今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

巨大古墳と黄金の日日...自由都市・堺 その影の歴史

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  国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が、大阪府堺市仁徳天皇陵古墳(大山古墳)を含む大阪府南部の「百舌鳥・古市古墳群」を世界文化遺産に登録するよう勧告した。7月にも正式に決定する見通しだ。

 これまで3度の国内推薦での落選を経ての勧告だから、地元の喜びは大きいだろう。普通なら堺市長の喜びのコメントが報じられるが、今回はなかった。大喜びは7月の正式決定で、ということかも知れないが、市長が不在では喜ぼうにも喜べない。

世界遺産決定の日に市長不在

 堺市では竹山修身(おさみ)市長が、後援会や資金管理団体などの報告書に2億円を超える記載漏れの責任をとって平成最後の4月30日に辞任している。竹山氏は古墳群の世界遺産登録運動に熱心に取り組んできた。

 辞職した直後に念願がかなうとは何とも皮肉だが、記載漏れはあまりに巨額で杜撰すぎたから同情はできない。古墳群登録の正式決定は、そのころには誕生している新市長が祝うことになる。

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竹山氏は統一地方選終了翌日に辞職願を提出した(読売新聞大阪本社版4月22日夕刊1面)

筋の通らぬ辞任劇

 竹山氏は大阪府知事だった橋下徹氏の全面支援を受けて市長に当選したが、その後誕生した大坂維新の会とは袂を分かち、維新が掲げる「大阪都構想」に反対する「反維新」のシンボル的存在だった。

 記載漏れが発覚した時期は都構想の是非が争点になった大阪ダブル選と重なったこともあり、自民、公明など堺市議会の与党各会派は真相究明より党利党略を優先した。

 維新が提出した市長不信任案を「まだ真相究明が不十分だから」という理由で否決し、統一地方選が終わると一転して竹山氏に辞職願を出させ、真相究明のための議員総会を流会にした。「臭いものにはフタ」の対応については、「深層NEWS」でも「筋が通らない」と指摘した。

 統一地方選での維新の躍進を受けて、自民府連と公明府本部は都構想の住民投票を容認する姿勢に転じている。反維新の竹山氏を守った堺市議会の自民、公明は結局は自らの首を絞めただけで、竹山氏の後任を決める堺市長選では維新候補が有利になるな、と思ったが、大阪出身の知人に言わせると、そう単純ではないらしい。

  

「堺ナショナリズム」とは

 知人曰く、堺市民には大阪の風下には立たない「堺ナショナリズム」とも呼ぶべき独特の感情が根付いているという。堺生まれの竹山氏も「堺のことは堺で決める」が口癖だった。2014年6月、市長だった竹山氏は京都市龍谷


学で『自由・自治都市 堺の挑戦』と題して講演している。

 「私のモットーは『念ずれば通ず』です。堺市長になりたいと念じて、念じて、念じて、大事なのは実行です。私をここまで駆り立てているのは誇るべき堺の歴史です」

 百舌鳥古墳群の土木工事に多くの人が集まったこと、中・近世は自治都市として繁栄し「東洋のベニス」と呼ばれたこと、近代は海浜地帯に高級住宅街、さらに臨海工業地帯がつくられたこと――竹山氏は堺の歴史を振り返りつつ、「堺の人は世界に飛び出し挑戦する『南蛮貿易の遺伝子』、古墳や銅器、鉄器をつくった『匠の遺伝子』、さらに自治都市が植え付けた『自由の遺伝子』を持っている、と力説している。

 堺といえば、室町時代末期から安土桃山時代に至る「黄金の日日」の繁栄がまず思い浮かぶ。しかし、歴史学者の三浦周行(1871〜1931)の『大阪と堺』(岩波文庫)などを読むと、繁栄よりも、戦火と圧迫に耐えた受難の歴史が浮かび上がる。

巨大古墳群は国力誇示のため?

 堺の名前は摂津、和泉、河内の国境にあることに由来する。もともとは熊野神社への参詣路が通る丘陵地の地名だったようだが、堺の発展は海とともにあった。

 古代には海の神を祀る住吉大社大阪市住吉区)の領地で、住吉大社の夏祭りでは、今も神輿を大和川で大阪衆から堺衆に引き渡す「神輿渡御祭」(おわたり)が行われている。地理的条件に恵まれた堺は、王家の港・榎津(えなつ)を起源に、漁港から貿易港として発展していく。

 百舌鳥古墳群の成立も海と関係があるようだ。奈良大学学長も務めた考古学者の水野正好(1934〜2015)は、巨大古墳群の造成は難波大津宮と結ぶ街道や大阪湾岸の港の整備も兼ねた、今でいう「ウオーターフロント開発計画」の一環だったとみている(『古墳時代研究と自然科学』)。

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 立命館アジア太平洋大学学長の出口治明さんは、『0から学ぶ日本史講義』(文藝春秋)の中で、古墳群は外国からの使節に大王(天皇)の力を見せつけるために造られたのかも知れない、との見方を示している。中国や朝鮮の使節は海路で瀬戸内海を経て畿内に入っていた。海から巨大古墳群の威容を見たら、確かに「倭の国力侮りがたし」の印象を持っただろう。

南北朝時代から合戦に巻き込まれ

 街道に接し、港をもつ交通・物流の要となれば、当然権力者の争奪戦の対象になる。南北朝時代には住吉社の神主家だった津守氏が南朝方につき、住吉に仮の御所(行宮)が設けられたこともあって、堺は南朝方が勢力圏だった九州に行き来する西の拠点港となった。

 延元3年(1338)には南朝方の北畠顕家(1318〜38)と北朝方の高師直(?〜1351)が堺市周辺で激突する石津合戦が起き、顕家は堺で戦死している。

 応永6年(1339年)に3代将軍足利義満(1358〜1408)と西国の守護大名、大内義弘(1356〜1400)が対立した応永の乱は堺が舞台になった。海路で周防(山口県)から堺に入った義弘は街全体を城壁で取り囲んで幕府軍を迎え撃ったが敗死し、戦火で「堺一万戸は一宇も残さず焼け失せた」(『応永記』)という。 

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大内義弘(『絵入豪傑列伝日本歴史下』国立国会図書館蔵)

 義弘は堺や山口を拠点に独自に朝鮮との貿易を進め、日明貿易に力を入れていた義満にとっては邪魔な存在だった。堺は幕府と大内氏の“貿易戦争”に巻き込まれたともいえる。

 義弘の敗死で大内氏は衰退するが、博多などを拠点にした日明貿易で息を吹き返し、応仁の乱では西軍に属した大内政弘(1446〜95)が兵庫湊(神戸)を制圧する。反撃に出た東軍に焼き討ちされて兵庫は壊滅的な被害を受け、以降の遣明船は堺を母港とするようになる。大内氏の戦争で焼かれた堺は、再び大内氏の戦争で復活のきっかけをつかんだ。

「堺幕府」と自治都市の関係

 南北朝統一後の堺は山名氏が領した後、幕府の管領を務めた細川京兆(惣領)家が北半分を支配し、南半分は将軍家とかかわりが深い京都の相国寺崇寿院の領地を経て、細川氏の管轄下に入る。

 細川氏の内部抗争のあおりで支配者は目まぐるしく代わり、京都に将軍が不在の時期には、細川晴元(1514〜63)らに擁立された足利義維(よしつな)(1509?〜73)が堺で政務を執った。

 義維は「堺公方」と呼ばれ、中世史研究者の今谷明さんはこの政権を「堺幕府」と呼んでいる(『室町幕府解体過程の研究』岩波書店)。

 支配者が代わったことは、堺が自治都市として発展するきっかけになった。堺の南半分では応仁の乱以前から年貢や地子(借地代)をまとめる「地子請」(じげうけ)が認められ、納税を取りまとめる住民の自治組織があった。

 日明貿易で巨額の富を得た堺の商人は、商業活動のために倉庫(納屋)を提供したり、住民の信仰を集めた住吉神社開口神社を保護したりすることを通じて自治組織を取り込み、堺は会合衆と呼ばれた10人の有力商人が統率するようになっていく。

 領主だった細川氏や寺社は、貿易の利益や年貢が上納されさえすればよかったから、日明貿易の実務は堺の商人に任せ、事実上売り渡す形で警察・裁判権などの自治を認めていった。

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江戸時代初頭の境港(モンタヌス『都・堺・長崎図』堺市博物館所蔵)

 ポルトガル宣教師ガスパル・ヴィレラ(1525?〜72)は本国に送った書簡『耶蘇会日本通信』で、堺を「日本全国でここより安全な場所はない。町は甚だ堅固で、西方は海、他の側は常に水が満ちた深い堀で囲まれている」と記している。

 日本有数の貿易港となった堺には各地の産品が集まり、種子島に伝来した鉄砲は数年後には堺で製造が始まった。応仁の乱後、京都の文化人も荒廃した京都から堺に移り住んだ。堺は日本有数の軍需、文化都市でもあった。

黄金の日日」はごく短期間

 しかし「黄金の日日」の繁栄は長くは続かなかった。永禄11年(1568)に上洛を果たした織田信長(1534〜82)は堺を直轄地として代官を置いた。堺の商人は当初は信長に抵抗するが、結局は2万貫文の矢銭(戦時税)を支払い、信長の支配を受け入れた。

 豊臣秀吉(1537〜98)も堺に政所を置いて直轄地とするが、大坂を発展させるため、周囲の環濠を埋めて堺の商人を強制的に大坂に移住させた。

 大坂の陣で堺は豊臣・徳川の争いに巻き込まれる。冬の陣を前に豊臣方は堺に軍需品の提供を求めたのに対し、堺政所は徳川方に協力する。裏切りに怒った豊臣方は夏の陣が始まると堺に攻め寄せ、焼き討ちする。その炎は大阪からも見えたという。

 豊臣家滅亡後に堺を直轄地とした徳川幕府は復興に尽力するが、その後の鎖国で国際貿易港としての役割を終えた堺は、かつての繁栄は取り戻せなかった。

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豊臣期大坂図屏風(オーストリア・エッゲンベルク城蔵)は大坂の陣の前の作とみられ、右上隅に当時の堺が描かれている

明治維新で再び脚光を浴びたが…

 堺が国際貿易港に復帰する機会は、幕末にやってくる。欧米列強は貿易のため大坂の開港を要求したが、大坂は京都に近すぎ、大勢の外国人が京都に入ることを嫌った幕府は堺を開港の有力候補とした。だが、堺周辺には天皇陵が多く、開港すると外国人が古墳を踏み荒らす可能性があるという声が出て、兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。

 明治新政府は慶応4年(1868年)、旧幕府領(天領)に府と県を設置し、旧和泉国は堺県となる。堺県はその後旧河内、さらに旧大和(奈良県)が編入され、一時は近畿有数の大県になった。

 新政府内務卿の大久保利通(1830~78)は開港場がある兵庫県の力を充実させるため、播磨・但馬・丹波に淡路を編入して兵庫県を近畿最大の県にした。堺県を大きくしたのも、いずれは開港させようと考えていたからかも知れない。

 慶応4年には大阪湾測量のため堺に上陸したフランス水兵が、堺を警備していた土佐藩士と衝突する「堺事件」が起きており、大久保が堺を安定的に治める必要性を痛感していたことは想像に難くない。

近畿の大県、一転廃県に

 だが、旧河内を奪われた大阪府は税収が落ち込み、泊まりがけでないと県都・堺に行けなくなった奈良県とともに堺県への編入に不満を強めていく。堺には奈良の合併を事前に知らされず、堺県知事の税所篤(1827〜1910)は盟友だった大久保に「驚愕千万かつ迷惑」と書いた手紙を送っている。

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 結局、堺県は明治14年1881年)、隣接する大阪府の財政悪化を救うため、一転して廃県となり、大阪府編入されてしまう。幕末に堺が開港場として選ばれていれば、廃藩置県の10年後に“廃県転府”が断行されることはなかっただろう。

 大阪府の郡部となった堺区(現在の堺区ではなく、堺市の前身)は大阪市の東西南北の4区より格下とされ、市制導入で区から市になって以降も鉄道や港のインフラ整備は大阪、神戸より後回しにされてしまう。竹山氏は講演で「もし堺県が存続していれば、近鉄大阪線阿倍野ではなく堺に引かれていたと思う」と述べている。

40年来の悲願、2006年政令市に

 一方の大阪、神戸市は、東京、京都、横浜、名古屋とともに日本の6大都市として発展していく。昭和に入ると6大都市は連携して府県並みの自治権を持つ「特別市」となることを求めた。

 戦時中に東京府と市が統合されて東京都となったが、東京を除いた5大都市は戦後に特別市を求める運動を再開する。昭和22年(1947年)には特別市の設置が認められたが、府県側と5大都市の対立で設置のないまま廃止され、代わって政令指定都市制度が誕生した。

 堺が周辺町村との合併を経て「40年来の悲願」だった政令指定都市への移行を実現したのは2006年。竹山氏が市長になる3年前のことだった。

どう動く「令和の会合衆

 維新が掲げる大阪都構想は、かつての特別市の考え方とは逆に、大阪市を解体して大阪府(都)が広域行政を担い、きめ細かい住民サービスは「特別区」が行うというのが基本的な考え方だ。

 堺市大阪市と同様に特別区になる方が都構想の導入効果は上がるが、堺市民はこれまで「堺をなくすな、堺は一つだ」と訴えた竹山氏を支持してきた。維新も堺が都構想に加わるかどうかの結論は急がない方針だという。

 日本有数の貿易、工業、文化都市として時代をリードし、高度な住民自治を実現した堺にも、時の権力に翻弄されてきた歴史がある。都構想参加の是非については外部に翻弄されずに「堺のことは堺で」決めればいいが、「ナショナリズム」には度重なる苦難をはねのけ、世界で活躍してきた進取の精神も含まれている。

 歴史を忘れず、前向きな議論を重ねてほしい。「令和の会合衆」に偏狭なナショナリズムは似合わない。

#堺 #黄金の日日 #応永の乱

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