今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

刀剣乱舞に登場 幻の宝刀「蛍丸」と阿蘇一族【復元編】

 終戦直後に忽然と姿を消した熊本県阿蘇神社の幻の宝刀「蛍丸」が再び注目されるようになったきっかけは、【歴史編】でも紹介したオンラインゲーム「刀剣乱舞」だった。

     youtu.be

 2015年に登場したこのゲームは蛍丸などの名刀を擬人化して人気を集め、そのキャラクターのもとになったのはどんな刀なのかについても関心が高まった。

 蛍丸の数奇な歴史と多くの人物との接点については【歴史編】でまとめている。【復元編】では蛍丸の復元(正確には「写し」の制作)プロジェクトについて記したい。

 

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福留房幸さん(右)と興梠房興さん(左)

 復元に挑戦した2人の若き刀鍛冶

 刀剣乱舞がブームになるなか、岐阜県大分県の2人の刀鍛冶が蛍丸を復元し、阿蘇神社に奉納するというプロジェクトが始まった。復元に取り組むのは岐阜県関市の福留房幸さんと、大分県竹田市興梠房興こうろきふさおきさん。2015年11月にインターネット上で資金を募るクラウドファンディングで資金を募ったところ、当初の目標だった550万円をわずか5時間で達成し、最終的には刀剣ファンなど3193人の支援者から4512万円もの資金が集まった。

 福留さんによると、復元プロジェクトは刀鍛冶による刀身の制作から始まる。砂鉄と炭から作った玉鋼たまはがねで塊をつくり、たたいて伸ばして切って曲げ、という工程を繰り返して鍛錬していく。固さが違う鉄を組み合わせて棒状に伸ばし、刀の形にしていく〈下図の工程①〉。

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 こうして刀鍛冶がつくった複数の刀身に、研師とぎしが粗いやすりで刃の形をつけていく〈工程②〉。おおまかに大太刀の形になるまでに半年ほどかかり、この時点で出来のいい刀を決める。

 刀鍛冶が刀身に彫刻を彫り〈工程③〉、刀身と鞘を固定するはばきと呼ばれる金具をつくる〈工程④〉。通常は白銀師しろがねしの仕事だが、蛍丸では刀鍛冶が担う。鞘師さやしほおの木を削って刀をおさめる白木のさや〈工程⑤〉とつかをつくる〈工程⑥〉。さらにもう一度研師が仕上げ研ぎをして〈工程⑦〉、柄の内部におさまる刀身部分のなかごに銘を入れ〈工程⑧〉、白鞘の蛍丸が完成する。上図のうち赤で囲った工程が2人の刀鍛冶の仕事だ。

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阿蘇神社で行われた「奉納鍛錬」(2016年2月27日)

開始後に熊本地震 

 復元プロジェクトを始める儀式「奉納鍛錬」は2016年2月27日に阿蘇神社で行われた。

 福留さんと興梠さんは、まず神前で復元作業の開始を報告。拝殿の中で採火した火を使って、この日のために臨時に境内に設けられた鍛錬場で、刀の材料となる玉鋼を打ちのばす「打始式」を行った。

 式には福岡や佐賀からも刀鍛冶が応援に駆け付け、プロジェクトに賛同した支援者16人が白装束姿で打ちのばしに参加。約50人の支援者が間近でカメラを向けるなどして鍛錬に見入った。

 ところが、この2か月後に熊本地震が発生し、阿蘇神社も国指定の重要文化財の楼門など主要な建物が倒壊した。プロジェクトは続行され、蛍丸の復元を復興のシンボルとしての意味も加わった。

 熊本地震から4か月後の8月27日には「蛍丸」の奉納焼き入れ儀式が地震で倒れた拝殿の隣で行われ、刃渡り1mを超える刀身が初めて姿を現した。

 焼き入れは細長く打ち延ばした鉄を熱し、急激に冷やすことで刀へと変える重要な工程で、「刀に魂が吹き込まれる瞬間」といわれる。儀式では蛍の光によって闘いで刃こぼれした太刀が元通りになった」という伝説のように、炉から上がる火の粉が蛍の光のように空に舞い上がった。

 ものづくりの伝統技術を結集 

 こうして2017年6月に白鞘の刀が阿蘇神社に奉納され、2番目に出来の良い刀は岐阜県関市の鍛冶伝承館、3番目はプロジェクトの最高額出資者、小坂さんに贈られた。だが、プロジェクトはまだ終わっていない。柄や鞘などにさまざまな装飾を施す「こしらえ」の制作が続いている。

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 拵えのうち、つばなど刀につける金具は白銀師が作り〈工程⑨〉、塗師ぬしが白鞘とは別に漆塗りの鞘を作る〈工程⑩〉。巻師つかまきしがきれいに柄を巻き〈工程⑪〉、刀を身に着けるための下緒さげお組紐職人〈工程⑫〉が担当する。

 全国の研師、鞘師、白銀師、塗師、柄巻師など、さまざまな専門職人がものづくりの伝統技術を結集し、蛍丸を復元しているのだ。

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読売新聞オンラインのコラム本文

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2人の刀鍛冶にインタビュー

 復元作業が始まる前に、2人の刀鍛冶に復元を決めた経緯や「蛍丸」の魅力をインタビューした。

――なぜ蛍丸を復元しようと考えたのか。

福留 一緒に修行していた弟弟子おとうとでしの興梠さんが修行を終え、大分県で刀鍛冶を始めることになったため、前から「2人で記念に何か合作しよう」と話し合っていました。「合作なら1人で作るのは難しい大太刀に挑戦しよう」と、資料などを見て試作もしていました。

――最初から蛍丸と決めていたわけではないのですね。

福留 興梠さんの仕事場を見に行った時、「近くに阿蘇神社がある」と聞いて「蛍丸があったところだ。ぜひお参りしよう」とお参りに行ったんです。その時にたまたま宮司さんにお会いできて、話をした時に「蛍丸の写しを作って(=復元して)奉納するのはどうですか」と伺ったところ、「それはとてもいいことで、応援します」と言ってくれました。「では何とか実現できないか考えてみましょう」と関市に戻ったところ、市から「クラウドファンディングを始めます。何か企画はないですか」という話が来たんです。とんとん拍子に話が進んで、何か蛍丸との縁みたいなものを感じます。

――あっという間にたくさんの資金が集まりましたね。

興梠 募集期間内にぎりぎり目標額に届けばいいかな、と思っていたので、たった5時間で目標額に達するとは思いませんでした。ゲーム(「刀剣乱舞」)に登場する蛍丸が人気になっていることも知りませんでした。後からネットで知って「なるほど、そうだったのか」と。お金の額には関係なく一生懸命やるだけですが、やはり注目度が高いとやりがいがありますね。
福留 開始時は出資1人ごとにメールが来る仕組みにしていたので、1日で2500通ものメールが来て、すごいことになって非常に驚きました。最近は落ち着きましたが。

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――蛍丸の魅力とは何ですか。

福留 作者の来国俊は非常に有名な鎌倉末期の刀鍛冶ですが、大太刀よりも短刀の名人というイメージが強いんです。しかも蛍丸のような大太刀が流行するのは南北朝時代になってからで、鎌倉末期にはそれほど作られていません。その時期に短刀の名人に作らせたというのは、よほど特別な注文だったと思います。文化庁に残っている作風の詳しいデータを見ても、蛍丸はかなり入念に作られた刀です。刀身に彫刻があったのも、特注だった証でしょう。来国俊も思い入れのある作品だったのだろうと思います。
興梠 刀そのものの魅力に加えて、蛍丸にはミステリアスな経緯があります。国内、国外、海中のどこにあるのかという伝説にも惹かれます。
――制作で難しいところは。

福留 刀というのは研げば減るし、戦に使われれば刃が欠けて、次第に細く、短くなっていきます。復元は70年前ではなく、600年前はだいたいこんな形だったと推察し、作成時の形をイメージして作ります。大太刀ですから長さも厚さもあり、当然重くなります。材料も大きいものを用意しないといけない。その分、作るのは難しくなります。大きいと材料自体にアラやムラが出やすくなり、焼き入れムラもできやすくなりますから。伝統文化を継承するため、作り続けていくことが大事です。刀だけで食べていくのは難しいですが、今は追い風なので、知らない人に刀鍛冶の仕事を知っていただけるのも仕事のうちと思っています。

――苦労して復元した後で、もし本物が見つかったら?

福留 そうなれば本当にうれしい。実は今回のプロジェクトは、行方不明の蛍丸の発見も狙いなんです。阿蘇氏の家宝として600年強も同じ場所で保存され、大切にされてきたのに、わずか70年前に失われて行方が分からないというのは非常に悲しいことです。復元が話題になれば、多くの人が「蛍丸とはどんな刀だったのか」と興味を持ってくれます。復元すれば形がはっきりわかるようになるので、「こういう刀を見たことがある」という人が出てきて、見つかる可能性も高くなります。復元した蛍丸を撮影して実寸大のポスターを作るので、ポスターを利用した探索活動が簡単になるでしょう。

――刀鍛冶とは、だれでもできる仕事なのですか。

福留 文化庁長官から刀を作ることを許可されないと、刀鍛冶にはなれません。5年以上の修業を積んで、文化庁の研修会(美術刀剣刀匠技術保存研修会)を受け、事実上の試験(8日間で小さな脇差を作る)に合格して修了証書を持つことが必要です。現在は全国に250人程度の刀鍛冶がいます。

――ともに二十五代藤原兼房師匠のもとで修業した兄弟弟子と聞きましたが、そもそも、なぜ刀鍛冶の仕事を選んだのですか。

福留 母親が茶道の先生だったこともあり、小学生のころから日本の伝統文化に関心がありました。地元(福岡)の陶芸教室に通って、中学を卒業したら陶芸家になろうと思っていたのですが、親に「高校くらいは出てくれ」と言われまして。高校で写真部に入って、博多包丁の鍛冶工場を訪れた時に、鍛冶の仕事って面白そうだなと思って、高校卒業後にすぐ修業先を探し、入門しました。

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興梠 子どものころから刀に興味があったわけではありません。大分の高校を卒業してから大阪に出てフリーターをしていたんですが、24歳のころにこれからどうしようと考えて、スポーツ選手のように現役の期間が短い仕事より、手に職をつけて老いても現役を続けられれる仕事に就きたいと思って刀鍛冶を志しました。刀鍛冶を志したのが遅かったので、福留さんは兄弟子ですが、弟弟子の私の方が年齢は上なんです。

 発売中の拙書「今につながる日本史」でも蛍丸については詳しいコラムを載せている。よろしければお読みいただきたい。

www.kinokuniya.co.jp

*2020年8月10日に更新しました

 

 

 

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