今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

外出自粛でも楽しめる?安土城 3つの謎

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて全国に緊急事態宣言が出され、今年のゴールデンウイークはどこにも行かずにSTAY HOMEという人が多かっただろう。

 外出を自粛してみると、自由に外出できるというのはいいことだったのだなあと思う。外出して見ることができる景色を見ていると行きたくなってしまうから、外出できたとしても見ることができない素晴らしい景色を紹介する。織田信長(1534〜82)が築いた安土城だ。

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 安土城の天主閣は天正7年(1579年)5月11日、今の暦に直すと6月7日に完成したとされる。今は天主閣はないが、天主台跡まで登ると、1時間近くかかる。山ひとつが石垣という壮大な規模には驚いた。完成後まもなく焼失し、設計図が残っていないこともあって、安土城には謎が多い。

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安土城の3つの謎①〜消えた蛇石

 最も有名なのは「蛇石」(あわび石)の謎だろう。

 宣教師ルイス・フロイス(1532〜97)の『日本史』によると、この巨石は約10メートル、112トンもあり、巨石の引き上げ作業中、けん引する綱が切れて150人以上が石の下敷きになって死亡する事故も起きている。

 膨大な安土城の石垣の材料は近くの観音寺山や長光寺山などから切り出されたが、この石は信長の甥で近江(滋賀県)高島を拠点にしていた津田信澄(1558?〜82)が持ち込んだとされる。高島から船で対岸の安土へ運んだのかもしれない。

 信長は羽柴秀吉(1537〜98)、滝川一益(1525〜86)丹羽長秀(1535〜85)の3人の重臣を奉行に命じ、1万人あまりが昼夜兼行で3日がかりで曳き上げたという。信長も自ら金のぬきを持ち、木遣きやり(労働歌)や笛や太鼓で囃すなど巧みにこの作業を指揮した。

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安土城天主台跡の礎石は小さいものばかり

 ところがこの石が今、どこにあるのかわからない。これだけの巨石なら天主の礎石に使おうとしたと思われるが、天主跡には見当たらないのだ。そもそも天主ではなく、鎮め石として本丸御殿地下に埋められている、という説もあるが、真相は不明のままだ。

安土城の3つの謎②〜天主閣は一度倒壊した?

  加賀藩第4代藩主の前田綱紀(1643〜1724)が集めた諸国の記録『松雲公採集遺編類纂』の中の「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」という史料によると、天正6年(1578)年5月12日から近畿では大雨が降り出し、奈良の興福寺や大津の三井寺が水害の被害に遭った。この時の記述に「アツチ(安土)之城天主タヲレおわんぬ、人民死畢」という記述がある。

 この年の5月11日から13日にかけて大雨が降ったという記録は他の史料にもあり、『信長公記』によると、京都にいた信長も大雨のために播磨(兵庫県上月城への出陣を中止している。5月27日信長は「安土大水」の状況を視察のため安土に向かい、6月10日まで安土に滞在している。安土城の被害についての記述はないが、当時は造成中の山だったのだから、被害があっても不思議ではない。

 信長が安土城の普請を始めたのは天正4年(1576)正月で、冒頭に記したように天主が完成したのは天正7年とされる。しかし、いくら豪華絢爛にしたとはいえ、天正4年の夏には縄張りを終えて天主の石垣づくりに着手しているのに、完成までに時間がかかりすぎている。

 さらに、歴史研究家の桐野作人さんによると、堺の商人津田宗及(?〜1591)の日記には、天正6年(1578年)1月に宗及が安土を訪れ、「てんしゆ(天主)を拝見し候」という記載があるという。

 通説とされている天主完成の時期より1年半も前に信長が天主を披露していたとすると、その後に倒壊して再建された可能性が出てくる。

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町とアンズキュイヤマ(安土山)の城の平面図(シャルルポア『日本の歴史第2巻』国際日本文化研究センター所蔵)

 天主の完成が天正7年5月11日(今の暦では6月7日)とされるのは、『信長公記』に「信長が吉日だったこの日に天主に移った」とあるからだが、「吉日」というのは倒壊から1年の節目に読み替える余地もありそうだ。天主の詳細な描写が天正7年の記録がある巻十二よりかなり早い巻九にあるのはなぜか、など、疑問は他にもある。

 一方で、天主が倒壊するほどの大事件は『松雲公採集遺編類纂』以外に誰かが記録するはずなのに、その記録はない。このため今のところ倒壊説は異説とされているが、今後、新たな史料が出てくるかもしれない。

安土城の3つの謎③〜天主に火をつけたのは誰か

 本能寺の変で信長を討った明智光秀(?〜1582)は安土城に入り、山崎の戦いの時は光秀の家臣、明智秀満(1536?〜82)がいた。

 光秀の敗報を聞いた秀満は、光秀と合流して再起を図るため坂本城に退去するが、途中で堀秀政(1553〜90)の兵に遭遇した。秀満は馬に乗って湖水渡りをして坂本城に入ったという有名な伝説がある(『川角太閤記』)。

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明智左馬助の湖水渡り(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 秀満が退去した安土城天主は、その直後の6月15日に突如炎上してしまった。『秀吉事記』は秀満が退去時に火をつけたとするが、15日には信長の次男・織田信雄(1558〜1630)が城を接収しており、フロイスは書状に放火の犯人は信雄だと記している。

 『兼見卿記』も安土城の焼亡は15日としており、この時は秀満は安土にいなかった。『秀吉事記』が秀満を犯人としたのは、当時秀吉と同盟する信雄を犯人とするわけにいかなかったからとされ、通説では信雄犯人説が有力だ。

 だが、信雄には火をつける理由がない。よく「信雄は暗愚だったから」「不仲だった三男の信孝に城を譲ることになると思ったから」などと説明されるが、とってつけたような理由で少々強引すぎる。城主入れ替わりの混乱に乗じて城に入った野盗が火をつけたという説もある。ここは信雄と決めつけずに謎としておきたい。

  

復元には資金と記録がない難題

 完成から短期間で焼失してしまったため、安土城の天主がどんな構造だったのかは正確に分からなくなってしまった。信長が城と城下町の様子を詳細に描かせたという「安土山図屏風」がローマ法王に献上されたとの記録があり、滋賀県は昭和59年(1984年)にバチカンに調査団を派遣したが、発見できなかった。

 現在よくみられる5層7階の天主は『信長公記』やフロイスの見聞によるもので、これで天主を復元してしまうと、将来正確な絵図面が出てきた時に作り直しができない。滋賀県など地元では地元では天主の復元運動も始まっているが、資金面の課題もあり、計画は進んでいない。

 個人的には今の城跡のままにしておいても十分に雄大で素晴らしいと思うが、観光の目玉として地元が天主の復元を望むのもよくわかる。

 現在、最も信頼できる推定図で復元された天主は伊勢志摩の「友息の国 伊勢忍者キングダム」にある。建築史家の宮上茂隆(1940〜98)の案をもとに総工費70億円をかけて築城された。私も行ったことがある。このブログのアイコンにも使っているが、なかなか立派な天主だった。

 などと振り返っていると、城跡や模擬天主でももう一度見たくなる。冒頭で、外出できたとしても見ることができない景色を紹介した意味はあまりないことが分かった。

 天気もいいが、今は我慢だ。ひとりでも多くの人の命を救うため、連休返上で働いている医療関係者の方々に感謝しつつ、家にいることにしよう。

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 ちなみに映画『火天の城』でも3つの謎は描かれている。オンデマンドで映画を見るなど、それぞれの家での楽しみをみつけたい。

 最後に、滋賀県が制作した安土城を紹介する映像(5回シリーズ)を紹介しておく。

第1回 大手周辺の複数の虎口

  

第2回 直線の大手道

  

第3回 伝羽柴秀吉邸跡

  

第4回 伝本丸跡の御殿

  

第5回 幻の天主

   

*6月7日に記事を修正し安土城天主閣落成を追加しました。

 

 

 

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