日韓の対立に一向に収束の兆しが見えない。韓国の文在寅大統領は2019年8月29日に行われた閣議の冒頭、日本に対し、「一度反省を言ったので反省は終わったとか、一度合意したからといって過去の問題がすべて過ぎ去ったのだと終わらせることはできない」と述べ、一度の合意で歴史問題は解決しないとの考えを示した。
この背景について日韓の国交正常化交渉から振り返ってみた。
読売維新聞オンラインのコラム本文
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国際法を無視した元徴用工判決
日韓関係悪化のきっかけは、2018年10月30日、韓国の最高裁判所にあたる大法院が元徴用工4人に出した判決だった。新日鉄住金(現在は日本製鉄)に損害賠償を求めた裁判で、大法院は新日鉄住金の上告を棄却し、4人に合わせて約4000万円の賠償を命じた。
文政権は「三権分立がある以上、司法の判断には従わざるを得ない」として、この判決による日本企業の資産差し押さえ手続きを放置し、大法院の判断を事実上追認した。日本政府は「この問題は日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。大法院の判決は国際法に照らしてもあり得ない」と反発した。
日本は韓国を「ホワイト国」から除外し、韓国は日本と結んでいた軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた。のちに破棄を撤回したが、こんな状況で機密情報の交換が円滑にできるとは思えない。
互いに「報復措置ではない」という体裁をとってはいるが、元徴用工判決をめぐる対立が解決しない限り、日韓関係が改善に向かうことはないだろう。
対立の根は国交正常化交渉
対立の火元となった大法院判決は、元徴用工の請求権問題が「完全最終解決」したとする日韓請求権協定は有効だ、としつつ、新たに賠償を命じるという、一読すると矛盾する判断を示している。なぜこんな判決が出たのか。
判決はその理由を「日本の韓半島に対する不法な植民地支配、および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為」が前提としてある「強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権」は、請求権協定の適用対象に含まれないのだ、と述べている。
日本側から見ると詭弁としか思えないが、韓国側から見れば筋が通っている。大きな食い違いが生じた根っこを調べていくと、半世紀前の日韓国交正常化交渉にさかのぼる。
慰謝料請求権を放棄していた韓国
日韓の国交正常化交渉は、サンフランシスコ平和条約の発効で日本が独立を回復した直後の昭和26年(1951)の予備会談から始まった。何度かの中断をはさんで14年間、7次にわたる交渉の末、ようやく昭和40年(1965)に日韓基本条約と日韓請求権協定が締結された。
元徴用工の請求権については、当初から交渉の対象になっていた。韓国政府が日本政府に求めた8項目の弁償請求には、第5項に「被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他の請求権」とある。
日本政府が公開した外交文書によると、韓国政府は未払い賃金など法令で明らかに支払うべき賠償だけでなく、元徴用工の「その他の請求権」の中に「精神的・肉体的苦痛」を含めている。慰謝料を交渉のテーブルに乗せた(=請求権協定で放棄の対象に含めた)のは韓国側だったわけだ。
これに対して日本側は「生存している徴用工に対しては日本人にも補償をしていない。死亡者や負傷者には韓国人にも一定の支払いをしている」などと主張し、韓国側に「新たな請求をするなら証拠を示してほしい」と求めた。それは難しい、ということで、他の請求権も含め、経済協力とセットで請求権問題を解決することになった。
「つかみ金」3億ドルの意味
日韓請求権協定は第1条で、日本は韓国に無償で3億ドル(当時の為替レートで1080億円)、貸付(借款供与)で2億ドル(同720億円)、計5億ドルの経済協力を10年かけて行うことを定め、続く第2条1項で「両国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」している。
少なくとも無償供与の3億ドルは弁済に相当し、これで個人の請求権の問題は完全かつ最終的に解決されたと読める。だが、日本政府は「経済協力は経済協力であり、請求権との間には何ら関係はない」と説明し、韓国政府は「無償の3億ドルは請求権に伴うものではなく、実質的には国に対する賠償だ」と説明している。
当時、日本国内からは「韓国に『つかみ金』を握らせて請求権問題を解決し、日本人が持つ韓国内の資産請求権(53億ドル)を国が勝手に放棄した」という批判が出ていた。韓国の朴正煕(1917~79)政権は受け取った3億ドルを国民に分配せず、政府が一括して使おうと考えていた。双方ともに国内からの批判を封じるため、経済協力の意味をあえてあいまいなままにしたわけだ。
だが、大法院判決はこの3億ドルを論理構成には使っていない。日本の韓国併合は不法で無効だったのに、「不法な植民地支配下で反人道的な強制動員をした」ことへの慰謝料は請求権協定の締結交渉でも議論されていない。議論されていないのだから、当然、完全最終解決もしていない」という論理で構成されている。
玉虫色の産物だった「もはや無効」
韓国併合は不法で無効な植民地支配だったのかどうか。この点は、日韓請求権協定とともに結ばれた日韓基本条約の第2条の解釈がカギになる。
「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」(日韓基本条約第2条)
日本側は「もはや無効」を「かつては有効だったが、日韓基本条約で無効になった」と解釈する。日韓併合条約は大韓民国が独立した昭和23年(1948)8月15日に失効したが、かつての日本の韓国併合は国際法的に合法、有効だったことになる。
これに対して韓国側は「もともと日韓併合条約を含む一連の条約は無効だったことを、この条文で確認した」と解釈する。韓国併合は最初から不法に行われ、日本の朝鮮半島支配は全体が違法・無効だったことを日本側も認めた、ということになる。
「null and void」巡る日韓の攻防
この条文が玉虫色であることは、英語の表現をめぐる交渉記録を見ると、よりはっきりする。
「もはや無効」は英語では「already null and void」だが、韓国側は交渉の当初から「null and void」という表現にこだわった。「null」はラテン語では完全否定で、「null and void」には「当初にさかのぼって無効」という強い意味がある。日本側は「null and void」を拒み、決着は最終の第7次交渉までもつれ込んだ。
最後は訪韓した椎名悦三郎(1898~1979)外相が徹夜交渉の末、「null and void(の表現)を受け入れるが、その前にalreadyを入れてほしい」という妥協案を出し、ようやくまとまった。
韓国側は国際法の学者に問い合わせて、「null and voidが入るなら、前にどんな修飾語がついても意味は変わらない」という答えを得て「already null and void」を受け入れている。
韓国側の解釈では、日本の韓国併合は不法で無効であることは日韓基本条約で確認されているのに、日韓請求権協定はその前提に立って結ばれていないのだから、植民地時代に強制動員された元徴用工に対して慰謝料を払うのは当然ということになる。
なぜ合意を急いだのか
日韓両政府が国交正常化を急いだ背景には、双方の事情と米国の圧力があった。当時の韓国は経済の停滞が続き、冷戦下で国防予算の膨張が続いた米国は韓国への海外援助を削減し始めていた。
中国が核実験を行い、北朝鮮も「千里馬運動」による経済成長を続けていた。朴大統領は国交正常化によって日本からの経済協力を得ることを優先した。
一方、アジア外交の推進を掲げた佐藤栄作(1901~75)首相も韓国との不正常な関係はアジアの平和と安定にマイナスになると判断していた。さらに米国はベトナム戦争にのめり込む中で、アジアの安全保障の面から日韓の連携を強く求めていた。
米国は日韓の交渉が行き詰まるたびに再開を促し、早期合意に向けて両国に圧力をかけていた。第2条の文言が英語の表記でもめたのは、交渉の影の主役が米国だったことを物語っている。
だが、合意を急いだツケは大きかった。「過去」の清算をする絶好のチャンスを十分に生かせなかったことは、歴史認識を巡る日韓対立は続く結果を招いた。
元徴用工は今度は韓国の裁判所で訴訟を起こした。日韓両政府の解釈の「ねじれ」がこの問題を長期化、複雑化させ、救済を求める元徴用工を振り回し続けた面は否めない。
それでもボールは韓国側にある
日韓請求権交渉の締結にあたって、両国政府は「この問題は解決し、もう蒸し返すことはない」という点では完全に一致していた。見解の違いを知りつつも玉虫色の条文におさめたのは、両国が知恵を絞り、互いの立場を尊重した結果だった。文政権はその知恵を顧みず、あえて玉虫色で被ったオブラートをはがして自らの解釈を押し付けようとしている。
過去の植民地支配は違法で無効だから、慰謝料を求める権利はある、という大法院判決を受け入れれば、日本は元徴用工に限らず、韓国を統治していた時代に行ったあらゆる行為について、ほぼ無限に近い慰謝料請求に応じることになりかねない。
請求権協定の第3条は、トラブルが起きた時にはまず外交を通じて解決し、それができなければ第三国を交えた仲裁委員会を開くと定めているのに、この手続きを拒否しているのも韓国側だ。文政権が元徴用工問題で日本の主張にも理解を示さなければ、改善の糸口は見つからない。ボールはやはり、韓国側にある。
主要参考文献
木村幹『朝鮮半島をどう見るか』(集英社新書)
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