今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

新発見!信玄の信長宛て書状から読む戦国大名の外交戦

 元亀元年(1570)に武田信玄(1521~73)から織田信長(1534~82)に出された書状が見つかった。戦国期の史料を集める一般財団法人「太陽コレクション」が2019年、書画骨董業者を通じて購入したという。

 東京都市大准教授の丸島和洋さんと、東京大史料編纂所准教授の金子拓さんが信玄の書状と確認したというから、本物で間違いない。

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元亀元年(1570)7月のものか

 読売新聞の記事によると、書状は信長からの手紙への返書で、このなかで信玄は信長に深い謝意を伝えている。

 「お気遣いをいただき、どのようにお礼してよいか分かりません。越後(上杉氏)と甲斐(武田氏)が戦争になったら、何をおいても(信玄に)お味方くださるとのこと、頼もしく存じます」

 日付は7月14日で年の記載はないが、丸島さんは信長が足利義昭(1537~97)を奉じて上洛した永禄11年(1568)以降の書状とみている。

 信玄と上杉謙信(1530〜78)は元亀元年(1570)10月に、川中島の合戦以降続いてきた和睦を破棄している。手紙は両者の緊張が高まった同年7月に書かれた可能性が高いという。

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川中島古戦場の謙信、信玄像

 信玄と謙信は5度にわたる川中島の合戦以降、目立った衝突をしていない。だが、史実はそう単純ではない。この書状にいたるまでには将軍や戦国大名を交えた激しいかけ引きがあった。

最初の接触は信長側から

 信玄と信長の最初の接触はこの5年前の永禄8年(1565)ごろと見られ、最初に接近を図ったのは信長の方だったとみられる。

 信長は、過去に甲府に長年滞在した経験がある織田忠寛(?~1577)を使者に立て、武田勝頼(1546~82)に信長の養女を輿入れさせる提案をして、信玄も受け入れた。武田側の史料『甲陽軍鑑』と織田側の史料『総見記』は、ともにこの婚姻について、手ごわい敵との合戦を避けるための「甲尾不可侵同盟」だったと記している。

 同盟の証だった信長の養女は勝頼の嫡男信勝(1567~82)を出産後に死去したが、その後には信長の嫡男信忠(1557~82)と信玄の娘、松姫が婚約(その後解消)している。

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清洲城公園の信長像

「義信事件」で同盟強化?

 不可侵同盟は維持され、軍事同盟に強化されていった。きっかけは信長上洛前年の永禄10年(1567)、信玄が嫡男義信(1538~67)を死に追いやり、今川家出身の夫人を駿府へ送り返した「義信事件」だった。

 信玄は、千日手の消耗戦になっている上杉謙信との対立に終止符を打ち、標的を駿河遠江静岡県)を領する今川氏真(1538~1615)に切り替えた。義信事件の裏に信玄の戦略変更があるとみた信長は、徳川家康(1543~1616)に対し、信玄と示し合わせて氏真を叩くよう要請した。駿河をめぐる信長、信玄、家康の密約が成立したのは、おそらく信長上洛の直前ではないか。

 上洛の直後、信玄と家康は氏真を挟み撃ちにする形で今川領に攻め込み(第一次駿河侵攻)、信玄は駿河を占領し、家康は遠江西半分を得た。信長は東からの脅威を受けずに上洛できた。信玄は信長の上洛を黙認し、それは駿河侵攻と引き換えだったとみることもできる。

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足利義昭(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

「甲越和与」破棄のワケ

 だが、ここで邪魔が入った。武田、今川と「甲相駿三国同盟」を結んでいた北条氏康(1515~71)が、信玄の駿河侵攻を同盟破りとみなして氏真を支援し、謙信と「越相同盟」を結んで武田領への出兵を求めたのだ。

 窮した信玄は信長に謙信との和睦を斡旋するよう再三求め、信長は将軍。足利義昭(1537〜97)を動かして謙信と信玄の和睦「甲越和与」を成立させた。

 越相同盟と甲越和与は、ともに永禄12年(1569)の成立とされる。だが、上杉は北条にも武田にもいい顔をしていたわけではないようだ。このへんの前後関係はやや分かりにくいのだが、越相同盟が実際に成立したのは領地や人質の人選がすんだ翌年、元亀元年のこととみられる。

 謙信はこの年の7月19日、信玄が送った使いの僧を斬り捨てている(武田氏研究会編『武田氏年表』)。「和与」成立からからわずか1年で甲越の関係は悪化し、謙信は越相同盟の完全成立を待って10月に「和与」を正式に破棄したということになろう。

信長はなぜ信玄を支持した?

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 今回見つかった信玄の書状は7月24日付だから、丸島さんの見立て通りに元亀元年に書かれた信長への返書であれば、使僧切り捨てに相前後して信長が信玄支持を表明し、それに信玄が謝意を示したということになる。

 だが、このころ信玄は家康との密約を破って遠江に出兵するなどの横紙破りを繰り返している。家康は信玄を信じられなくなり、信玄をけん制するため信長と謙信の同盟を斡旋していた。

 こんな時になぜ信長は謙信でなく信玄支持を表明したのだろう。実際に信長はその2年後、手痛い裏切りにあうことになる。

 謝意を示した書状から2年後の元亀3年(1572)、信玄は「反信長包囲網」を形成しつつ遠江三河に進発する。「西上作戦」と言われるこの軍事行動は、最近では上洛戦ではなかったという見方が有力だが、信長・家康への敵対行為であることは間違いない。

信玄の裏切りに激怒した信長

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信玄は三方ヶ原で織田・徳川連合軍を撃破する(『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖)

 「信玄西上」の報を受けた信長は謙信への書状で「義昭を動かして甲越和与に努めたのに、信玄の所行は前代未聞の無道さであり侍の義理を知らぬ。未来永劫、信玄とは二度と手を結ばない」と口をきわめて信玄を罵倒している。

 信玄は三方ヶ原で織田・徳川連合軍を撃破するが、西上作戦の途中で死去する。しかし、信長は武田への恨みを忘れなかった。天正10年(1582)、軍事上の優先度が低かった(当時、信長にとって最強の敵は毛利だった)にもかかわらず、大軍で武田領に攻め入って勝頼を殲滅したのは、信玄の裏切りに対する報復という説もある。

 いつもは周到な信長の攻略後の領国経営だが、旧武田領についてはおざなりだった。歴史学者の鈴木良一(1909〜2001)は『織田信長』(岩波新書)の中で本能寺の変の後に旧武田領の織田支配がたちまち瓦解したことで、信長は感情的、無計画に武田を滅ぼしたしっぺ返しを受けたのだと総括している。

外交戦とはかくも複雑

 見つかった書状を鑑定した金子さんは「後に信玄と信長は対立するが、信長の上洛後数年は信玄が信長の力を頼りにしたことを示しており興味深い」と話しているが、この感想の背景には激しい外交の駆け引きがあった。戦国時代は力任せに戦うだけの時代ではなかったわけだ。

 イランや北朝鮮をめぐる最近の各国の駆け引きをみても、外交というのは単純ではないなと感じる。

 安倍首相の中東訪問の裏にも、行くべきか行かないべきかという「べき論」や、行っても意味はなかったではないか、といった「結果論」では割り切れない、実にさまざまな駆け引きがあったはずだ。それを乗り越えて中東訪問を実現したことは、まずは評価していいように思う。

 今回見つかった書状は、3月に開館予定の太陽コレクションの展示施設「泰巖歴史美術館」(東京都町田市)で公開されるという。400年以上前の外交戦の息吹をじかに見れるのが待ち遠しい。

www.taiyo-collection.or.jp

主要参考文献

鈴木良一『織田信長』(岩波新書) 

maruyomi.hatenablog.com

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