第一の大天狗は、どう考えても他の者ではないか」

 頼朝の罵倒の言葉は、ほぼそのまま返書として京に届けられたという。

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映画『大河への道』が描かなかった真の主人公の悲劇

 映画『大河への道』が封切られた。原作は立川志の輔さんの創作落語。郷土の偉人、伊能忠敬(1745~1818)を主人公にした大河ドラマの実現に奮闘する千葉県香取市役所の職員と、忠敬の日本地図を巡る秘話を、現代と江戸時代とを行き来しながら描く。映画をもとに地図完成までのいきさつを振り返り、映画では描かれなかったその後の悲劇を記してみた。

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 忠敬が主人公かと思って映画館に足を運んだ人は、忠敬の顔に白い布がかけられる冒頭シーンを見て驚いたのではないか。物語は忠敬の死後に「大日本沿海輿地よち全図」を完成させた幕府天文方の高橋景保 (1785~1829)と忠敬の弟子たちが、忠敬の死を必死に隠して地図を完成させるまでの苦闘の物語だ。忠敬の孫、伊能忠誨ただのり (1806~27)の日記によると、忠敬の喪が発せられたのは、日本全図が幕府に上呈(納品)された約2か月後の文政4年(1821年)9月だから、景保らが忠敬の死を伏せて地図を完成させたのは史実通りといえる。

測量で割り出した距離、今の数値とほぼ同じ

伊能忠敬(『肖像』国立国会図書館蔵)

 下総国佐原(今の千葉県香取市)の名主だった忠敬は49歳で隠居し、幕府天文方だった景保の父、高橋至時よしとき (1764~1804)に弟子入りして本格的に天体観測や測量を学び始める。日本地図づくりは、いわば「隠居の道楽」から始まったわけだが、忠敬は私財を投げうち真剣に取り組んだ。天体観測や暦の作成を行う天文方の第一人者だった至時が、自分より年上の忠敬を弟子にしたのは、忠敬の知識と熱意が人並み外れていたからだろう。

浅草天文台での天文観測(葛飾北斎『鳥越の不二』国立国会図書館蔵)

 忠敬は地球は丸いことを知っていた。だが、緯度1度の距離については当時定説がなく、地球の大きさがどれくらいなのかが分からなかった。向学心に燃える忠敬は寛政12年(1800年)、緯度1度の距離を割り出すため、江戸(千住)から津軽三厩みんまや)まで奥州街道を21日かけて踏破し、蝦夷地では西別(現在の別海町)まで、往復3200キロを歩き通して距離を実測した。忠敬が測量によって割り出した緯度1度の距離(約111キロ)と地球の外周(約4万キロ)は今の測量数値とほとんど同じだった。

 実測の名目は「地図を作るため」とされ、地図は幕府に提出された。地図を見た幕府老中の松平信明のぶあきら (1763~1817)はその出来ばえに感心し、至時と忠敬に日本全土の測量を命じた。当時は日本の近海に外国船が出没し、幕府は国防のために正確な日本地図を必要としていた。

忠敬を支え、弟子たちを支えた景保

 実測の旅は10次にわたり、忠敬は第9次の伊豆七島を除いて自ら実測し、ほぼ地球1周分を歩いたとされる。忠敬が第5次測量に出る前に至時は40歳で没し、地図作りの監督役は弱冠20歳で天文方を継いだ息子の景保に引き継がれた。

 ここで映画の冒頭、忠敬の死亡シーンにつながる。景保にしてみれば、父から引き継いだプロジェクトはやり遂げなければならないが、自分には忠敬の代わりは務まらない。幸い地図作りのための実測はほぼ終わり、地図を描ける忠敬の弟子もいる。こうなれば、忠敬の死を秘して何とか地図を完成させるしかない――。景保は弟子らを叱咤激励し、日本全図は忠敬の死の3年後に何とか完成にこぎつけた。

忠敬の日本地図(中央は「小図」、周囲が「大日本沿海輿地全図国立国会図書館蔵)
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ロシアのウクライナ侵略の「終わらせ方」と大坂の陣

 ロシアのウクライナ侵攻は、出口の見えない戦いになりつつある。ロシアの軍事・安全保障問題に詳しい東京大学先端科学技術研究センター専任講師の小泉悠さんはテレビ番組で、ウクライナが非武装化に応じれば、「大坂夏の陣になる」と解説した。防衛省防衛研究所主任研究官の千々和泰明さんも、『戦争はいかに終結したか』のなかで、「相手が和睦の条件を正しく履行しないかもしれないと考えれば和睦は成立しない」と指摘し、その例として大坂の陣をあげている。

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  • ウクライナと大坂を比較する是非
  • 戦いの帰趨を決めた冬の陣の和睦
  • 内堀が埋められた真相
  • 甘い言葉には罠がある

ウクライナと大坂を比較する是非

 「ウクライナ戦争と大坂の陣では時代も背景も違いすぎる。単純に比較できない」というご意見もあるだろう。もちろん侵略戦争に至る経緯や戦争の形には異なる点もある。しかし、ウクライナも当時の豊臣方とよく似た立場にあることも事実だ。

 徳川と豊臣には関ケ原の合戦による対立とその後の融和という経緯があった。戦力的には徳川が豊臣を圧倒していた。徳川は当初から豊臣の滅亡か完全な無力化を企図し、難癖(=方広寺鐘銘事件)をつけて唐突に全国の大名に豊臣攻めを命じている。豊臣は味方を募ったが、正規軍を派遣した大名(同盟国)は皆無だった。しかし、兵糧米の調達を手助けするなど、裏で豊臣方を経済的に支援する動きはあった。戦闘は白兵戦よりもオランダ製の大砲などが威力を発揮している――。

徳川方が大坂の陣の口実にした方広寺の鐘。「国家安康 君臣豊楽」の銘が問題になった

戦いの帰趨を決めた冬の陣の和睦

 こうして大坂冬の陣が始まった。戦争の終わらせ方を考える上で重要なのは冬の陣であり、徳川方が豊臣方を滅ぼした大坂夏の陣は冬の陣の和睦が招いた当然の帰結に過ぎない。豊臣方は冬の陣の後の和睦で戦争は終わったと考えざるを得なかった。終わるとは信じていなかったとしても、豊臣を存続させなければならない。だが、徳川方は和睦は次の戦いへのステップとしか考えていなかった。

豊臣秀頼(左)とい徳川家康(右)の像

 千々和さんによると、戦争の終わらせ方には2種類がある。力に勝る側が味方の犠牲を覚悟して相手を完膚なきまでに叩きのめし、将来の禍根を絶つ「紛争原因の根本的解決」と、力に勝る側が味方の犠牲を避けるため、相手と妥協し和平を結ぶ「妥協的和平」だ。根本的解決は第二次世界大戦ナチス・ドイツに対して連合国が行い、妥協的和平は1991年の湾岸戦争アメリカがサダム・フセイン体制の存続を認めたのが代表例だという。

 徳川家康(1542~1616)は当初から豊臣家を攻め滅ぼす「根本的解決」を図っていたが、豊臣方は大坂冬の陣で和睦に応じたことで、徳川方が「妥協的和平」を選択してくれることに望みをつないだ。だが、それは甘かった。その象徴的な出来事が、大坂城内堀をめぐる駆け引きだった。

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「鎌倉殿の13人」上総広常はなぜ頼朝に殺されたのか

上総広常(国立国会図書館蔵)

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の4月17日放送回「足固めの儀式」で、佐藤浩市さんが演じた坂東武者、 上総広常かずさひろつね (?~1184)が、大泉洋さん演じる源頼朝(1147~99)によって粛清された。ドラマでは、頼朝の鎌倉追放を画策した御家人たちを監視するため反頼朝派に潜入しただけなのに、謀反の失敗後に中心人物の  れ ぎぬ を着せられ、頼朝の命を受けた梶原景時(1140?~1200)に殺されてしまう。

 SNS上には「頼朝が嫌いになった」といったコメントがあふれたが、広常誅殺の史実はどうなっているのか調べてみた。

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  • 前後の経緯は「吾妻鏡」から欠落
  • 朝廷への忠誠誓う頼朝の後講釈に登場
  • 東国国家論と検問体制論
  • 三谷マジックの伏線

前後の経緯は「吾妻鏡」から欠落

 鎌倉幕府の“正史”を記す『吾妻鏡』には、広常粛清事件が起きた寿永2年(1183年)の記述がない。ドラマの上で広常は頼朝追放計画の中心人物に仕立てあげられて誅殺されるが、脚本を担当する三谷幸喜さんは、頼朝追放計画そのものがドラマ上の創作であることを認めている。頼朝が追放計画を広常の粛清に利用したというのは史実ではない。

 ただ、広常の誅殺はフィクションではない。頼朝と面識があり、頼朝派の公家と親密だった天台宗の高僧、慈円(1155~1225)が記した『愚管抄』は、この事件を次のように紹介している。

 「(頼朝から)命をうけた梶原景時が介八郎(広常)を殺した(中略)。その時、景時は広常と 双六すごろく をしていたが、景時が双六の盤の上をさりげなく越えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ、頼朝の前に差し出された」(慈円著、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』講談社学術文庫

 『吾妻鏡』にも寿永3年(1184年)元日の条に「去年の冬の広常のことで 営中えいちゅう が けが れたため、頼朝が鶴岡八幡宮の初詣を見送った」というくだりがある。国学院大学非常勤講師の細川重男さんによると、営中(御所)の大広間は「 侍間さむらいのま 」と呼ばれ、御家人たちの  まり場だった(『頼朝の武士団』)。広常が誅殺されたのは寿永2年の暮れで、場所は営中(頼朝邸)の大広間だろう。

 頼朝の屋敷を血で穢しての「公開処刑」は、頼朝の了承なしではできないはずだ。頼朝が誅殺の日時や場所も指示していた可能性もあるから、広常誅殺は頼朝の命によるものとみていいだろう。

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