今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

将軍家光が“喚問”した公文書改竄

 このコラムを書いたきっかけは「モリカケ問題」だ。公文書の改ざんが問題になったが、今も昔も日本は文書主義の国といえると思う。

 江戸時代のはじめに問題になった対馬藩による外交文書の改ざん事件「柳川一件やながわいっけん」では、江戸城で諸大名や旗本の前で3代将軍徳川家光(1604~51)が“証人喚問“まで行っている。

読売新聞オンラインのコラム本文

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「文書」が「行為」を縛った事件の経緯

 この経緯がそこらの歴史小説よりよほど面白い。交渉という「行為」の記録を残すための「文書」は、「行為」に先んじることはないはずなのだが、改ざんされた「文書」は「行為」を縛ることになっていく。

 文書主義の日本ではその度合いが強く、多くの人が改ざんした「文書」に「行為」をあわせようと右往左往する。言い換えると事件の経緯が「日本的」なのだ。

 慶応大名誉教授の田代和生かずいさんは、この事件の顛末てんまつを詳細に調べ上げ、『書き替えられた国書』(中公新書)にまとめている。

 豊臣秀吉(1537~98)の2度にわたる朝鮮出兵文禄・慶長の役)で朝鮮は大きな損害を受け、日本の撤兵後も日本と朝鮮との国交は断絶したままだった。

 古くから日朝貿易で利益を得ていた対馬宗義智そうよしとし(1568~1615)は独自のルートで国交回復を模索し、慶長10年(1605)には朝鮮から対馬に来ていた外交僧らを徳川家康(1543~1616)と秀忠(1579~1632)の父子と会見させることに成功した。

朝鮮側が突きつけた難題

 家康のお墨付きを得て義智は事前交渉を加速させたが、途中で難題が持ち上がった。国交回復に不可欠な国書の交換について、朝鮮側が「日本側から先に出せ」と求めてきたのだ。

 先に国書を差し出すことは相手への恭順を意味するから、家康がんでくれるかどうかわからない。しかし、「朝鮮側が先だ」と押し返せば交渉は長期化し、「では、宛名は誰にすればいいのか」と問われる恐れもあった。

 このころは大坂にまだ豊臣秀頼(1593~1615)がいた。朝鮮側が「交渉相手は出兵を決めた秀吉の遺児・秀頼だ」とでも主張してきたら、交渉はご破算になるかもしれない。

 困った対馬藩は、「歴史的犯罪」に走った。朝鮮側の要求を幕府に内密にしたまま、偽の国書をでっち上げたのだ。

 朝鮮側の記録によると、偽国書には朝鮮出兵に対する謝罪と講和への希望が書かれ、家康の名前と「日本国王」の印が押されていた。この国王印は、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が秀吉に押させようと持参し、交渉が決裂して放り出していったものだったという。

冊封関係を結ぶ意味

 日本国王を名乗ることは、明(中国)と君臣(冊封)関係を結んで明の臣下になることを意味する。それを知った秀吉は激怒し、交渉は決裂して再度の出兵(慶長の役)となるのだが、すでに明と冊封関係にある朝鮮は、その後も日本がこの呼称を使うことを望んでいた。偽国書は幕府と朝鮮王朝の意向を幾重にも忖度そんたくして作成されたわけだ。

 偽国書を受け取った朝鮮側は、返書を持たせた「回答使」を日本に派遣することを決めた。回答使は「通信使」と偽ってごまかしたが、持参したのは返書だから、書き出しは「奉復(拝復)」で、日本が示した謝罪と講和の意向を聞き入れるという内容だった。このまま幕府に渡せば、最初の国書偽造がばれてしまう。

 そこで対馬藩は、今度は朝鮮国王の印鑑を偽造し、「奉復」を「奉書(拝啓)」に書き換えた朝鮮国書をでっち上げた。ついでに朝鮮から将軍への献上品を記した目録(別幅べっぷく)も改ざんして、虎皮や朝鮮人参の数を追加した。

『柳川記』によると、偽国書は将軍と回答使が謁見する当日、義智の重臣だった柳川智永(?~1613)が、すきを見て江戸城内ですり替えたという。

改ざんが新たな改ざんを呼んで…

 こうして日朝の国交は回復し、朝鮮から国書を携えた使節団が定期的に来日するようになった。やりとりされた国書は初回の偽国書を先例に書かれたため、そのたびに「奉復」を「奉書」に、将軍の肩書きは「日本国王」に直さなくてはならなくなった。改ざんが改ざんを呼び、対馬藩は義智の死後も組織ぐるみで改ざんを続けざるを得なくなったわけだ。

 コラムを読んだ方から、朝鮮との外交文書と政府の内部文書は性質が違うのでは、という指摘をいただいた。豊臣秀吉朝鮮出兵時は無益な侵略戦争を止めようして偽の使節や国書が飛び交い、この国書偽造もその流れの延長線上にある。確かに外交と内政は背景が異なる。だが、それを踏まえたうえでも、この話はすごく「日本的」だ。

 対馬藩は対朝鮮交渉の窓口を任され、秀吉の時代から朝鮮交渉については今の外務官僚のような仕事をしていた。「モリ・カケ」問題で官僚が起こした不祥事との「日本的」な共通性があるのはこのためだと思う。   

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〝官僚〟的な大名の犯罪

 ちなみに改ざんされた国書は発覚後もそのまま江戸城に保管されていたが、後世に北方探検でも知られる近藤重蔵が調べ直し、偽造部分をすべて訂正したという。後日談まで極めて「日本的」だ。

 なお、タイトルを公文書「改ざん」とせず「書き換え」としたのは、参照した慶応大名誉教授の田代和生(かずい)さんの『書き替えられた国書』(中公新書)の題名に従ったものだ。財務省がしたことは「改竄」であり、徳川家光や安倍首相に忖度したわけではないので、念のため申し添えておく。

 ともかく『書き替えられた国書』を読むと、これが外交ゆえのことではなく、極めて「日本的」な事件だったことが分かる。本が絶版になっているのは本当に惜しい。

日本の文書主義は鎌倉以降?

 忖度について記したこのコラムがきっかけで「日本的」な忖度の分析をしてみようということになり、「深層NEWS」で近現代史研究者の辻田真佐憲さんをお呼びして、太平洋戦争中の大本営発表について掘り下げた。その際の記事も書いているので、あわせてお読みいただきたい。

 最後に余談だが、日本に文書主義を定着させたのは鎌倉時代の執権、北条泰時だ。泰時は御成敗式目で、所領裁判の証拠で文書を最優先すること、文書偽造を重罪にすることを定めた。御成敗式目は室町、江戸幕府にも引き継がれ、その基本理念は明治まで効力があったとされている。

  泰時が御成敗式目を定めたのは、親交があった昭恵上人の影響が大きかったということです。読みは「しょうえ」だ。「あきえ」ではない。

 

 

 

maruyomi.hatenablog.com

 

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