新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が6月14日の放送回から休止するという。面白く観ていただけに残念だが、仕方ない。
ただでさえ東京五輪の間の休止を見越して今年の大河ドラマは短い。それがさらに短くなるのだから、後半はかなりの駆け足になってしまうのではないか。反対に当初は短縮を予定していなかった分、尾張統一までは非常に丁寧に描かれている。
信友と信勝の暗殺、ともに「帰蝶プロデュース」
まず4月26日放送回では、木下ほうかさんが演じる織田信光(1516〜56)が、梅垣義明さんが演じる清須織田家(大和守家)の織田彦五郎信友(?〜1555)を暗殺するシーンが描かれた。
続いて5月17日放送回では、染谷将太さん演じる織田信長(1534〜82)が木村了さん演じる弟の末森城主、織田勘十郎信勝(?〜1558)を清須城で誘殺するシーンが描かれた。
面白いのは、聖徳寺会見に続いてこの2つの暗殺について、ともに信長の妻、帰蝶(濃姫、1535〜?)がそそのかしたように描いていることだ。
信友の暗殺では、信友に碁を誘われた信光が帰蝶に相談するシーンがある。
信光「彦五郎(信友)に碁を打ちに来ないかと誘われている。さて、どうしたものかと...」
帰蝶「打ち(討ち)に行かれればよい。碁(彦「五」郎)を打った(討った)後には、すぐに信長も駆けつけましょう」
信勝について帰蝶は暗殺を教唆してはいないが、清須城で会うことを提案している。
帰蝶「哀れな男が起こす愚かな戦にまだお付き合いなさるおつもりですか。いくら兵を失えば気が済むのですか」
信長「どうしろというのだ」
帰蝶「信勝様に何としてもお会いなさいませ」
信長「会うてどうする」
帰蝶「お顔を見て、どうすればよいかお決めになればよいのです」
もちろん、ともに「蝮(斎藤道三、1494〜1556)の娘」らしい設定でドラマの創作だが、ありえない話ではないかもしれない。
信光は信長を支えた武勇の人
信光や信勝といわれて「ああ、あの人か」とピンと来る人はよほどの歴史好きだろう。尾張統一までの信長の動きについてはよくわからない人が多い上に、「信〇」という登場人物が多過ぎて整理がしにくい。信長ファンでも頭に入っているのは桶狭間の合戦以降という人が多いのではないだろうか。
まず、4月26日に放送された信友の暗殺について。実行犯の織田信光は弾正忠家の当主だった織田信秀(1511〜52)の弟で、信長の叔父にあたる。信秀が守護代の清須(大和守)織田家、岩倉(伊勢守)織田家を抑えて台頭すると、信光は信秀を補佐した。
『信長公記』によると、安祥城を奪った信秀が三河攻略を目指して松平・今川連合軍と戦った第一次小豆坂の戦いでも奮戦し「小豆坂の七本槍」と賞賛されている。
史実では信光は守護代職を信友と分かちあうため、すでに清須城に入っており、信友は暗殺ではなく自害に追い込まれたとされる。
ドラマでは暗殺した信光が雄たけびをあげるシーンがある。「とんでもないことをやってしてしまった」という意味が込められていたようだが、信光は百戦錬磨の武勇の人で、信友暗殺で雄たけびを上げるような人、というのは、私のイメージとはちょっと違う。
陰謀をめぐらす清須織田家の酒井大膳と対立
天文17年(1548)、信友の重臣だった坂井大膳(生没年不明)らが信秀に反旗を翻す。さらに第二次小豆坂の戦いで今川氏に敗れて安祥城を奪い返され、国内外に敵を抱えた信秀は、美濃(岐阜県)の道三と同盟した。
この証として帰蝶が信長に輿入れした経緯は既に大河ドラマで描かれ、別のコラムでも記しているのでよろしければお読みいただきたい。
信光は終始、清須勢に寝返らなかった。病に倒れた信秀は、信光に後継者の信長を支えるよう頼み、2人に「親子であると思え」という遺言を残したという。天文21年(1552年)、大膳ら清須勢が松葉城・深田城を占領し、信長が奪還した萱津の戦いでも、信光は信長方についている。
天文23年(1554年)、清須城にいた守護の斯波義統(1513〜54)が、嫡子、義銀(1540〜1600)が家臣を引き連れて川狩りに出かけた隙に大膳らによって暗殺される。
暗殺の理由は義統の近臣が信長に内通していたためとも、信友が今川氏と結ぼうとしたのに義統が反対したため、ともいわれる。義銀は那古野城へ逃げて信長に保護され、信長は義統暗殺の6日後に清須に出陣し、清須勢を破った(安食の戦い)。
信長に約束を反故にされた信光
焦った大膳は、信光に信友と並んで守護代にならないかと働きかけ、信光を取り込もうとする。信光はこの提案を受け入れたふりをして清須城に入ったが、裏で信長と通じており、信友を殺して大膳を清須から追放した。
『信長公記』は、信光と信長の間に「信友を討った暁には、尾張下4郡の半分(石高にすると10万石以上)を信光に与えるという密約があったと記している。ちなみに大膳は今川氏の元へ落ち延びたが、その後の消息は分かっていない。
信友暗殺に使われた信光は信長に暗殺された?
清須城を占拠した信光は約束通り信長に清須城を譲り、従来の居城だった守山城に戻らずに那古野城に入った。しかし、信長は下4郡の半分を与えるという約束を実行しない。そうこうしているうちに信光は家臣の坂井孫八郎(?〜1556)に殺害されてしまう。
『甫庵信長記』には孫八郎と北の方(信光夫人)が密通していたことが原因とあるが、『甫庵信長記』は江戸時代の成立で、その信憑性については『三河物語』が「イツハリ多シ」と述べるなど、信用できない。「領地の半分を譲る」という約束を反故にするため、信長が暗殺を命じたという説もある。
大膳から信友との同盟を持ちかけられた際、信光は同盟の起請文を書いたという。信光は大膳が提示した条件や、起請文を書いたことを信長に告げ、強請りまがいにそれ以上の条件を提示するよう求めたもかもしれない。
裏付ける史料はないが、「信光は寝返る」とみた信長が信光を暗殺した可能性は十分にあると思う。いずれにしても信光は後述する信勝暗殺より前に殺害されているはずだが、ドラマではナレ死もせず退場している。
弾正忠家の当主を名乗っていた信勝
5月17日の放送で信長に誘殺されたされた信勝は、父は信秀、母は土田御前(?〜1594)で、信長の同母弟だ。信行、達成、信成と名前を頻繁に変えており、ドラマの中では信勝だが、信行の方が通りがいいかもしれない。
信秀の死後、「うつけ」と見られていた信長に代わって弾正忠家の当主を名乗っていた時期もあったが、弘治2年(1556年)の稲生の戦いで敗れてから力を失っていた。盛んに改名したのは権威を維持するためとみられる。
ただ、勢力は衰えていたとはいえ、信勝がその後も信長に対する敵意を持ち続けていたのは間違いなく、信勝は信長にとって、最も邪魔な存在だった。
信勝は美濃(岐阜県)の斎藤義龍(高政、1527〜61)と同盟し、岩倉(伊勢守)織田家の織田信安(?〜1591)とも通じて謀反を企てたが、柴田勝家(1522?〜83)がこれを信長に密告した。
『信長公記』によると、信勝は男色の関係にあった津々木蔵人を重用し、勝家を蔑ろにしていた。信長が仮病を装って清須に見舞いに行ったのは「帰蝶プロデュース」ではなく、勝家と土田御前の勧めだったという。
『信長公記』には「勝家はこの謀略の功績で後に越前(福井県)を賜わることになった」という記述があり、明智光秀(?〜1582)の越前逃亡とセットで描いたのは勝家と越前を結びつける狙いかもしれない。
信勝が見舞いの際に信長に毒を飲ませようとしたというのと、信勝と会った信長が仮病を装って呼び出したことを最初に告白しているのはドラマ上の創作だ。
信長と同じく仮病で誘い出して兄弟を暗殺した義龍と手法を変えたのは、前々回の放送で、道三が光秀に「正直でなければ天下人にはなれない」と遺言し、「信長は正直だ」と評していたからだろう。しかし実際は、この暗殺は信長が身内に対して行った最後の謀殺だった。
信勝を暗殺した信長は間をおかず岩倉織田家を倒し、信長が同国の大半を勢力下においた。信勝の謀殺で今川義元(1519〜60)の侵攻の前に尾張を統一できなければ、桶狭間の戦いでの勝利はなかったのではないだろうか。
*5月17日放送回を受けて内容を更新しました
maruyomi.hatenablog.com
ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓
新型コロナ感染拡大等いろいろあって、ようやく5月20日に中央公論新社から発売です。本にだけ収載した書き下ろしもあります。
books.rakuten.co.jp