今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

スターリンの犯罪 シベリア抑留と終戦工作の接点

5年、全国戦没者追悼式がコロナ禍の中で開かれた。節目の「終戦の日」だからこそ、8月15日の恒例行事の意義を再認識することが大事だと思う。

 「終戦の日」は第二次世界大戦の戦闘がんだ日ではない。昭和20年(1945)8月9日に旧満州中国東北部)に攻め込み対日参戦したソ連は15日以降も軍事行動を止めず、18日未明には千島列島の北端、占守しゅむしゅ島でソ連軍と日本軍守備隊が「開戦」している。

読売新聞オンラインのコラム本文

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「日本人将兵50万人を捕虜に」…スターリンの極秘指令 

 ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878~1953)は占守島から南下し、北海道の北半分を占領する野望を抱いていた。陸軍中将・樋口季一郎(1888~1970)は独断で「断乎反撃せよ」と命じた。

 守備隊の奮戦で出端ではなくじかれたスターリンが、北海道占領を断念せざるを得なくなった経緯は別のコラムで紹介している。

 占守島では8月21日に停戦協定が成立し、日本兵は23日に武装解除する。だが、スターリンはこの日に、「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘命令を出した。

 千島だけでなく、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行された。その1割にあたる約5万4000人が極寒の中、過酷な労働や食糧不足で死亡したとされる。

   

 

 国際法に明確に違反

 シベリアへの抑留は「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第9項や、捕虜の扱いを定めた国際法に明確に違反する。そもそも終戦後に拘束された身柄は捕虜ですらない。

 この犯罪行為の裏に何があったのか。対日参戦の裏には昭和20年2月のヤルタ会談で米英とソ連が結んだ密約があり、スターリンはそれ以前から日露戦争や日本のシベリア出兵への“報復”を考えていたとされるが、スターリンが国際的な犯罪を強行できた一因に、日本政府が終戦のために進めようとした和平交渉の影響をあげる説がある。

勝算ないまま登場したソ連仲介案

 本土決戦に追い込まれつつあった昭和20年、昭和天皇(1901~89)の意向を受けた内大臣木戸幸一(1889〜1977)は「時局収拾対策試案」(木戸試案)を起草し、和平工作に乗り出した。試案の中で木戸が「中立関係にあり、仲介の労をとらしむるを妥当とすべきか」と記したのがソ連だった。

 木戸はこの理由を後に、「仲介国が小国では米英を抑えられず、陸軍がソ連に頭が向いていたから(交渉に)入りやすいと思った」と述べている。ただ、ソ連が仲介役を引き受けるかどうかという最も肝心な点について、勝算があったわけではない。

 しかし、木戸から試案の上奏を受けた昭和天皇は6月22日、木戸試案を採用し「やってみよ」と指示する。7月12日、天皇の親書を携えてモスクワに向かう特使として元首相の近衛文麿このえふみまろ(1891~1945)が指名された。

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木戸幸一(左)と近衛文麿

近衛の交渉方針に「労務賠償やむなし」

 近衛は木戸試案をもとに、対ソ交渉の方針を示す「和平交渉の要綱」をまとめた。木戸試案で「今後の交渉の結果を待つこととす」としていた将兵武装解除について、「交渉の要綱」は「海外の軍隊は現地にいて復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」と記している。捕虜の労働力を戦利品として考えていたスターリンの意向にあわせた提案にみえる。

 近衛特使のモスクワ派遣は結局実現しなかったが、日本政府は近衛特使派遣をめぐるソ連との事前折衝で複数の外交文書を提出している。「交渉の要綱」の内容がどの程度筒抜けになっていたのかは分からないが、スターリンが日本は労務賠償に応じる用意があることを知っていた可能性はある。

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ポツダム会談の模様(中央白服がスターリン、ドイツ公文書館蔵)

和平斡旋の答えは宣戦布告

 近衛をソデにして出席したポツダム会談で、スターリンは日本が渡した外交文書(もちろん極秘)の写しを米英両国に示し、和平交渉に応じないことを約束している。その上で8月8日、日本政府の一縷の望みをあざ笑うかのように日ソ中立条約を破棄し、対日参戦した。藁にもすがるしかなかった状況だったのは分かるが、やはり日本が甘かったと言わざるを得ない。 

 スターリンが「交渉の要綱」の内容を知っていたかどうかにかかわらず、抑留は行われていたのかもしれない。ただ、「交渉の要綱」については、関東軍ソ連軍と8月19日に行った停戦交渉にも影響を与えたという見方がある。このへんの経緯については、コラム本文をお読みいただきたい。

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北海道占領断念翌日 スターリンの豹変

 スターリンは8月16日にはポツダム宣言9項に沿って「武装解除した日本兵は帰国させよ」と命じていたが、22日に米大統領トルーマン(1884〜1972)から「米国はソ連の北海道占領に反対する」と通告されると、翌23日、一転して50万人の移送を命じている。

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スターリン(1943年、米陸軍資料)

  この豹変をとらえて、シベリア抑留は北海道占領を断念する代償として命じられた、という説もあるが、移送計画は綿密なもので、以前から練られていたとみるべきだろう。スターリンは日本の意向を知っていたのか、なぜ命令を一転させたのか、真相は依然、藪の中だ。

 近衛特使は実際に交渉はしておらず、提案内容の文言だけで「棄民政策」と決めつけるつもりはない。ただ、一刻を争うわりには政府内部の調整に時間がかかりすぎている。

 今もシベリア遺骨収集は遅々として進まず、取り違えといった杜撰な対応が目立つ。日本政府は時間との戦いに真剣に向き合う姿勢が求められる。

#シベリア抑留 #ソ連 #スターリン 

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