2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は長谷川勝巳さんが演じる明智光秀(?~1582)だ。これまでとは違って、本能寺の変の直前に苦悶する姿だけでなく、光秀の政策、特に民政について描かれるのではないか。
読売新聞オンラインのコラム本文
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光秀が布告した大減税の話は、あまり知られていないように思う。コラム本文にもある通り、この減税は豊臣秀吉や徳川家康、家光らが撤廃しようとしてできず、明治維新までつづくことになる。光秀が「三日天下」(実際には13日だが)で残した唯一かつ最大の業績といえるのではないか。
再評価の一方で策謀家説も
光秀は比叡山の焼打ちに反対した「王法・仏法」を重んじる保守主義者で、城下町の丹波・福知(智)山では庶民思いの善政をした武将というイメージがあったが、光秀研究の第一人者として知られる歴史学者の高柳光寿(1892~1969)は光秀を「冷徹な合理主義者で策謀家だった」と指摘している。光秀の再評価が盛んになる前のことだ。
近年になって光秀の評価は、謀反人→合理主義者→庶民思いというふうに変わっているように思う。この減税の話も。庶民思いの光秀という見方にはまりやすい。
光秀は領地とした丹波福知山でも減税を布告したという記録があるが、それが事実としても、城下町の発展を図るための振興策としての減税は織田信長をはじめ、他の戦国大名もやっているから、庶民思いの証拠としては弱すぎる。
福知山城は光秀が丹波攻略後に大規模に改修した
税制は為政者の人格の鑑
確かに、為政者の人格の変遷が最もよくあらわれるのが、税制なのかもしれない。税制は国民の負担と受益の割合を決めるという政治の最も重要な機能で、暮らしを左右するだけに、為政者に対する世論の評価を反映しやすい。
今でも税制を事実上決めるのが政府税制調査会ではなく、政権与党の代表からなる与党税制調査会となっているのは、税制は選挙で選ばれた国会議員が庶民目線で決めるべきという考え方があるからだという。
しかし、光秀の大減税については、やはり人気取りが最大の狙いだったのではないかと思う。本能寺の変の後の光秀は、明らかに焦り、弱気になってたとみられるからだ。大減税だけでなく、朝廷や京都五山などへの銀子をバラまき、細川父子には、畿内を平定したら天下を任せてもいいとまで書いているのは、その表れではないか。
光秀には焦りがあった
焦りがあったかないかは、光秀が秀吉の「中国大返し」をいつの時点で知ったのか、にも関係する。6月8日説と10日説があるようだが、9日に急ぎ上洛したことを踏まえると、8日ではないか。本能寺の変は6月2日だから、1週間もたっていない。焦って何とか自分の正当性を示そうと、人気取りの政策に走ったと見る方が自然だ。
この期間の記録としては、光秀から銀子を受け取った吉田兼見が、本能寺の変から光秀の滅亡までの日記を残している。この日記の話については、別にコラムを書いているのでよろしければお読みいただきたい。
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まだ未解明な「本能寺の後」
2018年11月には、柴田勝家が天正10年6月10日に織田方の武将だった溝口半左衛門に宛てた直筆の書状が見つかった。勝家は書状のなかで、光秀が拠点とした近江(滋賀県)にいるとみて、織田方の丹羽長秀と連携して討伐する計画を明かしている。
しかし実際には光秀は6月10日、筒井順慶を味方につけようとして摂津(大阪府)に出陣し、「洞ヶ淵」で知られる待ちぼうけを食っている。光秀がどう行動したのかについては、当時ですらわからなかった。まだ分からないことが多いのは当然かもしれない。
いずれにしても、本能寺の変後の光秀の動向がもう少し分からないと、光秀の大減税の真意についての結論は出ないだろう。
光秀は山崎の戦いに敗れた後、坂本城に退く途中で殺された(坂本城址)
コラム本文ではフランスの事例も書いたが、日本でも住宅ローン減税や租税特別措置といった税制が既得権益化して続いている。ともすれば減税は人気取りに墜しやすく、将来に歳入不足というツケを残す。果たして本当にやるべきなのかについて、今の税制についても常に政策の意図をチェックする必要があるのは、言うまでもない。
maruyomi.hatenablog.com
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