今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

ロシアのウクライナ侵略の「終わらせ方」と大坂の陣

 ロシアのウクライナ侵攻は、出口の見えない戦いになりつつある。ロシアの軍事・安全保障問題に詳しい東京大学先端科学技術研究センター専任講師の小泉悠さんはテレビ番組で、ウクライナが非武装化に応じれば、「大坂夏の陣になる」と解説した。防衛省防衛研究所主任研究官の千々和泰明さんも、『戦争はいかに終結したか』のなかで、「相手が和睦の条件を正しく履行しないかもしれないと考えれば和睦は成立しない」と指摘し、その例として大坂の陣をあげている。

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ウクライナと大坂を比較する是非

 「ウクライナ戦争と大坂の陣では時代も背景も違いすぎる。単純に比較できない」というご意見もあるだろう。もちろん侵略戦争に至る経緯や戦争の形には異なる点もある。しかし、ウクライナも当時の豊臣方とよく似た立場にあることも事実だ。

 徳川と豊臣には関ケ原の合戦による対立とその後の融和という経緯があった。戦力的には徳川が豊臣を圧倒していた。徳川は当初から豊臣の滅亡か完全な無力化を企図し、難癖(=方広寺鐘銘事件)をつけて唐突に全国の大名に豊臣攻めを命じている。豊臣は味方を募ったが、正規軍を派遣した大名(同盟国)は皆無だった。しかし、兵糧米の調達を手助けするなど、裏で豊臣方を経済的に支援する動きはあった。戦闘は白兵戦よりもオランダ製の大砲などが威力を発揮している――。

徳川方が大坂の陣の口実にした方広寺の鐘。「国家安康 君臣豊楽」の銘が問題になった

戦いの帰趨を決めた冬の陣の和睦

 こうして大坂冬の陣が始まった。戦争の終わらせ方を考える上で重要なのは冬の陣であり、徳川方が豊臣方を滅ぼした大坂夏の陣は冬の陣の和睦が招いた当然の帰結に過ぎない。豊臣方は冬の陣の後の和睦で戦争は終わったと考えざるを得なかった。終わるとは信じていなかったとしても、豊臣を存続させなければならない。だが、徳川方は和睦は次の戦いへのステップとしか考えていなかった。

豊臣秀頼(左)とい徳川家康(右)の像

 千々和さんによると、戦争の終わらせ方には2種類がある。力に勝る側が味方の犠牲を覚悟して相手を完膚なきまでに叩きのめし、将来の禍根を絶つ「紛争原因の根本的解決」と、力に勝る側が味方の犠牲を避けるため、相手と妥協し和平を結ぶ「妥協的和平」だ。根本的解決は第二次世界大戦ナチス・ドイツに対して連合国が行い、妥協的和平は1991年の湾岸戦争アメリカがサダム・フセイン体制の存続を認めたのが代表例だという。

 徳川家康(1542~1616)は当初から豊臣家を攻め滅ぼす「根本的解決」を図っていたが、豊臣方は大坂冬の陣で和睦に応じたことで、徳川方が「妥協的和平」を選択してくれることに望みをつないだ。だが、それは甘かった。その象徴的な出来事が、大坂城内堀をめぐる駆け引きだった。

内堀が埋められた真相

 この時、徳川方は「大坂城惣構そうがまえ (惣堀=外堀)だけを埋め立てる」という約束を守らずに二の丸、三の丸の堀(内堀)も埋めてしまったとされるが、残されている記録では、豊臣方も内堀の埋め立てを基本的に了承したことになっている。

 内堀を埋めれば裸城同然となり、再攻撃があれば陥落することは豊臣方もわかっていたはずなのに、なぜ了承したのか。大坂の陣での家康の策謀については、直木賞作家の今村翔吾さんの歴史小説『幸村を討て』に詳しく織り込んでいる。小説だからすべてが史実ではないが、なるほどと思わせる。コラム本文ではその解釈も交えつつ振り返っている。

今村翔吾『幸村を討て』

 『大坂御陣覚書』には、豊臣方が内堀の埋め立てを了承したのは、和平交渉のなかで徳川方から「家康公自らが出馬しながら、何も得ずに退却したのでは敗者と見られてしまう。外堀だけ埋めさせてほしい」と言ってきたためだった、とある。承諾すれば豊臣秀頼(1593~1615)淀殿(1569~1615)の安全は保証し、戦った家臣や浪人の罪は問わず、領地も 安堵あんど するという。1か月以上徳川方の圧力に耐えてきた豊臣方には、寛大で魅力的な条件に映っただろう。

 家康は和睦条件を正しく履行すると信じた豊臣方は、「大御所の顔を立てるのに協力し、われわれも二の丸、三の丸の塀や柵などを破却する」と約束してしまった。家康の顔を立てずに機嫌を損ねれば、せっかくの和睦がご破算になる。あくまで家康出馬の爪あとを残す儀礼的な破却だから、形だけ壊して元に戻せばいいと考えたのかもしれない。

大坂夏の陣を描いた屏風絵(『豊臣時代史』国立国会図書館蔵)

甘い言葉には罠がある

 ところが徳川方は、和睦の誓詞が交わされた翌日から堀の埋め立てを始め、豊臣方が行うはずだった二の丸、三の丸も徹底的に壊し、堀も埋め立ててしまう。豊臣方はあわてて抗議したが、破却の役割分担は口頭による了解事項で、違約の証拠もない。徳川方は破却や堀の埋め立ての範囲をわざとあいまいにし、文書にもしなかったのだろう。

 プーチン大統領がどのようにウクライナ侵略を終わらせるつもりなのかはわからない。しかし、ウクライナプーチン大統領を信じられず「妥協的和平」に応じることができない理由はよくわかる。和平の選択をする場合は、その条件を公表し、順守されているかどうか国際社会が監視することが必要だ。国連などがプーチン大統領が罠をしかけられない仕組み作りに動くべきではないか。

 

 

 

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