今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

大発見!秀吉最後の城で関ヶ原の勝敗が決まった?

 豊臣秀吉1537~98)が最晩年に築いた「京都新城」の石垣や金箔きんぱく瓦が、京都仙洞せんとう御所(京都市)内で見つかった。築城から30年ほどで解体され、どこにあったかすらはっきりしていなかった秀吉最後の城の遺構が、初めて京都御所内で確認されたのだから、「近年の城郭研究における『高松塚古墳級』の大発見」というのは大げさではない。

 京都新城は公家などの日記に「太閤たいこう御所」「京ノ城」などと記され、秀吉が関白の政務を執るため建設した豪華絢爛けんらんな城だった。それがなぜ「幻の城」になってしまったのか。 

読売新聞オンラインwebコラム本文

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 秀頼のための城、使ったのは北政所

 京都新城は慶長2年(1597)、秀吉が嫡子・秀頼(1593~1615)のために京都御所内に築いた。今回の調査で確認された石垣は高さ1~1.6m、長さは南北に約8mで、安土桃山時代の石垣構築「野面積のづらづみ」で積まれた本格的なものだ。さらに調査をすれば、聚楽第じゅらくだいに匹敵するかなり大きな規模の遺構が確認できるのではないか。

 だが、秀吉が新城完成からわずか11か月で死去すると、秀頼は大坂城に入り、京都新城は秀頼の居城にも、豊臣家の繁栄の拠点にもならなかった。京都新城は大阪城西の丸から移り住んだ秀吉の正室北政所きたのまんどころ高台院、?〜1624)の屋敷として使われた。

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聚楽第の遺構とされる西本願寺飛雲閣は、京都新城の遺構という説もある

 北政所は本当に家康を支持したのか

 秀吉が死去すると、豊臣政権内では徳川家康(1543~1616)を中心とする「武断派」(関ヶ原の戦いでは東軍)と石田三成(1560~1600)ら「文治派」(西軍)の対立が激化する。これまで北政所は豊臣から徳川への“政権交代”を容認し、家康を支持していたとされてきた。

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関ヶ原合戦図屏風』(彦根市博物館蔵)

 しかし、最近は北政所がむしろ西軍を支持していたのではないか、という見方がある。コラム本文では、

関ヶ原の合戦の直前に京都新城の石垣が壊されている。(戦う城としての機能をなくすことで、東軍に御所が攻撃されるのを防ぐためではないかと思われる)

関ヶ原での東軍勝利を聞いた北政所がひどく動揺し、京都新城から御所内に逃げ込んだという記録がある

③京都新城が焼き討ちされることを恐れ、北政所が秀吉の遺品を京都新城から豊国社に避難させたという記録がある

――といった京都新城に関係する根拠をあげたが、ほかにも、

④三成の娘が北政所の養女になっている

北政所の側近、孝蔵主(?〜1626)は三成の縁者で、大谷吉継(1558〜1600)の母も北政所に仕えていた

北政所の甥の木下勝俊(1569〜1649)は西軍の伏見城攻めの前に城を抜け出し、木下利房(1573〜1637)も西軍の将として戦い、戦後はともに改易となっている

――など、状況証拠はいくつかある。逆に大坂城を出た大後の北政所が、福島正則(1561~1624)、加藤清正(1562~1611)、浅野長政(1547~1611)ら秀吉子飼いの武断派の武将と近い関係にあったことを示す直接の史料はない。

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小早川秀秋肖像(国立国会図書館蔵)

小早川秀秋との密談の内容は?

 北政所の甥だった小早川秀秋(1577~1602)は、関ヶ原の合戦の直前と直後に、京都新城で北政所と会っている。江戸時代末の『大日本野史』などの文献をはじめ、司馬遼太郎(1923~96)の『豊臣家の人々』などの小説が描く通説に従えば、合戦前に思い悩む秀秋に北政所が「西軍から寝返って東軍にくみせよ」と指示し、合戦後は「よくやった」と労をねぎらったというストーリーになる。

 通説に従えば、北政所は亡き夫・秀吉が秀頼のために築いた城を舞台に、甥を使って結果的に秀頼が天下人から滑り落ちる画策をした張本人ということになる。

 しかし、北政所と2人が京都新城で何を話し合ったかを示す同時代の史料はない。通説通りとしても、北政所は甥が豊臣政権内の対立に巻き込まれて没落しないように東軍につけと忠告しただけで、まさか弱冠19歳の秀秋の動向が、天下分け目の決戦の勝敗を分けるとは思わなかっただろう。

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秀頼(左)と淀殿(右)(『繪本大坂軍記』国立国会図書館蔵)

北政所淀殿との対立はなかった

 関ヶ原の合戦は家康と三成の抗争で、秀頼は直接家康と対峙したわけではなかったが、結果的に家康は関ヶ原の戦いで反家康派を根絶やしにし、将軍になって秀頼を一大名にしてしまった。

 秀吉の遺言は結果的に反故にされたわけで、豊臣家にとってはさぞ理不尽だっただろう。だが、秀吉も本能寺の変の後、織田信長(1534~82)の孫の秀信(三法師、1580~1605)を当主として担ぎながら、とってかわって天下人になっている。北政所関ヶ原の合戦に際して、通説のように「天下は家康に託す。家康に従えば、豊臣家とゆかりの人々の行く末を絶つことはすまい」と考えたとしても無理はない。

 北政所が東軍についた理由としては、秀吉の寵愛を受けた秀頼の母、淀殿(1569?~1615)と対立していたという説があるが、近年では否定的な見方が多い。

 秀吉の死後、北政所淀殿は積極的に連携しており、関ヶ原の合戦の前哨戦とされる「大津城の戦い」では協力して講和や戦後処理に動いたこともわかっている。淀殿大坂城北政所が京都新城に入ったのも、北政所は亡き夫の供養に専念し、淀殿は秀頼の後見をすると役割を分担していたからとみることもできる。

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 コラム本文にも書いたが、京都は広大な豊国社と方広寺があり、京都は秀吉の供養に最も適した土地だった。関ヶ原の合戦の時点では豊臣家の安泰を最優先したとすれば、豊臣家が大坂夏の陣で滅びたのを見て、北政所は家康に裏切られたと感じたことだろう。

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