今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

「半沢直樹」と白洲次郎に共通する「プリンシプル」

  

 堺雅人さん主演のTBS系日曜劇場「半沢直樹」が終了した。最終回の世帯平均視聴率は32.7%と、令和になって最高を記録したという。「半沢ロス」に陥りながら書いたコラム本文は、ちょっと独りよがりかも知れない。SNS上には結構同じ意見があって、ちょっとほっとしたが...。

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 ドラマ後半で描かれた「帝国航空」の再建計画をめぐる話は、2009年に民主党前原誠司国土交通相が「JAL再生タスクフォース」を設置した話がモデルになっている。

  債権放棄などをめぐる銀行団の反発などで再生計画づくりは難航したあげく企業再生支援機構に引き継がれ、日航は10年1月に会社更生法の適用を申請して経営破綻した。事実はドラマの経過とは異なる。

 むしろ熱い闘いがあったのは、約70年前の日航創設時ではないか。この時は吉田茂(1878~1967)首相の側近だった白洲次郎(1902~85)が半沢のような役回りを演じている

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 日航外資との日本の空争奪戦

 終戦後にGHQ(連合国軍総司令部)が出した航空禁止令で日本の航空機開発や運航などは根絶やしにされた。GHQが接収した羽田空港には外国の航空会社が続々と乗り入れ、日本の国内線にも触手を伸ばしていた。

 だが、日本の主権回復が近づくと、航空禁止令の解除をにらみ、元パイロット、私鉄各社など五つの国内グループが国内航空事業への参入を狙うようになる。外資導入派と国内派は航空事業の認可を求めて政府やGHQへの働きかけを強めていく。

 こうした中、白洲は外資の導入で動く。米パン・アメリカン航空と国内勢の合弁、それに失敗すると米、加、英など連合国の航空会社7社連合の新会社に日本国内の航空事業を委ねようとした。

 白洲が外資導入に動いたのは、外貨獲得のためとされている。終戦直後の食糧不足への対応に奔走していた吉田は、白洲に食糧輸入などに充てる外貨の獲得を命じていた。このときは国内勢が勝利して日本航空が航空事業の免許を得た。初戦は白洲の敗北で終わった。

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「もく星号」とエアガール(客室乗務員)

「もく星号事故」後に仕掛けた「倍返し」 

 しかし、営業開始の翌年の昭和27年(1952年)4月、日本航空羽田空港を飛び立った「もく星号」が伊豆大島三原山に墜落する大事故を起こしてしまう。事故の直後にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を取り戻す。

 GHQ指令の制約がなくなった白洲はこの機を逃さず、「倍返し」に動く。小林一三(1873~1957)が率いる京阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)とパン・アメリカン航空に手を組ませ、両社が出資する「日米航空」を設立して、破格の低運賃で殴り込みをかけた。

 これに対して日航は「日本人パイロットなら三原山に突っ込むことはなかった。今こそ整備や運航を日本人に取り戻すべきだ」というキャンペーンを張って白洲案に反対し、白洲はまたしても敗北した。

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特殊会社が「親方日の丸」体質を醸成

 その後、膨大な資金が必要な国際線への進出に備えて、純民間会社だった日本航空は半官半民の特殊会社となる。白洲は、「意地か虚栄か知らないがこんなことに国民の血税が流れ込んでいくかと思うと、ただ呆れかえって腹立つ元気もなくなる」と嘆いている(「文藝春秋」1954年7月号)。

 特殊会社となった日航は安全重視を掲げる一方で、社内には「親方日の丸」の経営体質が定着していく。ナショナル・フラッグ・キャリアとして世界的な航空会社になったが、いくつもの赤字路線を背負わされて経営破綻したことを踏まえれば、白洲の選択は間違いだったとは言い切れない。

戦後の産業復興、いたるところに登場

 白洲は航空業界以外にも、電力、鉄鋼、重化学、ホテル、金融などの業界でも暗躍し、その突破力は「白洲三百人力(役人300人分の力がある)」と恐れられた。

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東北電力が只見川に建設した上田ダム

 東北電力の会長になった白洲は、只見川開発では際どい手法で東京電力の水利権を東北電力に切り替えた。旧日本製鉄広畑製鉄所が占領軍から返還されることになったときは、外貨獲得のために英国企業への売却を進言し、後に「財界四天王」と呼ばれた富士製鉄筆頭常務の永野重雄(1900~84)と対立した。

 2人は銀座の老舗クラブで鉢合わせし、取っ組み合いのけんかをしている。最後は永野が白洲の頭をつかんで机に押さえつけ、強引に謝罪させられたといわれる(白洲は謝罪したことを認めていない)。その他の白洲の武勇伝についてはコラム本文に詳しく記したのでお読みいただきたい。

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日本一ダンディな男が土下座 

 ジーパンを日本人で初めてはいた日本一ダンディーな男私が調べた限りでは、白洲はこのときを含めて3回、深い謝罪したという証言がある。

 ひとつは父の会社を継いだ早々に商売上のミスをして取引先で深々と頭を下げ、コーヒーをかけられた時。相手もやり過ぎたと思ったようで、このときは取引先から金をもらったテーラーが帰社した白洲を待ち構えていたという。

 徴兵免除のお礼に陸軍幹部を接待したとき、「こんな戦争、始めた奴の顔が見たい」という白洲の啖呵を聞いた将校に殴られて土下座したという話も残っている。この時将校をなだめてその場をおさめたのは、以前にも紹介した樋口季一郎(1888〜1970)だったという。

「プリンシプル」が求められる時代

 白洲の「倍返し」は半沢のようにいつも見事には決まっていない。「吉田の権力をかさに着ている」「欧米企業から成功報酬を取り、私腹を肥やしている」という悪評やうわさは当時からあった。白洲の行動を半沢の敵と重ねる人もいるだろう。

 それでも私が半沢と白洲を重ねてしまうのは、「プリンシプル」を信念に動いた点が共通しているからだ。日本語にすると「原則を曲げない」「筋を通す」という意味で、白洲は「プリンシプル」を口ぐせにして、自分が信じる日本の未来のために動いた。

 単純な勧善懲悪では割り切れない混とんとした終戦直後には、原則を貫いて「未来のために」に動く白洲のような存在は必要だったと思う。

 ドラマの中で「青くさい正義」で強敵に立ち向かった半沢だが、「倍返し」のための手法は際どいものばかりだった。ドラマの登場人物は敵味方が激しく入れ替わった。ドラマが支持を集めたのも、これまでの原則が行き詰まっている今の時代ならではのことなのかもしれない。

 私が「半沢直樹」で一番響いたセリフは、最終回の最終盤で北大路欣也さん演じる東京中央銀行の中野渡頭取(厳密にはこの時は前頭取)が半沢に残した以下のセリフだった。少々説教臭いセリフではあるが、あの世でドラマを見ていたら、白洲も同じだったのではないかと勝手に思っている。

 「物事の是非は決断した時に決まるものではない。評価が定まるのは常に後になってからだ。もしかしたら間違っているかもしれない。だからこそ今自分が正しいと信じる選択をしなければならない。決して後悔をしないためにも」 

 

 

 

maruyomi.hatenablog.com

 

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