今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

新型コロナ拡大 江戸の虎列刺(コレラ)の教訓生かせ

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 新型コロナウイルスによる肺炎の拡大が加速している。2002~03年に大流行し、中国で349人が死亡した重症急性呼吸器症候群SARS)を大きく上回る拡散で、感染は全世界に広がっている。

 最悪の場所とタイミング

 当初は感染力は弱いといわれていたが、実は感染力は強く、潜伏期間中にも感染する点がSARSとは異なるという。2月24日には流行の拡大による経済への悪影響を懸念し、世界同時株安が始まった。

ここまで流行が広がったのは、最初に感染が確認された中国湖北省武漢市での中国当局の対応が後手に回ったことが大きい。場所とタイミングが悪いことを、初期段階からもっと深刻に受け止めていれば、こうはならなかったのではないか。

 武漢市は中国のへその部分に位置し、人口は東京都並みの1100万人もいる。高速鉄道地図を見ると、居住者はもちろん、それ以外にも多くの人が行き来する交通の要衝であることが分かる。

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中国の高速鉄道網地図。武漢は“へそ”に位置し、東西南北への交通の要だ

 しかも1月25日から中国は春節を迎え、のべ30億人が移動する時期だった。今回の流行は「世界最大の民族移動」の時期に、移動の“へそ”で発生したわけだ。

 中国当局武漢市で交通を遮断して事実上封鎖し、近隣の都市も含めて4000万人を居住する都市に封じ込めた。国外への団体旅行は1月27日に禁止された。しかし、少し遅すぎた。春節が始まる前にすでに多くの人が国内外の旅行先に向かってしまっていた。

 中国の「春節」と新型肺炎拡散との絡みについては別のコラムを書いている。3月以降は流行の中心は欧州に移り、世界保健機関(WHO)がパンデミック(世界的な大流行)とみなせると位置付けたため、さらにコラムを追加した。よろしければお読みいただきたい。

鎖国の日本で「虎列刺」流行

 国内の感染者はクルーズ船の乗船者692人を除いても、159人にのぼっている(2月25日現在)。感染ルートが不明確な例も増えており、さらに感染が拡大するのは間違いないだろう。

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 日本政府も封じ込めをあきらめ、流行のピークを下げることに対策の主眼をおいている。だが「もはたじたばたしても意味がない」と考えてはいけない。あきらめないことが、過去の感染症流行の際の教訓だからだ。

 海外から入って日本で大流行した感染症は過去にいろいろあるが、まだ鎖国していた江戸時代後期に日本に入り、大流行した感染症として、コレラ(虎列刺)がある。

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コレラとの戦いは罹りやすい魚介類と野菜の戦いに描かれた(広重『青物魚軍勢大合戦之図』国立国会図書館蔵)

 コレラはもともとインドの風土病だったが、19世紀に世界的に大流行した。感染すると激しい嘔吐や下痢の後に痙攣などを起こして死に至る事が多く、非常に恐れられた。

 日本で初めて発生したのはまだ開国する前の文政5年(1822年)で、最初は長崎から入ったとみられている。長崎までの感染ルートははっきりしないが、細菌学者の北里柴三郎(1853〜1931)は明治20年(1887年)に発表した論文で「長崎とジャワ島との間を往復するオラ ンダ船がこの伝染病をもたらした」と記している。

 当時コレラは東南アジアから中国にも入り、揚子江をさかのぼって中国全土にも広がっていたから、大陸から琉球(沖縄)などを経由して長崎に入ったという説もある。いずれにしても、鎖国していても世界的な流行と無縁というわけにはいかなかったわけだ。

箱根で止まった最初の流行

 長崎に上陸したコレラは九州に拡がり、数か月後には本州に到達し、東海道を東に進んだ。だが、箱根を越えて江戸に達することはなかった。幕府が箱根の関所で旅人改め、すなわち検疫の強化をしたためとみられる。

 新型コロナ肺炎は飛沫感染接触感染するが、コレラはこうした感染がなく、関所で旅人の動きを抑制することで感染の拡大を抑えやすかった面はある。だが、医学が進歩していなかった江戸時代にコレラが関所で阻止できたことは、感染病が拡大した後でも検疫の強化は効果があることを示す一例といえるだろう。

 新型コロナは現代の関所といえる空港や港での「水際作戦」に失敗したが、春節の前からすでに多くの中国人観光客を迎え入れていた以上、仕方ない面もある。

 国内でも感染ルートが不明確な例が増えているが、それでも蔓延を防ぐ努力をあきらめなければ、流行のピークを引き下げることができる。

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最初の流行を食い止めた箱根の関所

 いったんおさまったコレラの流行は安政5年(1858年)になって再燃した。前年に米艦ミシシッピー号が中国大陸から持ち込んだのが始まりとされるが、最初の流行のぶり返しという見方もあり、はっきりしない。

 このときの流行は江戸にも及び、連日葬儀の列が絶えなかった。死者は江戸だけで10~26万人にのぼったという。さらに文久2年(1862)には3度目の流行が起き、江戸だけで7万3000人の死者が出たとされる。

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荼毘室(やきば)混雑の図(『安政箇労痢流行記』国立公文書館蔵)

 ただ、当時の寺の過去帳の記録には死因が明記されていないものも多く、流行の実態はよくわからない。庶民に非常に恐れられていたコレラは、異国人排斥を唱える攘夷思想には格好の宣伝材料となった。尊王攘夷派はコレラの死者を水増しして異国排除の宣伝に利用しており、2度目、3度目の流行の死者は水増しされていた可能性もある。

失敗を教訓に始まった検疫

 教訓として忘れてはならないのが、検疫の開始だ。鎖国をしていても海外からのコレラ流入を防げず、国内で蔓延させてしまった反省から、明治新政府は横須賀や長崎などに検疫所を設け、明治13年(1879年)から検疫を始めた。

  日清戦争に勝利して大本営陸軍参謀総長になった児玉源太郎(1852〜1906)は、コレラが蔓延していた中国や朝鮮半島からの帰還兵の検疫部長を兼務し、その実務を、当時内務省衛生局の官僚だった後藤新平(1857~1929)にとらせた。

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コレラの大検疫を成功させた児玉源太郎(左)と後藤新平国立国会図書館蔵)

 2人をよく知る実業家、杉山茂丸(1864〜1935)の『児玉大将伝』などによると後藤は2か月かけて「表方から楽屋までの全てを完備させ、鼠木戸の戸締りさえ落とさない」準備を整えた。

 大阪、広島、山口の島には臨時の検疫所が設けられ、これらの「検疫島」で兵士全員の徹底した検疫を行った。帰還兵はコレラ感染の疑いがなければ入浴させ、すべての持ち物を薬品や蒸気で消毒した。感染の疑いがあったり、その兵士と“濃厚接触“した兵士は隔離した。5か月間に帰還兵23万2346人、船舶687隻、物件93万2079点を検疫し、約700人の感染者を見つけた。

 凱旋して英雄視されるはずなのに、検疫島に押し込められた兵士からは苦情が殺到したというが、児玉は非難の矢面に立って後藤の厳しい検疫を終始、支持し続けた。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世(1859〜1941)はこの大検疫について、後に「日本にこのような事業を遂行する威力と人才があるとは」と驚嘆したという。

 余談になるが、2人はこの後、日清戦争の結果、日本が得た台湾の統治でも協力し、台湾の風土病を撲滅している。台湾が日本に友好的なのは2人の功績という見方もある。

警告は過大過ぎてもいけない

 新型コロナ感染拡大の一因に、初期段階での中国の情報の隠蔽を疑う声もある。真偽はともかく、感染情報は矮小化されても、逆に過大になっても、適切な対応を遅らせることは確かだ。

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攻め込む準備をする虎列剌勢(『虎列剌珍聞』国立国会図書館蔵)

  明治10年1877年)に起きた西南戦争では、東から派遣された兵隊の間でコレラが発生し、帰還兵によって全国に感染が広がったという。内務省はこの年「虎列刺病予防心得」を布告し、魚介の生食を控え、石炭酸の消毒薬を使うなどの予防策を推奨している。

 だが、感染してからの対策は、基本的には隔離しかなかった。感染者が出た長屋を封鎖し、住居一帯の往来を禁じるなどの厳しい隔離政策への反発から、各地で「コレラ一揆」といわれる住民と警察との衝突も起きたという。当時はコレラの病原体も突き止められておらず、措置自体にはやむを得ない面もあるが、市民生活の制限に関する措置には、十分な説明が欠かせない

  無責任な噂の罪深さ

 千葉県の鴨川では、政府の方針に基づいて治療と防疫にあたっていた医師の沼野玄昌(1836〜77)が、「井戸に投げ込んだ消毒薬は毒だ」「消毒するといって肝を取っている」などという噂を立てられ、漁民らに撲殺されるという悲劇も起きている(千葉コレラ事件)。

 政府が「予防心得」を布告してもこういうことが起きる。情報はきめ細かく、さまざまな手段を通じてわかりやすく伝えることが重要だ。

 こうした悲劇は、テレビや新聞に加え、SNSが発達している今でも起こり得る。逆に誰でも情報が簡単に発信できるようになったことで、デマが広がる恐れは増している。中国のように情報統制が厳しい国では、かえって口コミでうわさが広がりやすい。

日本でもないとは言い切れない。すでに「中国から大阪に来た観光客が新型肺炎と診断されたが、USJに行きたくて施設を抜け出した」といった類のとんでもないデマが流れたという報道もある。

 デマは不安を増幅させ、どんな悲劇につながるか分からない。面白半分に無責任なつぶやきをSNSに残すことがいかに罪深い結果を招くか、よく考えてほしい。

 

 

maruyomi.hatenablog.com

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