今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

施しから棒引きへ…徳政史の変遷と令和コロナ徳政

 新型コロナ感染拡大を受け、国や自治体が中小企業支援策の拡充に踏み切っている。ただ、営業時間の再短縮や休業(自粛)を求められた店の多くからは「月で最大20万円程度の協力金では足りない」という声が出ている。

 倒産や廃業を食い止めるための思い切った支援策を「令和の徳政」と呼ぶらしい。名古屋市河村たかし市長は中小義業者向けの低利融資制度を「ナゴヤ信長徳政プロジェクト」と名付けた。

 ということで、過去に行われた「徳政」の歴史を振り返り、今につながる真の「徳政」とは何か、考えてみた。

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「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ

 広辞苑で「徳政」と引くと、①人民に恩徳を施す政治。租税を免じ、大赦を行い、物を与えるなどの仁政②中世、売買・貸借の契約を破棄すること――という二つの意味がある。もともと徳政には①の意味しかなかったが、鎌倉時代に出された永仁の徳政令によって②の意味が加わり、室町時代には徳政と言えば②の意味になった。

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永仁の徳政令を出した北条貞時(『柳菴随筆』国立国会図書館蔵)

 コラム本文では「徳政」が①の「人民への恩徳」から始まり、次第に②の「借金の棒引き」の代名詞となり、庶民の熱狂的に受け入れられた後、嫌われるようになった経緯を書いた。

 庶民の味方から敵になったのは、戦国時代末期からだと言われている。室町幕府は徳政令を乱発し、徳政令の手数料収入を得る「分一徳政令」まで出したが、織田信長(1534〜82)は天正5年(1577)に安土に出した楽市楽座令で、徳政は行わないと宣言しているが、この時期に一致する。すでにこのころは、庶民、特に新興商人の経済活動に徳政は邪魔と考えられるようになっていたのだろう。

 江戸時代になってからも困窮した旗本御家人に対する救済策が乱発されたが、徳政令という言葉は使われていない。松平定信寛政の改革で断行した徳政令と同じ借金の棒引きは「棄捐きえん令」と呼ばれた。

 今川氏真の徳政令を凍結した井伊直虎

 徳政の転換期は戦国末期であることを示すもうひとつの逸話がある。永禄9年(1566)、今川氏真(1538~1615)は家臣の在地領主に徳政令を出すよう求めた。軍事動員に対する代償として領内の農民らが要求したものだったが、遠江伊那谷の領主だった井伊直虎(?~1582)は主君が命じた徳政令を2年以上凍結しているのだ。 

 この話はNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」でも描かれたが、ドラマでは直虎が徳政令を躊躇したのは、井伊家が財政的に支援を受けていた豪商・瀬戸方久(1525~1606)の損害を少なくするためといわれている。

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瀬戸方久(右下、『遠江古蹟図会』国立国会図書館蔵)

 結局方久は今川家から徳政免除の保証を得て借金の棒引きにあわずにすんだが、保証を得る見返りに今川家や井伊家に追加の支援をしたとみられる。

 氏真が徳政を収入の手段として使ったのは足利将軍家と同じ発想で、直虎が商人に対する徳政令を出さなかったのは信長の発想に通じる。さらにいうと日本人の思考が「借金は場合によっては返さなくてもいい」から「借金は返さなければならない」に変化する過渡期も戦国時代だったことになる。

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 将軍義昭の「代替わり徳政」も計画か

 楽市楽座令で主に新興商人に対する徳政令を禁じた信長も、公家や寺社に対する徳政令を出している。それだけではない。東京大学史料編纂所准教授の黒嶋敏さんは近著『天下人と二人の将軍』で、信長は足利義昭(1537~97)を奉じて上洛し、義昭を15代将軍にした後の永禄13年(1570)にも徳政令を出そうとしていた、という説を唱えている。

 黒嶋さんは、根拠はこの年の1月23日付で信長から義昭に出された「五カ条の条書」にあるという。

第一条 諸大名らに御内書(=将軍の書状)で命令を出すときは信長にその旨を告げること。御内書には信長の書状も添える。

第二条 これまでの御下知(=将軍の命令)はすべて御棄破(=無効)とし、改めて考え直してから決めること

第三条 将軍に忠節を尽くす者に恩賞を与えたい時は信長に命じること。恩賞にする土地がない時は信長が提供する

第四条 天下のことは信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思をうかがう必要はない。信長の意思どおりに行うこと

第五条 天下は鎮まったのだから、将軍は朝廷に関する儀式を油断なく行うこと

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足利義昭(左)と織田信長(『絵本太閤記』国立国会お図書館蔵)

 これまでこの五か条は、信長が義昭の実権を取り上げて傀儡化するため、または義昭の勝手なふるまいをけん制するためにの信長が出した、というのが通説だった。確かに素直に読めばそうとしか読めない。

 しかし、黒嶋さんは、第二条の「棄破」という言葉に注目した。「捨てる」を意味する「棄破」は、徳政令の債権「放棄」で使われてきた言葉だという。そうすると、信長は義昭に命令の撤回を求めたのではなく、新将軍就任時に歴代将軍が行ってきた「代替わり徳政」の準備を求めたという解釈が成り立つ。

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天下布武の印章

幻の「徳政」と「天下」の意味

 信長が義昭を踏み台に天下を獲ろうとしていたという従来の見方は、最近は否定されつつある。信長が使った「天下布武」の印の「天下」も、日本全国ではなく将軍がいた畿内という意味で、信長は天下獲りではなく、義昭とともに畿内の安定を達成しようとしていた、という説が有力だ。

 信長は室町幕府の再興を重視したとすると、幕府が続けてきた伝統や慣習、しきたりを重視したことになる。将軍の「代替わり徳政」も過去から続いてきた幕府の慣習だから、最近の学説に合致する。

 その当否はともかく、徳政をめぐる思考の変遷は、信長に対する見方にも密接に関連する。現代のコロナ徳政をめぐる安倍首相や自治体の首長の評価は、今後どう変わっていくのだろうか。

#徳政 #徳政令 #織田信長 #井伊信虎 #足利義昭 

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