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読売新聞編集委員  丸山淳一

ゴーン被告は不正義から逃げたのか?義経伝説との共通点

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 「私は正義から逃げたのではない、不正義と政治的迫害から逃れたのだ」

 ゴーン被告が逃亡後にレバノンで行った記者会見で述べた言葉の中で、私が一番印象に残ったのはこのセリフだった。

 この言葉を聞いて思い浮かんだのは、源義経(1159〜89)だった。義経が平泉で自害したというのは嘘で、大陸に渡ってチンギス・ハン(成吉思汗)になったのだ、という「義経北行伝説」を振り返ってみた。

  読売新聞オンラインwebコラム本文

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  webコラム本文でも書いたが、私は義経成吉思汗チンギスハン説は信じていない。今回、この説の完成形とされる小谷部全一郎(1868〜1941)の『源義経ハ成吉思汗也』(国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている)も読んでみたが、色眼鏡なしに読んだつもりでも、どうしても牽強付会に思えてしまう。

「成吉思汗」の字を分解すると…?

 義経=成吉思汗説の主張をひとつだけ紹介しておく。「王位」を「汗」の字で示すのは成吉思汗が始めたことだそうだが、汗の字は「サンズイ」と「干」に分解すると「スイカン」と読める。スイカンは白拍子の衣装を意味し、つまり義経の愛人の白拍子で、義経が平泉に向かう前に吉野で別れた静御前(生没年不明)を指しているという。

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頼朝(左奥)の前で舞う静御前(『大日本歴史錦繪』部分、国立国会図書館蔵)

 まだ続きがある。静御前には鶴岡八幡宮落成を祝って若宮堂で自作の歌を詠じながら舞を舞ったというエピソードがある。その歌とは、

しずやしず しずのおだまきくりかえし むかしを今に なすよしもがな

(しずの布を織る麻糸を巻いたおだまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

吉野山 峰の白雪ふみわけて 配流人の あとぞ恋しき

(吉野の山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠したあの人のあとが恋しい)

 義経への恋慕を募らせる有名な恋歌なのだが、「成吉思汗」を漢文で読み下すと「吉成りて水干を思う」となる。「吉」は「吉野山」のことで、「成吉思汗」という称号は「吉野山の誓い成りて、静御前を思う」と読めるというのだ。

 さらに今度は「成吉思汗」を万葉仮名として読むと「なすよしもがな」になり、義経「成吉思汗」という名前で、上の歌への返しをした、ということになる。

 よく考えたな、とは思うが、果たしてこれが義経=成吉思汗の決定的な証拠だろうか。そうは思えない。「信じる、信じないはあなた次第」ではあるが。

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蝦夷地に渡る義経(『義経一代記』国立国会図書館蔵)


義経伝説は一種の宗教」

 言語学者(探偵ではない)の金田一京助(1882〜1971)は、アイヌ語研究者の小谷部と親交があったが、徹底的に小谷部説を批判し、その中で「義経伝説は宗教のようなもの」と言っている。

 いくら実地調査をしても、最初から義経=成吉思汗と信じているから、見聞するものがすべて傍証に思えてしまうのだ、ということだろう。

 しかし、こうした指摘も義経伝説肯定派から見ると、否定派が聞く耳を持たず、かたくなにこじつけだと否定しているように聞こえるだろう。まさに「信じるか信じないかはあなた次第」。だから伝説なわけだ。

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日本に戻らないのはおかしい

 義経は兄の源頼朝(1147〜99)と対立し、京都から平泉までの逃避行を成功させているから、平泉から蝦夷地(北海道)に落ちのびた可能性はあるだろう。だが、義経=成吉思汗説は信じられない。最大の理由は、もし義経が本当に大陸に渡って力を持ったなら、なぜ日本に戻って頼朝を討とうとしなかったのか、が分からないからだ。

 義経が(自害か逃亡かで)平泉から消えた後、頼朝は藤原泰衡を滅ぼしますが、その直後に奥州藤原氏残党の大河兼任(?〜1190)が鎌倉打倒の反乱を起こしている。兼任はその際に自らを「義経だ」と名乗って支持を集めている。それほど義経という名前は戦いにはブランド効果があり、奥州では義経の帰還を切望していたはずだ。

 静御前の歌に返しをするくらいなら、義経にも日本の情報は届いていたはずだ。なのに大陸に渡った義経は、日本の支持者の恩義などすっかり忘れてユーラシア大陸席巻に乗り出す。これはどう説明するのか。

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 考えてみると、義経にはそういう自分勝手なところがあったのかもしれない。義経が頼朝に無断で検非違使(判官)の任官をうけ、激怒した頼朝に弁明する有名な「腰越状」は、悪いのは任官の意図を誤解している頼朝の方で、自らの「絶対正義」を主張する文章で、弁明書とはいえない。

 腰越状は後世に加筆されているという見方もあるが、だとしても、それは義経の唯我独尊を反映した加筆なのではないか。

 平氏を倒してからの義経の勝手なふるまいは無断任官だけではなかった。少なくとも義経について、私は判官贔屓にも与しない。 

判官贔屓が世界に拡散?

 ゴーン被告と義経は逃避行の経緯云々以上に「完全正義」を主張しているところが似ている。判官贔屓で支持を得ることを狙った情報戦に見えて仕方がない。

 「15億円の保釈金を捨てて逃亡するような大金持ちを判官贔屓などするわけがない」という見方もあるが、そうだろうか。義経も源氏の御曹司で、一時的にではあるが、富と権力を得ている。判官贔屓に富や地位の有無は関係がない。

 コラム本文にも書いたが、判官贔屓は「なぜ自分はこれほどまじめに働いているのに正当な評価がされないのか」という被害者意識を背景に、悲劇の英雄に自分を重ね合わせる心情だという、世界的に格差が拡大している今、「ゴーン伝説」が誕生し、判官贔屓は日本人の特性とはいえなくなる可能性は十分あると思う。

maruyomi.hatenablog.com

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