安倍首相に対する「桜を見る会」についての批判が収まらない。公文書を恣意的に棄てたり、百歩、いや1万歩譲って恣意的でないとしても、ずさんにシュレッダーしてしまったりすることがいかに問題か、安土桃山時代の公家、吉田兼見(1535〜1610)の2冊の日記の話から考えてみた。
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天正10年の日記は2冊ある
天正10年(1582年)に本能寺の変を起こした明智光秀(?〜1582)と交友があった兼見は、光秀との記録も日記『兼見卿記』に記しているが、本能寺の変から山崎の合戦までの光秀の「三日天下」の間の日記には正本と別本の2冊が残っている。
光秀の謀反に協力したと疑われないように、この間の日記を後から書き換えたと見られているが、謎なのは、なぜ書き換える前のオリジナル(別本)を廃棄せずに残したのか、ということだ。コラム本文では私なりの解釈をしてみた。ご意見があればぜひ、教えてください。
大河ドラマ「麒麟がくる」放送開始を前に、書店にはさまざまな「光秀研究本」が並んでいる。「2冊の日記の謎」はこうした本の多くで研究者が言及しているので、歴史ファンにはご存知の方も多いだろう。
「桜」より問題なのは公文書管理
「桜を見る会」問題は、会費や前夜祭の経費より、公文書の扱いを巡る政府の釈明がよほど問題ではないか。国会から史料請求があった日に参加者の名簿を廃棄したという説明に対しては、「そんな偶然があるのか?」という疑いを持たないほうがおかしい。
「紙でなくなった時点で公文書ではないから、復元も調査もしない」という政府の説明も「それはそうだね」と納得する方がおかしい。
名簿について内閣府は廃棄などの記録を残しておらず、公文書として扱っていなかった。これが違法であることは菅官房長官も認めている。内閣府は公文書の扱いについて他省庁を監督する責任官庁だから、責任は重大だ。
日記は公文書とは違うけれど…
『兼見卿記』は権力もない一役人が書いた日記で、公文書ではない。しかし、兼見は記録を残すことの重要性を知っていた。後世の研究者が「神は小に宿る」の精神で、細かくこの日記を研究している。
吉田神社の神主だった兼見は、信長によって殿上人に引き上げらた。光秀だけでなく、信長にも恩義を感じていた兼見は、事変を客観的に見ることができたはずだ。
兼見の日記の書き替えについては「一級史料でも改ざんがある証拠」という指摘もあるが、別本があったことが兼見の「後世への良心」に感じる。
兼見と後世の研究者の間の、日記を通じた「時代を超えた意思疎通」は、歴史好きにとっては、たまらなくうれしいことだ。記録は後世に残してこそ意味がある。
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光秀については、以下の記事も書いている。よろしければお読みいただきたい。
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