今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

だから光秀はキレた?本能寺の変「珍説」の真相

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*「今につながる日本史」の出版にあわせて、本の中身を確認できるように、このコラムは本に収録した加筆修正後の内容に改めました。

 やり手で知られた女性元衆院議員が元秘書を罵倒した言葉「このハゲーっ!」が2017年の流行語になったが、恒例の「新語・流行語大賞」にはノミネートされなかった。やはり元秘書を罵倒した言葉「ちーがーうーだーろー!」がノミネート30語に入ったが、ネット上には「ちーがーうーだーろー! はちがうだろ」という書き込みが相次いだ。

 「このハゲーっ!」がノミネートされなかったのは、主催者側が人の外見を揶揄する言葉を対象にするのは不適切、と判断したからだろう。確かに「ハゲ」という言葉は使用に注意を要する。お笑い芸人の「ハゲとるやないかい!」が笑いをとれたからといって、安易にまねをすれば相手を深く傷つけることもある。カツラを使っている人にはさらに気遣いが必要だ。

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京都市中京区の本能寺跡。現在の本能寺は移動して再建されている

 光秀のカツラ、信長が打ち落とす?  

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を討った本能寺の変は、日本史最大のミステリーとされ、光秀謀反の動機についてはさまざまな説が唱えられてきた。信長の家臣だった稲葉一鉄(1515〜89)の子孫らが書き残したとされる『稲葉家譜』には、光秀が信長にハゲを暴露されたことを恨んだため、という珍説が書かれている。

 「信長は法にそむいた光秀を呼びつけ、譴責けんせきして光秀の頭を二、三度叩いた。光秀は髪が薄く附髪(カツラ)をしていたが、この時に打ち落され、信長の仕打ちを深く恨んだ。光秀謀反の原因はここに起因する」

 光秀の「法に背いた」行為とは、一鉄の家臣だった斉藤利三と那波直治を引き抜き、一鉄に返すよう命じた信長の裁定を聞き入れなかったことを指す。2人のうち直治については『稲葉家譜』とは別に、信長が一鉄に返すよう命じたことを記した書状も残っている。書状の日付は5月27日。本能寺の変のわずか4日前だ。

 当時の武士はかぶとをかぶっても頭が蒸れないように、頭頂部や前髪を月代さかやきをしていた。どうせ剃るのだから髪の薄さなど関係ないようにも思えるが、横や後ろの髪がないとまげが結えないから、附髪の必要があった。

 この時光秀は55歳とされ、近年では67歳説も有力だ。どちらにしても信長よりもかなり年上で、頭髪が薄くなる年頃だった。しかも能力重視の信長は、この2年前に働きの悪い譜代の老臣を相次いで追放している。光秀が老け込んだところを見せてはならないと思って附髪をしていても不思議はない。

 作家の桐野作人さんは『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』でこの話を紹介し、「見てきたような虚説とするか、あるいはリアリティーは細部に宿るとみるか、評価が分かれるところではある」と記している。だが、『稲葉家譜』は作者、成立年代がともにはっきりしない「俗書」とされている。別の史料で裏付けられているのは那波直治なる武将の処遇だけで、光秀がカツラを落とされたという記述は、迂闊には信じられない。

キンカン」のあだ名も後世の創作

 カツラはないとしても、光秀の頭髪は薄く、金柑きんかんというあだ名があったと思っている人は多い。これは司馬遼太郎(1923〜96)の『国盗り物語』の影響だろう。

 『国盗り物語』には、初めて光秀と対面した信長が「頭が小さくてさきがとがり、地肌に赤みを帯びたつやがあって、みればみるほど金柑に似ていた」というくだりがある。2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも、市川海老蔵さんが演じる信長が、光石研さん演じる光秀を「この金柑!」と罵倒するシーンがあった。

 だが、信長が光秀のとがったハゲ頭を金柑にたとえたとは考えにくい。キンカンは中国原産で、日本で現在最も多く栽培されている「ニンポウキンカン」は文政9年(1826)に静岡沖で難破した中国船がもたらした。先がとがった「ナガミキンカン」も栽培されているが、こちらも江戸時代前期の渡来とされ、いずれも信長が見ていたとは考えにくい。

 室町時代前期に書かれたとみられる『庭訓往来ていきんおうらい』にはすでに「金柑」の名前があるが、これは「マルキンカン」のことで、その名の通り、先がとがっているものは少ない。

鑓で脅す。頭を強打 「衝突説」は数多く

 信長が光秀を金柑と呼んだというのは、16世紀末に書かれたとされる『義残後覚ぎざんこうかくの話がもとではないか。

庚申待こうしんまちという特別な日の夜、信長が家臣20人ほどを集めて徹夜で酒宴を開いた。途中で光秀は小用に立ったところ、信長は広間にあったやりさやを引き抜いて光秀を追いかけ、『金柑頭、なぜ席を立つのだ』と、光秀の首に鑓の刃先を当てて詰問した。光秀は弁解したが、信長はなかなか許さなかった。信長は座興のつもりだったが、光秀は、信長が自分を亡きものにしようという本心の表れと感じ、謀反を考えるようになった」

 『義残後覚』は妖怪や超能力者も登場する寓話ぐうわ集で、この話も作り話だ。では、見たこともない光秀の頭髪を薄く見立て、わざわざ金柑頭というあだ名をつけた意図は何なのか。「光秀」の2字をあわせると「禿」という字になるからだ、いう説まであるようだが、寓話にリアリティーを持たせるためと考えるのが自然だろう。つまり、光秀には直しようがない〝弱点〟があることにしてそこを信長に執拗に攻撃させ、光秀が怨恨を募らせるストーリーに説得力を持たせようとしたわけだ。

 本能寺の変の直前に信長と光秀が衝突したという逸話は『稲葉家譜』以外にもあり、そこにはある共通点がある。

 『祖父物語』には、3月に甲斐・信濃遠征に従軍した光秀が、軍議の席で「われら長年にわたって骨折りしたかいがあった」と漏らし、それを聞きつけた信長が激怒して「お前がどれほどのことをしたのか」と、光秀の頭を欄干に打ちつけた、とある。

 5月には徳川家康の一行が駿河拝領の礼に安土を訪れ、光秀はその接待役を命じられた。『明智軍記』には、信長が「金を使いすぎる」と怒って小姓の森蘭丸(1565〜82)に扇の要で光秀の額を血が滴るほど打たせた、というくだりがある。

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森蘭丸に打擲される必秀(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 『川角太閤記』によれば、接待の下見のため、抜き打ちで光秀邸を訪れた信長が魚が腐ったような異臭に気づき、「これでは接待役など務まらぬ」と光秀を罷免し、面目を失った光秀は取り寄せた器や食材を堀に投げ捨てたという。

 『祖父物語』『明智軍記』『川角太閤記』も俗書で、これらはいずれも作り話とみられる。ただ、『稲葉家譜』のカツラが落ちた話、『義残後覚』の庚申待の夜の話も含め、どの話でも信長が理不尽極まりない言いがかりをつけ、光秀がひどい辱めを受け、その多くで信長が狙っているのが光秀の頭部であることは、偶然の一致だろうか。

「暴君」確定のキーワード

 信ぴょう性が高い史料とされるイエズス会宣教師のルイス・フロイス(1532〜97)が書いた『日本史』にも、こんな記述がある。

 「信長は、家康一行の接待役を命じられた光秀と、その準備について安土城の一室で密談していたが、信長は元来逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々のうわさによると、信長の好みではない件で光秀が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りを込めて一度か二度、光秀を足蹴にした」

 「うわさによると」とある以上、信長による光秀へのパワハラ行為があったと断定はできないが、本能寺の変の直前に「信長が密室で光秀に辱めを加えた」といううわさたが立ったのが事実なら、重臣たちを含めて安土城内に「信長恐怖」の空気が広がっていたことになる。

 光秀謀反の動機を怨恨とし、説得力ある説明をするには、信長を暴君に描かなければならない。実際に信長は逆上しやすく、家臣は信長を恐れていた。そこにパワハラを加えれば横暴ぶりはさらに際立つ。

 信長のパワハラを強調するためなら、光秀の弱点は頭髪が薄いことでなくてもよかった。だが、江戸時代には髷がないことは武士の恥とされ、髷が結えなくなったら武士は隠居するという不文律があった。若くして髪が薄くなり、まだ隠居できなかった武士は附髪をつけたが。それには藩主の許可が必要だったという。今なら考えられない不文律だが、当時も理不尽と思っていた人は多かったのではないか。だからこそ、後世の俗書は信長の理不尽な仕打ちを際立たせるため、頭髪を光秀の〝弱み〟に活用したと思えるのだ。

史実にない記録にも価値はある

 時計を今に戻すと、この理不尽さは許されない。「このハゲ―っ!」という言葉は元議員のパワハラうを象徴するキーワードであり、元秘書がどの程度ハゲていたのかは大きな問題ではない。

 元議員の執拗な仕打ちに恐怖と怒りを募らせた元秘書は失職を顧みず告発に踏み切り、元議員は手ひどい報復を受けた。「このハゲーっ!」という罵声がなければ、元議員はあれほど厳しい世論の指弾は受けなかったかもしれない。

 ちなみに。光秀の「金柑」と同じく、信長が豊臣秀吉(1537〜98)を「猿」と呼んでいたことを示す確かな史料はない。その一方で、秀吉の場合は信長が「禿げネズミ」と呼んだ書状が残っている。

 信長がハゲと呼んでいたのが光秀でなく秀吉だったとすると、それを秀吉はどう思っていたのか、信長と秀吉の人間関係は通説のように良好だったのかなど、新たな疑問も湧いてきて、興味は尽きない。

 ひとつしかない史実を探求することは大事だが、公正に史実ではないことが書かれたこともまた史実であり、何かを伝えたい意図があるはずだ、そこから教訓を得たり、新たなロマンを膨らませたりする自由があるのも、歴史の大きな魅力だと思う。やはり、ハゲという言葉は人を傷つけ、流行語大賞にはふさわしくない。

 主要参考文献

 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』(1958、吉川弘文館

 桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変、新たな視点』(2007、PHP新書

 津本陽『「本能寺の変」はなぜ起こったか 信長暗殺の真実』(2007、角川書店

 小和田哲男明智光秀本能寺の変』(2014、PHP新書

www.yomiuri.co.jp

余話 折檻の舞台は本当に諏訪だったのか

 本能寺の変の直前に、信長が武田攻めに同行した光秀を諏訪の法華寺で折檻した話を紹介した。法華寺には「本能寺の変の原因のひとつを作った寺」という看板が立っている。

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諏訪大社上社本宮に隣接する法華寺本堂。縁側に欄干はない

 だが、実はこの話を伝える『祖父物語』には、折檻の場所が法華寺という記述はない。それどころか、折檻は「信州諏訪郡のどの寺に陣所を置くべきか、の軍議の席で」行われたとあるから、折檻は信長が諏訪に入る直前、美濃(岐阜県)あたりで開かれた軍議の席であったと読むほうが自然だ。折檻の舞台が法華寺という通説は、『川角太閤記』などの作者が『祖父物語』を誤読して引用し、それが定着したという見方もできる。

 ところが、諏訪地方には折檻の原因についても「軍議の前日に信長と光秀が軍事演習をしたところ光秀が勝ってしまい、信長はそれが面白くなかったから」という話まで伝わっている。その演習が行われたところとして、茅野市に「明智平」という地名が残っているという。本当ならやはり折檻の舞台は法華寺ということになるが、地元に伝わるこの話自体、後世の創作という可能性も捨てきれない。「明智平」という地名には引っかかりを感じるのだ。

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奥日光にある明智平、ロープウェーの駅がある

 光秀には、本能寺の変の後も生き抜いて天海僧正となり、家康に仕えたという俗説があり、日光・いろは坂近くにも天海にちなんでつけたとされる「明智平」なる地名がある。話が似ているのは偶然の一致だろうか。史実をたどるのは本当に難しい。 

 この記事もご参考までに 。

*2020年6月28日に更新しました

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