今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

『麒麟がくる』本能寺の変の今の学説は?

 大河ドラマ麒麟がくる』が完結した。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を襲ったこのクーデターは、光秀の動機を巡る論争が続き、「戦国最大のミステリー」と言われる。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 真相究明はどこまで進んでいるのか。最新の研究では、変の首謀者は、ドラマではあまり目立たなかった須賀すが貴匡たかまささんが演じた光秀の家老、斎藤利三としみつ(1534~82)だとみられている。

光秀は本能寺にいなかった?

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斎藤利三月岡芳年『月百姿』国立国会図書館蔵)

 最新の研究といえば、富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔さんが「光秀は変の当日、本能寺の現場にはいなかった」とする説をまとめて話題になっているが、利三はこの説にも深い関係がある。

 萩原さんは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する『乙夜之書物いつやのかきもの』という書物に、変の当日、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」という記述があることに注目した。

 『乙夜之書物』が書かれたのは本能寺の変から87年も後で、これだけ時間が空いた記録には後世の脚色や創作が入り込むため、信ぴょう性は低いとされる。だが、この話は変に従軍した利三の三男、斎藤利宗(1567~1647)が、加賀藩士だったおいに語った内容だ。利三に近い人物の証言だからこそ、ここまで注目されているわけだ。

 過去の大河ドラマでも『麒麟が来る』でも、光秀は例外なく本能寺に行き、距離は近くはないが、信長に面と向かって口上を述べるシーンもあった。そのせいか、私も光秀は本能寺に行ったことには何の疑いも持たなかった。だが、言われてみれば、信ぴょう性が高いとされる史料に「光秀は本能寺にいた」とはっきり書かれたものはない。

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 だが、では鳥羽で決まりかというと、それにも疑問がある。光秀が控えたという「鳥羽」(京都市伏見区)は、当時の本能寺(今の本能寺の位置ではない)から8キロ近く離れている。丹波亀山城から山陰道を進んで京都に入った光秀は、七条大路から七条堀川を右折して本能寺と逆の方向に布陣したことになり、ちょっと不自然だ。 

山崎の戦いまで本陣は鳥羽南殿付近か

 光秀は山崎の戦いの2日前の同年6月11日、下鳥羽の鳥羽離宮南殿なんでん伏見区中島鳥羽離宮町)付近に布陣したという記録がある。「利宗が本能寺と山崎の戦いの記憶を混同していたのでは」という声もある。

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はたして本能寺に光秀はいたのか(『新書太閤記国立国会図書館蔵)

 この点について萩原さんは「鳥羽に布陣したのは万一信長を討ちもらした際に、信長が大坂にいた三男、織田信孝(1558~83)のもとに逃走するのを阻もうとしたのでは。鳥羽は交通の要衝ようしょうで、兵力を機動的に動かしやすい。光秀は本能寺の変から山崎の戦いまで、ずっと軍の主力を鳥羽においていたかもしれない」と話す。

 「光秀は桂川を渡ったところで全軍に本能寺襲撃を告げた」という史料もある。光秀軍の主力は七条大路に入らず、桂川の川岸から南東の鳥羽に向かい、本能寺に向ったのは利三隊など一部だけだったというシナリオもありうる。

 

利三が直面していた2つの大問題

 この時、大坂に信孝がいた理由にも、利三が深く関わっている。利三は本能寺の変の直前に「四国問題」と「切腹命令」という2つ問題に直面していた。

 「四国問題」とは、信長の四国統治の方針が急に変わり、四国の長宗我部元親ちょうそかべもとちか(1539~99)とのパイプ役だった光秀が窮地に陥ったというものだ。光秀が取次役になったのは、利三が元親の親戚(小舅)こじゅうとだったためだ。

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長宗我部元親(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 本能寺の変が起きた時に信孝が大坂にいたのは、変の翌日の6月3日、四国攻めのために渡海するためだった。つまり、本能寺の変は長宗我部氏との衝突を阻止するためだった可能性があるということだ。

 「切腹命令」とは、『稲葉家譜』などにある話で、天正10年、光秀と稲葉一鉄(1515~89)が稲葉家の家老だった那波なわ直治なおはるを奪い合って訴訟沙汰になり、直治の引き抜きに加担した利三が信長から切腹を命じられた問題だ。結局、信長の側近がとりなして信長も切腹命令は取り消したが、「直治は稲葉家に戻せ」という命令が出たことは史料で確認できる。その日付は天正10年5月27日。当時の暦では5月は29日までしかないから、本能寺の変のわずか4日前ということになる。

 このころ、安土城で信長が光秀を足蹴にしたという話があり、それは以前にもこのコラムで紹介した。利三に対する切腹命令は取り消されたが、光秀の敗訴は明らかで、利三も無罪放免ではなかったはずだ。

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亀山城址に立つ光秀像

光秀は追い詰められていた

 徳川家の史料『当代記』によると、この時光秀は「利三を隠した(かくまった)」という。6月1日、利三は外部から丹波亀山城に入り、そこから光秀らとともに本能寺に向かっているが、亀山城で利三の顔を見た光秀はたいそう喜んだという。光秀は信長の命令を無視して利三をかくまっていたとすれば、見つかれば光秀も処罰される可能性がある。光秀は追い詰められていた。

伏線を回収しきれなかった

 「四国問題」の詳しい経緯はコラム本文に記したのでお読みいただきたい。『麒麟がくる』の感想もコラム本文にあるので重複は避ける。

 「非道阻止説」をベースにしたのはドラマとしては理解できるし、そうでなければ光秀は視聴者に勇気や希望は与えられない。だが、「四国問題」も「切腹命令」も、せっかく伏線(切腹命令の方は利三をめぐるトラブルだったが)を張っておきながら、回収しきれなかった。やはり終盤の「尺」不足が残念だった。本能寺の変を扱った大河ドラマで「四国問題」を扱ったのは初めてだというから、それだけでも画期的とはいえるのだが。

 

 

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