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読売新聞編集委員  丸山淳一

「鎌倉殿の13人」上総広常はなぜ頼朝に殺されたのか

上総広常(国立国会図書館蔵)

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の4月17日放送回「足固めの儀式」で、佐藤浩市さんが演じた坂東武者、 上総広常かずさひろつね (?~1184)が、大泉洋さん演じる源頼朝(1147~99)によって粛清された。ドラマでは、頼朝の鎌倉追放を画策した御家人たちを監視するため反頼朝派に潜入しただけなのに、謀反の失敗後に中心人物の  れ ぎぬ を着せられ、頼朝の命を受けた梶原景時(1140?~1200)に殺されてしまう。

 SNS上には「頼朝が嫌いになった」といったコメントがあふれたが、広常誅殺の史実はどうなっているのか調べてみた。

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前後の経緯は「吾妻鏡」から欠落

 鎌倉幕府の“正史”を記す『吾妻鏡』には、広常粛清事件が起きた寿永2年(1183年)の記述がない。ドラマの上で広常は頼朝追放計画の中心人物に仕立てあげられて誅殺されるが、脚本を担当する三谷幸喜さんは、頼朝追放計画そのものがドラマ上の創作であることを認めている。頼朝が追放計画を広常の粛清に利用したというのは史実ではない。

 ただ、広常の誅殺はフィクションではない。頼朝と面識があり、頼朝派の公家と親密だった天台宗の高僧、慈円(1155~1225)が記した『愚管抄』は、この事件を次のように紹介している。

 「(頼朝から)命をうけた梶原景時が介八郎(広常)を殺した(中略)。その時、景時は広常と 双六すごろく をしていたが、景時が双六の盤の上をさりげなく越えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ、頼朝の前に差し出された」(慈円著、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』講談社学術文庫

 『吾妻鏡』にも寿永3年(1184年)元日の条に「去年の冬の広常のことで 営中えいちゅう が けが れたため、頼朝が鶴岡八幡宮の初詣を見送った」というくだりがある。国学院大学非常勤講師の細川重男さんによると、営中(御所)の大広間は「 侍間さむらいのま 」と呼ばれ、御家人たちの  まり場だった(『頼朝の武士団』)。広常が誅殺されたのは寿永2年の暮れで、場所は営中(頼朝邸)の大広間だろう。

 頼朝の屋敷を血で穢しての「公開処刑」は、頼朝の了承なしではできないはずだ。頼朝が誅殺の日時や場所も指示していた可能性もあるから、広常誅殺は頼朝の命によるものとみていいだろう。

朝廷への忠誠誓う頼朝の後講釈に登場

 ドラマでは、広常が御家人の中で頭ひとつ出た軍事力を持ち、しかも頼朝と肩を並べる存在であるかのような言動を重ねたため、自らを頂点とする「足固め」のため、「出る くい 」だった広常を討ったという筋書きだった。しかし『愚管抄』が広常誅殺について記したくだりの直前には、頼朝が後白河法皇(1127~92)に広常誅殺について説明したくだりがある。

 「広常はわたくしにとっては功績のある者でございましたが、ややもすると、『いったい、頼朝はなんの理由で朝廷や皇室のことばかりみっともないくらいに気にするのだ。ただわれわれが関東でやりたいようにやっていこうというのを、いったい誰が引っぱったり動かしたりできるというのか』などと申すような、謀反の心を持つ者でございましたので、こんな者を郎従としていれば、頼朝まで神仏の加護を失うことになると思い、広常を殺したのでございます」(『愚管抄 全現代語訳』)

 この説明が行われたのは、広常誅殺の約7年も後の建久元年(1190年)とされ、頼朝が誅殺の真因を語っているとは言い切れない。だが、少なくとも頼朝は、広常が朝廷の支配から離れ、関東独立国家を主張したため殺したと明言している。この会談を経て頼朝は後白河法皇から右近衛大将に任じられている。

東国国家論と検問体制論

 実はこの一件は、鎌倉幕府の設立時期を左右する議論につながっている。鎌倉幕府の成立は、ひと昔前は頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とされてきたが、今では朝廷が守護・地頭の設置を認めた文治元年(1185年)を成立年とする意見が有力だ。さらに早く、頼朝が南関東から平氏の勢力を駆逐して鎌倉に入った治承4年(1180年)を幕府成立年とする説もある。一方で、後白河法皇との会談で右近衛大将に任じられた建久元年を幕府成立年とみる学者もいる。

 幕府成立年を1180年代まで遡る説は、頼朝が朝廷から独立して東国に独立国家を築こうとしていたという見方(東国国家論)に基づいている。成立年を90年代とする説は、頼朝が朝廷を支える武家のリーダーとして、公家や寺社と同様の権力集団(権門)の一員となろうとしたという見方(権門体制論)から導かれた説だ。

 頼朝が後白河法皇に広常の一件を説明したのは、権門体制論の節目にあたる。広常は、自ら戦って手に入れた東国の支配権を、なぜ朝廷にへつらってまで認めてもらう必要があるのか、なぜ朝廷は平家追討のために上洛した源(木曽)義仲(1154~84)と戦わせようとするのか、理解できなかったのではないか。

木曽義仲(一猛斎芳虎「武者鑑一名人相合」国立国会図書館蔵)

 広常誅殺の直接の原因は、頼朝が源範頼(1150~93)を総大将にした大軍を上洛させる方針を決めたことだったという説が有力だ。呉座勇一さんも近著の『頼朝と義時』でこの見方を支持している。詳しくはコラム本文をお読みいただきたい。

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三谷マジックの伏線

 三谷さんの伏線は配役にも及んでいるのか、広常を演じた佐藤浩市さんの息子でもある俳優の佐藤寛一郎さんを、頼朝の孫の 公暁くぎょう (1200~19)にキャスティングしている。頼朝の足固めの犠牲になった広常を父が、頼朝の子で3代将軍の源実朝(1192~1219)を暗殺した公暁を子が演じる裏に、何か仕掛けはあるのだろうか。

 ちなみに広常は理不尽な死を遂げたが、広常の子孫はドラマで栗原英雄さんが演じ、広常の粛清に動いた 大江広元おおえのひろもと (1148~1225)や北条氏と えにし を結び、が、広常の系譜はしっかり後世に伝わっている。

 

 

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