大久保今助(1757〜1834)という江戸の大富豪をご存じだろうか。江戸時代に利権を駆使してカジノ、劇場、ショッピングモールなどを次々に手がけ「今太閤」と呼ばれた商人だ。
統合型リゾート(IR)をめぐる汚職事件と根っこは同じにみえる。今助の波乱万丈の生涯について調べてみた。
読売新聞オンラインwebコラム本文
↑クリックし、読売新聞オンラインの読者会員登録をするとお読みになれます
鰻丼の考案者は本当に今助か
今助は鰻丼の考案者として知られ、茨城県牛久市では今助と絡めてPRしているうようだ。牛久沼はウナギの産地で、周辺に鰻屋も多い。
江戸と水戸の間を行き来していた今助が牛久の渡しを使い、乗り場の茶屋で鰻を食べようとしていた時に船が出そうになったため、あわてて白飯の上に鰻を乗せてふたをして、船を降りてから食べたらおいしかった…という話もあるようだ。
しかし、これは異説もあって、真偽ははっきりしない。コラム本文で根拠に挙げた『俗事百工起源』以外にも鰻丼の別の由来を記した文書もある。
鰻丼をはじめ、蒲焼きや割り箸の起源については「ウナギ愛5000年の歴史」でも取り上げた。詳しくはそちらをお読みいただきたい。
転落招いた熾烈な権力闘争
諸大名の江戸屋敷を転々としていた博打好きの「渡り中間だった今助は権力と癒着し、草履取りから中村座の金主に、そこから武士になって水戸藩の「御城付」格に、さらに“蔵前ショッピングモール”のオーナーへとのし上がる。
最後は水戸藩主の徳川斉脩(1797~1829)の後継争いで将軍家斉の21男、清水恒之丞(のちの徳川斉彊(1820~49)を推し、徳川敬三郎(後の斉昭、1800~60)擁立派に敗れて失脚する。
跡継ぎを書いた遺言状を手に入れる(手に入れたら必要に応じて改ざんするつもりだったのだろう)ため、江戸の盗賊、鼠小僧次郎吉(1797~1832)を斉脩の寝所に忍び込ませたという逸話はコラム本文に書いた通りだが、この話は相当どろどろしている。
結局この工作は実らず、斉脩の後継には斉昭が就任するのだが、斉昭に決まった経緯も実は、かなりいかがわしい。斉昭は斉脩の死から間髪を置かずに「遺言により」藩主に就任しているが、通常は後継の決定にはもっと時間がかかる。斉昭に決まった経緯は当時の平均的な後継選びと比べ、あまりに手際が良すぎるのだ。
この点については「後継は斉昭」とした遺言状は偽物だという説がある。病弱だった斉脩は藩主として一度も水戸に足を踏み入れていない。
当然ながら地元・水戸の藩士の多くは、水戸光圀(1628〜1701)の血を引く斉昭の支持率の方が高かったというから、手段を選ばず斉彊を排除しようとしたとしても不思議ではない。
新田開発も土地転売が狙いか
最後は水戸藩を追われ、近江(滋賀県)に移って琵琶湖畔の新田開発に携わり、琵琶湖の漁師の毒饅頭を食べて77歳で波乱の生涯を終える今助だが、この新田開発の実態は土地転がしに過ぎなかった。
新たに琵琶湖を埋め立てて作った土地は地元の彦根藩のものではなく、幕府の御料地となる予定だった。今助はその先兵として近江に送り込まれたわけだが、もし農業が失敗したらこの土地を売り払い、利益を得ようと考えていたようだ。
結局、この開発は今助の子が引き継いで完成させている。最近まで「大久保新田」という名前が残っているという。やがて斉昭は彦根藩主の井伊直弼と激しく対立し、この対立が安政の大獄から桜田門外の変へとつながっていくことを考えると、どこか因縁めいている。
↑クリックし、読売新聞オンラインの読者会員登録をするとお読みになれます
水戸の今助は鰻丼の話以外は悪人扱いされ、地元に肖像画すら残っていない、とコラム本文には書いたが、肖像画の情報があれば、ぜひご教示いただきたい。
なお、うなぎ愛5000年の歴史については、発売中の拙書「今につながる日本史」に収載している。
maruyomi.hatenablog.com
ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓
にほんブログ村
日本史ランキング
人気ブログランキング