2018年6月18日朝、大阪府の北部を中心とする最大震度6弱の地震があり、大きな被害が出た。被害に遭われた方に心からお見舞い申し上げたい。
この大阪北部地震を受けて書いたコラムでは、豊臣秀吉(1537~98)の天下を早く終わらせ、歴史を変えた大地震と言われる慶長伏見地震の話を今につなげている。
読売新聞オンラインのコラム本文
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秀吉は朝鮮出兵(文禄の役)の最中に伏見城を建設し、朝鮮からの和議の使節を完成した伏見城に迎える予定だった。地震で伏見城天守が倒壊し、使節との和議交渉も決裂したが、秀吉は大陸への野望を捨てず、休戦から2度目の出兵(慶長の役)を命じる。
地震で「太閤支持率」急低下
秀吉はその最中に倒壊した伏見城も建て直している。当時は生野銀山から銀が豊富に産出しており、秀吉の財力は抜きん出ていたとはいえ、対外戦争に加えて新城の建設に巨費を投じれば、さすがに豊臣の天下にも陰りが出てくる。
それ以上に豊臣滅亡を早めたのは、地震後の災害対応を怠ったことだろう。当時はむろん庶民への仮設住宅も金融支援もなかったが、地震で大変な時に対外戦争と豪華絢爛な城の再建を優先させたことで、秀吉恩顧の大名や、大名を支える領民の民心が離れてしまった。
悪いことに、伏見地震に前後して中央構造線の近くで大地震が相次ぎ、被害はさらに大きくなった。秀吉は文禄から慶長に改元するが、改元くらいでは「太閤支持率」は回復しなかった。
慶長伏見地震の時のように、中央構造線に沿って東に震源が移動し、大地震が続くのではないかという指摘は、熊本地震の直後にもあった。熊本は中央構造線の西端に位置するからだ。
熊本地震発生時に私は熊本にいて、地震学者を取材した。「深層NEWS」でも専門家に聞くことができ、ようやく腑に落ちた。可能性は大きくないが、西日本では起こり得る。ただ、中部以東の中央構造線が連動した前例はないという。
番組内のやり取りについてはコラムでも紹介している。歴史学者の磯田道史さんも読売新聞紙上で、同じ説を指摘している。
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