今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

『青天を衝け』渋沢栄一のすごさを知る三つのポイント

 「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一(1840~1931)を吉沢亮さんが演じるNHK大河ドラマ『青天を衝け』が始まった。渋沢は3年後には福沢諭吉(1835~1901)に代わって1万円札の顔になる。

 波乱万丈の人生は、大河ドラマの主人公にふさわしい。天保から昭和まで11もの元号を生き抜いた栄一は、幕末には尊王攘夷運動に傾倒し、明治維新を軌道に乗せ、大正時代には関東大震災からの復興に尽くし、昭和には国際協調にも尽力して、2度もノーベル平和賞の候補になった。言論を通じて日本の近代化を進めた福沢の思想を、実務面から形にしたのは渋沢だ。福沢の後の1万円札の顔としても最適任だろう。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 今回のコラムは『青天を衝け』のガイドブックのつもりで書いたが、渋沢の生涯については自叙伝を含め、多くの記録が残っている。エピソードが多い一方で創作がしにくいわけで、大河ドラマがどこまで史実に忠実に描くのかも楽しみにしている。

栄一成功の3つのポイント(1)相手の懐に飛び込む

 渋沢は倒幕の火付け役になろうと高崎城(群馬県)を乗っ取って横浜を焼き討ちする計画を立てるが、直前に取りやめる。横浜では外国人は見つけ次第斬る計画だったから、これは今なら立派なテロだ。

 計画を直前に取りやめたのはいとこの尾高長七郎(1836~68)から「うまくいくはずがない」と止められたからだが、栄一はすでに150両も使って武具などを買いそろえていた。普通なら取りやめずに決行するところだ。いとこの反対を無視していたら、その後の栄一の活躍はなかった。

 テロ計画の発覚を恐れて京都に逃げた栄一は、かつて江戸で知り合った一橋慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)に会いに行き、平岡の計らいで一橋家に仕える。慶喜が将軍になると、渋沢も幕臣に取り立てられる。京都では身を潜めるどころか、面識がなかった西郷隆盛(1828~77)にも会って同じ鍋をつついている。

 渋沢は、自分の間違いに気づいたら、すっぱりと方針を変える柔軟さを持っていた。自ら相手の懐に飛び込み、「人の話をよく聞く」ことができたからだろう。

栄一成功の3つのポイント(2)官尊民卑を嫌う

 慶喜が将軍に就任すると栄一も幕臣となり、パリで開かれる万国博覧会に将軍の名代として派遣された慶喜実弟徳川昭武(1853~1910)に随行することになった。

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欧州滞在中の徳川昭武一行(国立国会図書館蔵)

 それまで攘夷を主張してきた栄一が、随行を嫌がるどころか大喜びでフランスに渡ったのも、何にでも好奇心を抱いて取り込もうとする柔軟性の現れだろう。欧州で乗った鉄道や、目にした新聞、流通する紙幣を見て、これは便利だと思ったことが、後の鉄道や製紙会社の設立につながった。

 栄一が欧州にいる間に、日本では慶喜が朝廷に大政を奉還し、滞在費用の送金が途絶えたが、栄一はすでに滞在費用の一部でフランス鉄道債と公債を買って利益を得ていたため、滞在資金には困らなかった。

 多くの人から金を集めて経済発展の元手にする「間接金融」のすべを知ったことは、のちの銀行や証券取引所の設立につながる。

 栄一が設立した東京株式取引所(今の東京証券取引所の母体)が開業した明治11年1878年)5月時点で上場していたのは公債だけで、株式はゼロだった。明治新政府が官業創出の資金を求め、民間の株式会社がまだ数少なかったことが主因だろうが、欧州での自らの経験が、まず公債からという考えにつながったのかもしれない。

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東京株式取引所(国立国会図書館蔵)

 最も大きな収穫は、役人と商人の間に分け隔てがないことを知ったことだろう。日本では金もうけは卑しいこととされていたのに、欧州ではフランス皇帝が産業振興に熱心で、役人と商人が上下の区別なく相談している。渋沢はのちに「この風習だけは日本に移したいと深く感じた」(『竜門雑誌』)と記している。

 帰国後に渋沢は大蔵省(現・財務省)の有力者、井上かおる(1836~1915)の補佐役に抜擢ばってきされ、廃藩置県や郵便制度の導入、紙幣の発行などにあたる。国立銀行条例をつくったのも、「金行」か「銀行」か迷ったあげく、「銀行」という言葉をつくったのも渋沢だ。政府内部の意見対立で大蔵省を退官すると、まず渋沢の条例で設立された第一国立銀行の総監(頭取の監督役)に就任し、次に文明の基となる抄紙しょうし会社(王子製紙)を設立する。

 フランスで官尊民卑の愚を知り、自ら民間に活躍の場を移して日本の近代化に必要な順に会社をつくる――。500社もの会社を設立し、600にのぼる公共事業を進めたのは、「人の意見を聞く」「分け隔てしない」という経営哲学の実践でもあった。

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明治5年ごろの栄一(右から3人目、国立国会図書館蔵)

栄一成功の3つのポイント(3)利をひとり占めしない

 だが、第一国立銀行を手始めに続々と会社を設立していく渋沢に、競争相手が現れる。三菱グループの初代総帥、岩崎弥太郎(1835~85)だ。渋沢と岩崎の経営哲学や事業戦略は水と油ほどに異なっていた。

 人の話を聞き、分け隔てをしない渋沢は、多くの人から資金を集めてひとつにし、大きな事業を行う元手にする「合本がっぽん主義」を経営哲学に掲げていた。出資者を束ねるには「完全かつ強固な道理」が要るとして、「道徳と経済の合一」も説いている。

 これに対して岩崎は、「そんなやり方では迅速な経営判断はできない。三菱の事業は岩崎家単独の事業であり、経営判断や人事はすべて社長がひとりで決める」というのが経営哲学で、独裁と独占による利益を目指し、政界にも露骨に接近した。両者は経済的にも激しく対立し、泥沼の買収合戦に発展するのだが、その経緯はコラム本文に詳しく記したのでお読みいただきたい

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 渋沢が合本主義を曲げなかったのは、利益をひとり占めせずに多くの人を会社経営に巻き込むことで、経済発展を担う人材を育成する狙いもあったのだろう。76歳で実業界引退の声明を出し、すっぱりと後進に道を譲ったのも、「利をひとり占めせず、独裁者にはならない」という信念に基づいた決断だったと思う。

「資本主義の父」は今の市場をどう見るか

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渋沢の地元ではアンドロイドの渋沢が講義をする(画像提供・深谷市

 大河ドラマで渋沢が再注目される中、コロナ禍で経済が落ち込んでいるにもかかわらず、日経平均株価が30年ぶりに一時3万円の大台を超えた。異次元金融緩和の株買いによって日本銀行が主要企業の大株主に名を連ね、市場は富めるものをさらに富ませる格差拡大の場と化している、との指摘がある。「株主が多いと経営の自由度が奪われる。もはや市場で資金を集める必要もない」と、上場廃止を選択する企業も少なくない。

 資本主義の父は、あの世で首をかしげつつ、自分の方がもはや古いのだ、と納得しようとしているのではないか。だが、戦略は古くなっても、信条は古くなっていないはずだ。人のいうことに耳を傾け、上下の分け隔てなく知恵を出し合っているか、損得ばかりに気を取られ、会社や組織で働く社会的な意義を忘れていないか、折にふれて考えるのは大切なことだ。

 

 

 

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