武田信玄と織田信長は戦国時代の両雄として、その民政や用兵についてはよく比較されてきた。経済政策についても比較した本や論文はたくさん出ている。
だが、信長については有名な楽市楽座や関所の廃止、物流拠点の伊勢湊を支配した意味などに着目したものが多かった。信玄が駿河に侵攻したにも海が欲しかったためだ、といわれるが、ここでは通貨政策について比較してみた。
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信玄の通貨政策としては甲州金が中心だが、信長は永楽通宝を旗印にしている。ともに通貨政策には熱心に取り組んでいるが、目を向けた対象はまったく異なっている。特に信長が小銭を重視した理由については諸説がある。
「海が天下人を決めた」は本当か
信玄は兵農分離ができておらず、経済力を背景にそれをいち早く成し遂げた信長に経済力で敗退したといわれている。大筋はその通りだが、信玄も甲州金の産地という利点を使った経済政策を展開している。
しかし、信長の経済力はそれよりはるかに上をいっていた。すでに貨幣経済を熟知し、経済成長に活用していたことが大きかった。これは信長の才能というより、領国の経済圏が大きく、貨幣経済が浸透する条件に恵まれていたためだろう。
永楽通宝の旗は傭兵急募の広告?
信長の永楽通宝の旗印は大河ドラマでもおなじみだが、そのことを示すのは、薩摩島津家の「信長は黄礼楽の旗を使っていた」という記録が唯一だそうだ。上京した島津家久が「あの旗はなんだ」と聞いて記録したようで、「永楽」を「礼楽」と聞き間違えている。当時薩摩には永楽通宝は流通していなかったのだろう。
銭を旗印にしたのは、「傭兵募集中」の意味だったという説もある。今でいうファストフード店やコンビニの「アルバイト急募」のポスターと同じというのは実に面白い。
このころの貨幣はほぼ全量を中国(明)からの輸入に頼っていたが、明でも貨幣が不足して輸出を禁じるなど、マネーサプライは不安定だった。「オダノミクス」の真骨頂はそれを防ごうとした点にある。
アベノミクスに通じる政策はまだある。戦国大名の経済・財政政策については、調べるとまだまだ面白い話が出てきそうだ。
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