今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

謎だらけ 聖徳太子の肖像画

 2021年は聖徳太子厩戸皇子うまやどのおうじ、574~622)の1400回忌にあたる。奈良の世界遺産法隆寺では4月3日から5日まで、100年に1度の節目となる遠忌おんき法要が行われた。

 聖徳太子はひと昔前まで、間違いなく日本で最も有名な歴史上の人物だった。何しろ昭和5年(1930年)の百円札以降、昭和59年(1984年)に1万円札の顔を福沢諭吉(1835~1901)に譲るまで7度も紙幣の顔になった。

 GHQ連合国軍最高司令官総司令部)は終戦後、「軍国主義を象徴している」として、戦前の紙幣の肖像を次々に使用禁止にしたが、聖徳太子だけは生き残った。日本銀行総裁だった一万田いちまだ尚登ひさと(1893~1984)が、「太子は十七条憲法の第一条で『和をって貴しとなす』を掲げた平和主義者だ」とGHQを説き伏せたためといわれる。

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 これほど有名な肖像画だが、この人物が本当に太子なのかどうか、いつ、どんな経緯で、誰を描いたのかは、実は解明されていない。その謎に迫った大阪大学名誉教授・武田佐知子さんの『信仰の王権 聖徳太子』をテキストに、その経緯をたどってみた。

 早くから言われた「絵の作者は日本人ではない」

 紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は、しゃくを持ち帯刀して立つ太子、その左に弟の殖栗皇子えぐりのみこ(生没年不明)、右に長男の山背大兄王ましろのおおえのおう(?~643)を描いたとされる。眉などの描き方から、8世紀半ばの奈良時代に描かれたというのが通説になっている。太子の死より100年以上後の作ということになるが、想像や回想を交えた肖像画はほかにもたくさんある。これだけで太子とは別人とはいえない。

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聖徳太子二王子像(摸本『聖徳太子伝』国立国会図書館蔵)

 だが、肖像画が太子本人かどうか疑問を抱かざるを得ない別の由来がある。絵の作者は日本人ではないとする由来が二つも残っており、この肖像画には唐本とうほん御影みえい」「阿佐太子あさたいし御影」という二つの異名があるのだ。

 「唐本」とは「唐(古代中国)の人」のこと、「阿佐太子」は百済くだら(古代朝鮮の国)の王族の画家の名前だ。阿佐太子は日本に仏教を伝えた聖明王(?~554)の子孫で、『日本書紀』には推古天皇5年(597年)に来日したと記されている。

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四天王寺所蔵の聖徳太子像(模写、国立国会図書館蔵)

 なぜ異国の作者が太子の肖像を描いたのか。平安時代の学者、大江親通おおえのちかみち(?~1151)はその疑問を率直に文書に残している。仏教美術の研究家でもあった親通は、保延6年(1140)に法隆寺の宝蔵にあった聖徳太子像を拝観した感想を『七大寺巡礼私記』にこう記している。

 「太子の俗形ぞくぎょうの御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし」

 衣装に陰影をつける画風や、本人の両脇に二人が並ぶ構図は唐のもので、俗人姿の太子の衣装は日本のものとは思えない。寺側は唐人が描いたからだと説明するが、ならばなぜ太子を描いたのか、ならばなぜ絵が唐ではなく、法隆寺にあるのか。不可思議だ。これは改めて詳しく見なければならないぞ――。

 法隆寺の僧が示した二つの説

 寺側が親通の疑問に答えを出したのは、100年近く後になってからだった。法隆寺の再興に力を尽くし、寺の幹部(五師)のひとりだった顕真(生没年不明)が『聖徳太子伝私記』の中で、「阿佐太子の前に聖徳太子が応現し、その姿が描かれた、という話も、宋に渡った経験がある聖人から聞いたことがある」と記している。
 「応現」とは、仏が世の人を救うため、機縁(相手の性格や力量)に応じて姿を現すことをいう。太子は、唐人の機縁にあわせて唐人姿で現れた。唐人は唐人姿の太子の絵を2枚描き、1枚を唐に持ち帰り、1枚を法隆寺に残した――。

 一応辻褄つじつまは合っているが、なお納得しない人もいるだろう。そのことは顕真もわかっていたようで、『聖徳太子伝私記』には第2の説も記している「阿佐太子の前に聖徳太子が応現し、その姿が描かれた、という話も、宋に渡った経験がある聖人から聞いたことがある」

 「阿佐太子御影」の異名の由来は、この時に初めて登場した。顕真が話を聞いた聖人とは、当時朝廷の最高実力者だった関白の兄、慶政(1189~1268)のことだ。

 慶政は修行のため宋(中国)に渡った時に、「聖徳太子が2歳の時に手のひらから現れたという仏舎利を拝観したか」と聞かれ、とっさに「拝観した」とうそをついたことを悔いて、帰国後に法隆寺舎利殿を建立したという逸話がある(『聖誉抄』)。ちなみに舎利殿では、今も毎年正月に開かれる「舎利講」で、舎利を収めた五輪塔が公開されている。 

  

 寄進集めのため? 京の出開帳で披露されたストーリー

 慶政は法隆寺の寺宝も修復し、朝廷や貴族、さらに京都にいた鎌倉幕府4代将軍の九条頼経(1218~56)らにお披露目(出開帳)している。聖徳太子像も表装の張り替えが行われ、説明役の顕真とともに、貴族の屋敷を回った。出開帳は貴族からの寄進集めも目的だったから、太子の絵に違和感を持たれては困る。武田さんは、阿佐太子作者説は慶政と顕真が示し合わせて創作し、出開帳にあわせて披露されたと推理する。

 顕真はこの時に、もうひとつ仕掛けをしている。聖徳太子には愛馬の「甲斐の黒駒」に乗って富士山頂まで飛翔したという伝説があるが、顕真は『聖徳太子伝私記』の下巻で、この馬を世話していた調子丸という若僧は、実は朝鮮から遣わされた聖明王の宰相の子で、自分(顕真)はその調子丸の直系の子孫だ、と言い出したのだ。

 この結果、聖徳太子像は仏教伝来にかかわる聖明王ゆかりのありがたい絵となった。太子の衣装に対する違和感は吹き飛び、太子の肖像が本物かどうかを疑う人はいなくなり、感激した貴族から多くの寄進が集まったことだろう。

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 顕真は自らの利益や栄達のために動いたわけではない。彼の努力がなければ法隆寺の今はなく、寺宝も朽ち果てて今に伝わることはなかったかもしれない。太子については十七条憲法や遣隋使の派遣、冠位十二階の制定といった業績をすべて否定する説もあるが、少なくとも、肖像画の真偽を非存在説と結び付けるのは短絡的に過ぎるというべきだ。

太子、諭吉、栄一「1万円札の顔」3人の不思議な縁 

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100年前の1300年忌(『聖徳太子一千三百年御忌法用記念写真帖』国立国会図書館蔵)

 福沢諭吉に代わって2024年から1万円札の顔になる渋沢栄一(1840~1931)は、100年前の聖徳太子1300年忌で奉賛会の副会長を務めている。勤皇の志士で水戸学を学んだ栄一は当初、「日本古来の神道を軽視して仏教を広めた」として協力を拒否したが、周囲の説得で誤解を解いたという。

 

  

 実は仏教に深く帰依していた諭吉とともに、1万円札の3人には不思議な縁があることを最後に付記しておく。

 

 

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