今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

焼失した首里城は「戦わない琉球」の象徴だった

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 このコラムはYOMIURI ONLINE「深読み」で2019年1月まで掲載し、それ以降はこのブログで不定期に更新してきました。YOMIURI ONLINEのリニューアルに伴い、2019年11月からは読売新聞オンライン「webコラム」で連載を再開しました。

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行政と交易重視、軍事は二の次

 コラム再開初回は衝撃的だった首里城焼失について書いた。城は武将や権力者の住居であり、多かれ少なかれ軍事拠点として整備されるが、首里城は行政の拠点として整備されている。

  琉球は交易国家だったから、その行政庁として軍事的機能は二の次にされ、平和の象徴として整備されたのは当然の成り行きだったのかもしれない。

 多国籍の文化が融合しているのも首里城の特徴だ。正殿は朱塗りが美しい和漢折衷の建物だが、木造2層3階建ての造りや龍の形の柱などは琉球独特の様式だ。中国からの使節冊封使)をもてなした北殿は入母屋造いりもやづくり、薩摩の役人と接見したという南殿の奥には日本風の書院があった。

 外国のいい点を積極的に取り入れ、さらに進んだ新たなものを生み出す文化や技術は、資源や軍事力に頼らない交易立国の有力な武器だ。異文化が融合した首里城は、琉球のしたたかな戦略を象徴する建物でもあった。

 城門を強引に開けさせたペリー

 だが、19世紀半ばになると、琉球は列強の武力に翻弄ほんろうされていく。まず、ペリー(1794~1858)の黒船がやってきた。

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マシュー・ペリー

 ペリーは日本を開国させるために琉球を占領して揺さぶりをかけようと考え、大砲2門を持ち出し、海兵隊を先頭に押し立てて強引に首里城の城門を開けさせた。

 琉球王府は最も格式が高い首里城正殿にはペリーを通さず、北殿で開いた歓迎の宴では清の使節より数段落ちる料理を出したが、ペリーは気づかずご満悦だったという。

琉球処分」と取り壊しの危機

 次に武力で威嚇したのは明治新政府だった。「琉球処分官」となった松田道之琉球側に清国への朝貢冊封関係の禁止や中国年号の使用禁止、軍隊の駐留などを要求し、琉球王府がこれを拒否すると、軍と警察を率いて沖縄県設置を通告する。一連の「琉球処分」によって国王尚泰は城を明け渡し、約450年続いた琉球王国は滅亡した。

 沖縄県首里城正殿を取り壊し、沖縄県社を創建しようとした。祭神は紆余曲折の末、琉球歴代の四王と源為朝(1139~70?)とすることが決まり、いよいよ取り壊しという時に、奇跡的な出来事が起き、首里城は守られた。奇跡的な出来事とは何か、はコラム本文にあるのでお読みいただきたい。

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 首里城にはまだ行ったことがなかった。機会があれば行きたいと思っていただけに焼失は残念でならない。熊本地震で熊本城が傷ついたときの県民の悲しみを知っているだけに、心の支えを失った沖縄の方々の悲しみは分かる。息の長い支援で何年かかっても、ぜひ復興させたい。 

 

maruyomi.hatenablog.com

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