河野太郎外務大臣が日本の外相として初めてパラオ共和国を訪問した。パラオ本島を訪れた外相は、約60キロ南西に浮かぶペリリュー島を慰霊している。
2015年には、戦後70年の節目に天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后陛下)もこの島を慰霊のために訪問されている。この島では太平洋戦争の中でもまれにみる激戦が繰り広げられた。
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攻防戦は昭和19年(1944年)9月15日から74日間にわたって続き、日本軍の戦死者は1万22人、負傷者は446人にのぼり、最後に残ったのはわずか34人だった。
一方の米軍の死者は1684人と硫黄島の戦死者より少ないが、負傷者7160人を加えた死傷者数は8844人に及ぶ。資料によっては1万人を超え、死傷率は米軍にとっても「史上最悪の戦い」だったとされる。
ノンフィクション作家の早坂隆さんは、この戦いを5年近くにわたって克明に取材し『ペリリュー島玉砕』を出版した。
本土空襲の拠点巡り日米が激突
昭和18年(1943)9月、米軍の日本本土への空襲を防ぐため、日本は死守すべき防衛ライン「絶対国防圏」を設けた。だが、日本海軍は翌年6月のマリアナ沖海戦で大敗して、中部太平洋の制空・制海権を失ってしまう。米軍は絶対国防圏内のサイパン、グアムを次々に攻略し、パラオを次の標的とした。
パラオは第一次世界大戦後に日本が委任統治し、ペリリュー島には東洋一と呼ばれる飛行場があった。この飛行場を拠点にしてフィリピン・レイテ島の日本軍を叩こうという作戦だ。
かつて日本軍によってフィリピンを追われた南西太平洋方面最高司令官のダグラス・マッカーサー(1880〜1964)にとって、フィリピンの奪還は悲願だった。
日本側も米軍の次の標的がペリリュー島だと予測し、旧ソ連と満州の国境を警備していた関東軍から2個師団を引き抜き、南洋群島に回しつつあった。パラオの守備は第十四師団があたることになり、ペリリュー島の守備は歩兵第二連隊が中心となった。この部隊を率いた守備隊長が、陸軍大佐だった中川州男(1898〜1944)だった。
中川が徹底した3つの戦術
中川はペリリュー島の守備にあたって、3つのことを徹底した。
第一に、島をまるごと要塞化した。中川は島を綿密に視察し、珊瑚礁でできた島の鍾乳洞などを利用して壕と壕とを直角を交えた通路で縦横に結ぶ壕「地下複郭陣地」を造り上げた。
第二に、住民を他の島に強制疎開させた。 中川は米軍の攻撃が始まる前にペリリュー島にいた邦人約160人だけでなく、現地の人々約800人に島を立ち退くよう命じている。この結果、激戦にも関わらず民間人の被害はほぼゼロに抑えられた。
第三に、日本万歳を叫んで敵陣に突っ込む突撃を禁じた。守備陣地が破られた場合は島の中央部に転進するよう厳命している。
無謀な玉砕戦ではなかった
早坂さんは「ペリリュー島の戦いは無謀な玉砕戦ではなく、周到な準備のもとに中川が合理的に進めた戦いだった。中川というと勇猛果敢なイメージを抱く人が多いが、細やかで合理的な準備の人だった」とみている。
極寒の満州北部から常夏の南洋に配置換えという、いわば窮余の策も黙々と受け入れ、遠距離の兵力の移動、装備の陸揚げを整然と行ったのも中川の力量だろう。硫黄島の戦いを指揮した陸軍中将の栗林忠道(1891〜1945)は中川の戦術を全面的に参考にしている。
米軍の過信と誤算
米軍も太平洋方面最高司令官のチェスター・ミニッツ(1885〜1966)を最高責任者とし、ガダルカナル戦で活躍した「米軍最強」の第一海兵師団の投入を決めるなど、日本軍をはるかに上回る兵力や装備を充て、攻略戦前に演習や訓練を重ねていた。
中川がペリリューに上陸してから5か月後の昭和19年(1944年)9月15日、ついに米軍の攻撃が始まる。師団長のウィリアム・ルパータス(1889〜1945)は、「2、3日で片付く」と豪語していたという。だが、米軍は上陸するまで地下陣地の存在をつかんでいなかった。連戦連勝で過信があったことは否めない。
米軍は島の形が変わるほどの空爆と艦砲射撃を加え、西側のオレンジビーチに迫った。ところが、海岸線から100メートルほどにまで近づいてきたその時、日本軍が一斉に砲火を浴びせてきた。
米軍は、「日本軍の守備隊は事前の爆撃で壊滅状態にある」とみていたが、日本軍は地下陣地で攻撃をしのぎ、まだ十分な戦力を維持していた。しかも、米軍の上陸地点は中川の読み通り。水際作戦をとらない方針だった日本軍も、この地点には速射砲などの砲火を浴びせる体制をとっていた。
燃えさかる海岸線での激しい攻防の末、米軍はようやく上陸するが、日本軍はバンザイ突撃をせず、島内に退いていく。上陸から3日後に飛行場は占拠したが、日本軍は地下陣地を使って神出鬼没に反撃してくる。
日本軍の奮闘は日本でも大きく報じられ、守備隊には昭和天皇から健闘を称える「御嘉尚(御嘉賞)」が 11回も贈られた。
始まると誰も止められない殺し合い
だが、やはり兵力や装備の差は明らかだった。次々に増援部隊を送り込む米軍に対し、日本軍には持久戦の先の展望はなかった。
地下陣地に手を焼いた米軍は、火炎放射器を使って地下壕を攻撃し始めた。炎をずっと先まで噴射でき、壕の入り口に近付かなくても日本兵を焼き殺せる。日本軍も必死に反撃し、果てしない凄惨な殺し合いが続いた。
中川ら守備隊の激しい抵抗を受け、マッカーサーはペリリュー島の陥落を待たずにレイテ島に進軍することを決めた。戦いの戦略的な意味は、上陸作戦の開始から1か月もたたない時点で半減していたが、戦いを続ける以外の選択肢はなかった。早坂さんは「一度始めるとやめられない戦争の不条理を知るためにも、この戦いを多くの人が知るべきだ」という。
最後の電文「サクラ サクラ サクラ」
「最悪ノ場合ニ於テハ軍旗ヲ処理シタル後…全員飛行場に斬込ム覚悟ナリ」
11月8日午前4時、守備隊はパラオ本島の司令部に緊急電報を送る。初の玉砕の申し出だった。しかし、司令官からの返信は、「飽クマデ持久ニ徹シ万策ヲ尽シテ神機到ルヲ待ツヘシ」というものだった。
1万人の兵力は、すでに150人ほどになっていた。「神機」が到来しないことは、誰の目にも明らかだったが、それでも玉砕は許されなかった。日本軍はなお抵抗を続け、中川が「10度の御嘉尚にもかかわらず、もはや大任を果たせそうにない」と敗北を詫びる電文を送ったのは、18日のことだった。
守備隊の最期は24日。中川はパラオ本島に5か条の決別電報を送る。戦闘可能な将兵は50人ほどだったという。
「敵ハ二十四日来我主陣地中枢ニ侵入…本二十四日以降特ニ状況切迫陣地保持ハ困難ニ至ル」
午後4時、 守備隊は集団司令部に最後の電報を送る。
「サクラ サクラ サクラ 我ガ集団ノ健闘ヲ祈ル ワレ久野伍長 ワレ久野伍長」
なお島に残る2200柱
ペリリューに散った1万22人のうち、中川を含む2200柱の遺骨はなお日本に帰れず、密林の中に眠っている。熊本市にある中川の墓には、ペリリュー島の砂が埋葬されているという。
パラオを訪問した河野外相は、パラオ政府に遺骨収集で協力を要請した。2016年に成立した戦没者遺骨収集促進法では、遺骨収集を「国家の責務」と定め、2024年までを収集の集中実施期間としている。米国はすでに米兵のすべての遺骨収集を終えている。日本も急がなければならない。74日の死闘で散った日本兵の2000人以上が、74年以上も祖国に帰る日を待っている。
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