今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

2020東京五輪1年延期、1940年「返上」との違い

 大河ドラマ「いだてん」の脚本家、宮藤官九郎さんが新型コロナウイルスに感染したという。志村けんさんが亡くなったことも、多くの人に衝撃を与えた。家族や知人が感染したり、外出自粛で生活がままならなくなっている方が増えているのではないか。心からお見舞い申し上げたい。

読売新聞オンラインwebコラム本文

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 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2020東京オリンピックパラリンピックは1年延期されることが決まった。「いだてん」で宮藤さんは昭和15年(1940)東京大会が返上された経緯についても描いている。2020東京五輪の延期について、改めて80年前の経緯を振り返った。

  皇紀2600年行事の目玉は万博だった

 皇紀2600年を記念して東京で五輪が計画され、誘致に成功したものの、日中戦争の激化を理由に取りやめになったことを知っている人は多いだろう。だが、この大会が「中止」ではなく、日本から「返上」という形を取ったこと(代替地としてフィンランドヘルシンキが決定している)、同じ年に札幌冬季五輪と東京万国博覧会が計画されていたことは、あまり知られていないのではないか。

 実は東京市が行事の目玉としていたのは、五輪よりも万博だった。月島の埋立地で万博と五輪を同時に行うことで、関東大震災から東京が復興する姿を国際的にアピールしようというのが東京市の当初の目論見だった。

 東京市の予算措置は五輪に約3000万円、万博には約4000万円で万博の方が多かった。準備も五輪より早くから進んでおり、メーンゲートになる予定だった勝鬨橋はひと足早く完成していた。

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万博に向け建設された勝鬨橋は船の通行にあわせて上がる橋だった(昭和38年ごろ)

 幻の前売り券は大阪万博で使われた 

 ロンドンやパリで五輪が万博と同時開催された前例があった。だが、国際オリンピック委員会IOC)は、過去に万博と同時開催された五輪が「添えもの」のように扱われ、盛り上がらなかったため、同時開催に強く反対した。

 大日本体育協会東京湾岸は風が強くて競技に向かないと湾岸開催案に反対し、メーンスタジアムは万博会場から離れた神宮外苑の拡張、さらには駒沢新競技場(結局この時は建設されず)とされた。このため、昭和15年東京五輪と東京万博の開催期間はずらして設定することとされていた。

 この時に東京湾岸での開催断念を見た内務官僚の鈴木俊一(1910〜2010)は後に大阪万博事務総長を務め、東京都知事になってから東京都市博開催をぶち上げる。だが、鈴木は都市博中止を公約にした青島幸男(1932〜2006)に敗れ、都市博は幻になった。2020東京五輪東京湾岸でも開催されるのはこの時の執念の名残ともいえる。

 ちなみに東京万博の前売り券はすでに発売され、「延期」とされたために戦後に日本で開かれた大阪万博愛知万博で有効とされ、実際に3000枚以上が使われている。

 なお、パリの博覧会国際事務局(BIE)は5月4日、新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえ、2020年10月1日からアラブ首長国連邦(UAE)で開幕予定だったドバイ国際博覧会(万博)を1年延期することが決まったと発表した。

 延期にはBIE加盟国の3分の2以上の賛成が必要だが、4月24日から遠隔投票を実施し、4日までに必要数に達したという。80年前の「返上」「中止」とは異なるが、五輪に続いて万博も「延期」というのは同じ流れである。

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最後まで五輪開催にこだわった嘉納の諷刺画(横山健堂『嘉納先生伝』国立国会図書館蔵)

嘉納治五郎国粋主義者ではない

 話を五輪に戻す。コラム本文では当時、日本の2人のIOC委員だった、嘉納治五郎(1860〜1938)と副島道正(1871〜1948)の五輪に対する意見の相違について書いた。嘉納が五輪をスポーツの祭典と同時に国民の精神修練の場としたかったのは事実だが、軍国主義プロパガンダに使おうとしたわけではない。

 だが、準備の遅れを挽回できたとしても、日中戦争は終息の兆しが見えず、国際社会が認めない満州国の参加問題など、難題はあまりにも多かった。それでも最後まで1940年の開催に固執したのは、国際公約を果たさなけれなばらないという一念からだったようだ。

 それは副島も同じ。五輪の返上は「必ず成功させる」という国際公約には反するが、五輪を開催2年前に返上して代替地を決められる時間をつくり、最低限の信義は保った。

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嘉納が下村体協会長に送った直筆の手紙(国立国会図書館蔵)

  嘉納はIOCカイロ総会の後、パリから日本体育協会会長の下村宏(1875〜1957)に宛てた書簡で「総会は何とか終了したものの、依然課題は山積で、これからが大変だ」と記している。

 嘉納はこの1か月後、日本が返上決定の前にカイロ総会からの帰路の船内で急性肺炎のため亡くなるが、仮に存命であっても、早晩五輪の返上を言い出したのではないか。

終息が見えない戦いの中での五輪

 1940年は戦争、今回は感染症で状況は違うとはいえ、終息が見えない戦いのなかでの五輪準備という点は同じ。1940年大会は返上されて重荷はなくなったが、今回は1年後に「完全な形」で東京五輪を開かなければならない。

 五輪開催に向けた準備不足はないとはいえ、再び調整をし直して臨むアスリートたちをはじめとする「仕切り直し」の負担は軽くないだろう。

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新国立競技場。開会式は2021年7月23日に延期された

 多くの国で新型コロナに対する国家総動員のような体制が続く中での平和の祭典は難しい。では、世界全体が五輪開催を旗印に団結できるかというと、現状では疑問符を付けざるを得ない人が多いのも事実だろう。1年の延期で大丈夫かという疑問への答えは、世界中の誰一人、持ち合わせていない。

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  嘉納治五郎とオリンピック、柔道の関係については、こちらにも書いているのでお読みいただきたい。

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 先のことを考えても仕方ない。まずやることは、新型コロナとの戦いに勝つことしかない。1940東京五輪の失敗から間違いなくいえることは、どうあがいても、五輪と万博は世界が平和でなければ開催できないということだ。

 *2020年ドバイ万博延期決定を受け、記事を更新しました。

maruyomi.hatenablog.com

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