NHK大河ドラマ『西郷どん』に関するコラムの最後は幕末の島津家の話だ。書きたかったのはまず島津斉彬(1809~58)だけが名君ではなかった、むしろ島津久光(1817~87)の功績が大きかったということと、その前からの恩讐を乗り越えて、薩摩藩では絶妙な権力の承継が行われていた、ということだ。
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調整役に徹し薩摩を雄藩に
久光は実にうまく権力を継承した。代替わり(久光は藩主ではないので、正確には「代替わり」ではないが)というのは先代の存在が輝かしいほどうまくいかないものだが、円滑な代替わりで薩摩藩は幕末の雄藩として活躍できた。
平清盛(1118~81)、織田信長(1534~82)、豊臣秀吉(1537~98)はみんな権力継承に失敗している。うまくいった例はたいがい、先代が大御所や上皇のように後継者を後見している場合だ。それでも徳川家康(1542~1616)は細心の注意を払い、最後は豊臣家を滅亡させて、ようやく秀忠に権力を継承している。
島津家でも斉彬までは先代の後見が機能していたが、斉彬は急死しているから、代替わりを契機に藩が分裂してもおかしくなかった。久光がそれをまとめあげたのは、ひとえに彼が我を通さず、我慢したからだろう。
もし代替わりがカリスマ型の斉彬から調整型の久光へではなく、逆だったらどうなっていたか。歴史にもしもは禁物だが、薩摩藩は維新の中心にはなれなかったのではないか。
さらにいえば、久光はそれが分かっていたから「調整型」に徹したのではないか。久光も斉彬のようなカリスマ型になる素質も十分にあったのだろう。絶妙の権力継承が久光の努力によるものとすれば、もしもは存在せず、薩摩藩はどちらにしても維新の立役者を担う運命だったのかもしれないが。
久光の子、茂久もエラかった
もうひとり、12代藩主になった久光の子、茂久(後に忠義、1840~97)も偉かった。藩主といっても実権は父・久光に握られ続けていたから、面白くなかったはずなのに、父に忠義をつくした。
西郷隆盛(1828~77)や大久保利通(1830~78)が活躍できたのは、3人の上司のおかげだ。ところが明治維新を成し遂げると、廃藩置県で島津家は権力を奪われ、挙句の果てに西郷と大久保は仲たがいして最後は鹿児島で戦争を起こすのだから、久光の心境は察するに余りある。桜島の噴火に見立てて打ち上げ花火でウサ晴らしくらいは、許してあげようではないか。
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『西郷どん』では今回を含め、4本の記事を書いた。勉強不足のところもあるかもしれないが、よろしければ読んでほしい。
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ドラマの内容に注文をつけたコラムもあるが、1回も欠かさず楽しく見ることができた。やはり大河ドラマは面白い。出演者や関係者の皆さん、お疲れさまでした。
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