「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼(1815〜60)は、 結果的に幕府の命脈を縮めた。多くの幕末の志士が捕えられて命を落としたことは、幕府というより、日本にとっては大きな損失といえる。
この安政の大獄が、側近。長野主膳(1815〜62)のフェイクニュースによるものだったのではないか、という話がある。
読売新聞オンラインのコラム本文
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強権政治で結果的に幕府の命脈をも縮めた直弼は幕府にとっても「いい直弼」ではなかった。だが、本当に直弼は強権的に幕政を壟断し、開国に突っ走ったのだろうか。
開国派ではなかった直弼
よく直弼は開国派だったといわれるが、条約締結はあくまで朝廷の許しを得てから締結するつもりだった。ところがバリバリの開明派だった幕府全権の井上清直(1809〜68)と岩瀬忠震(1818〜61)が、直弼の意向を無視する形でさっさと条約を結んでしまったのだ。
コラム本文で書いたが、安政の大獄は攘夷の弾圧というより、幕府を飛び越して朝廷と接近する一橋派の公家や幕臣に対する弾圧ではないか。直弼は彦根藩主として「京都を守護する」藩の地政学的な役割を強く意識していたのは間違いない。
安政の大獄は開国か鎖国かではなく、13代将軍徳川家定の後継をめぐる南紀派と一橋派の勢力争いが飛び火して起きた。しかも、それが大弾圧につながったきっかけは、一橋派を監視していた主膳の取り繕いだった。
幕府が(というか井上と岩瀬が)勝手に開国に同意したことを聞いた孝明天皇(1831〜67)は激怒し、幕府と一橋派の牙城だった水戸藩に抗議の勅書を送った。ところが一橋派の監視・工作員だった主膳は勅書が出たことを知らなかった。
焦った主膳は「水戸に送られた勅書は藩主の徳川斉昭(1800〜60)が朝廷工作の末に出させた『密勅』なのだ(だから私は知らなかった)」というフェイクニュースをでっちあげて直弼に報告し、失態をごまかそうとした。
報告を信じた直弼は激怒し、関係者の摘発に乗り出したのが安政の大獄の始まりというわけだ。
直弼は、「水戸藩に出した〝密勅〟を返せ」という命令を朝廷に出させた。納得できない水戸藩士は水戸郊外の長岡宿(茨城県茨城町)に集結し、使者から力ずくで勅書を奪い返そうとしたが失敗。標的を直弼に変える。主膳のフェイクニュースは、主膳の主君の命を奪う一因にもなっ た。
なぜ直弼はそこまで主膳を信じたのか
主膳はもともと彦根時代の直弼の和歌や国学の師で、諜報工作のプロではない。にもかかわらず直弼が主膳をそこまで信じたのは、長い不遇時代を支えてくれた恩人だったからだろう。
直弼は幸運が重なり彦根藩主となり、さらに大老にまでのぼり詰めたが、もともとは彦根藩主の14男で、他藩への養子の口も兄弟に奪われ、「藩主の跡継ぎのそのまた予備要員」として朽ち果てる身の上だった。主膳はその不遇時代を支え続けた。
コラム本文を書く前に初めて彦根を訪れたが、実にいいところだった。一度見たいと思っていた彦根城にも登楼できた。なお、主膳は熊本の八代出身とされ、阿蘇神社の童から伊勢に流れてきたという説もある。南阿蘇村には長野地区があり、最近、主膳の碑も建てられている。
maruyomi.hatenablog.com
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