今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

映画『大河への道』が描かなかった真の主人公の悲劇

 映画『大河への道』が封切られた。原作は立川志の輔さんの創作落語。郷土の偉人、伊能忠敬(1745~1818)を主人公にした大河ドラマの実現に奮闘する千葉県香取市役所の職員と、忠敬の日本地図を巡る秘話を、現代と江戸時代とを行き来しながら描く。映画をもとに地図完成までのいきさつを振り返り、映画では描かれなかったその後の悲劇を記してみた。

読売新聞オンラインのコラム全文

↑読者登録しなくてもワンクリックで全文お読みになれます

 忠敬が主人公かと思って映画館に足を運んだ人は、忠敬の顔に白い布がかけられる冒頭シーンを見て驚いたのではないか。物語は忠敬の死後に「大日本沿海輿地よち全図」を完成させた幕府天文方の高橋景保 (1785~1829)と忠敬の弟子たちが、忠敬の死を必死に隠して地図を完成させるまでの苦闘の物語だ。忠敬の孫、伊能忠誨ただのり (1806~27)の日記によると、忠敬の喪が発せられたのは、日本全図が幕府に上呈(納品)された約2か月後の文政4年(1821年)9月だから、景保らが忠敬の死を伏せて地図を完成させたのは史実通りといえる。

測量で割り出した距離、今の数値とほぼ同じ

伊能忠敬(『肖像』国立国会図書館蔵)

 下総国佐原(今の千葉県香取市)の名主だった忠敬は49歳で隠居し、幕府天文方だった景保の父、高橋至時よしとき (1764~1804)に弟子入りして本格的に天体観測や測量を学び始める。日本地図づくりは、いわば「隠居の道楽」から始まったわけだが、忠敬は私財を投げうち真剣に取り組んだ。天体観測や暦の作成を行う天文方の第一人者だった至時が、自分より年上の忠敬を弟子にしたのは、忠敬の知識と熱意が人並み外れていたからだろう。

浅草天文台での天文観測(葛飾北斎『鳥越の不二』国立国会図書館蔵)

 忠敬は地球は丸いことを知っていた。だが、緯度1度の距離については当時定説がなく、地球の大きさがどれくらいなのかが分からなかった。向学心に燃える忠敬は寛政12年(1800年)、緯度1度の距離を割り出すため、江戸(千住)から津軽三厩みんまや)まで奥州街道を21日かけて踏破し、蝦夷地では西別(現在の別海町)まで、往復3200キロを歩き通して距離を実測した。忠敬が測量によって割り出した緯度1度の距離(約111キロ)と地球の外周(約4万キロ)は今の測量数値とほとんど同じだった。

 実測の名目は「地図を作るため」とされ、地図は幕府に提出された。地図を見た幕府老中の松平信明のぶあきら (1763~1817)はその出来ばえに感心し、至時と忠敬に日本全土の測量を命じた。当時は日本の近海に外国船が出没し、幕府は国防のために正確な日本地図を必要としていた。

忠敬を支え、弟子たちを支えた景保

 実測の旅は10次にわたり、忠敬は第9次の伊豆七島を除いて自ら実測し、ほぼ地球1周分を歩いたとされる。忠敬が第5次測量に出る前に至時は40歳で没し、地図作りの監督役は弱冠20歳で天文方を継いだ息子の景保に引き継がれた。

 ここで映画の冒頭、忠敬の死亡シーンにつながる。景保にしてみれば、父から引き継いだプロジェクトはやり遂げなければならないが、自分には忠敬の代わりは務まらない。幸い地図作りのための実測はほぼ終わり、地図を描ける忠敬の弟子もいる。こうなれば、忠敬の死を秘して何とか地図を完成させるしかない――。景保は弟子らを叱咤激励し、日本全図は忠敬の死の3年後に何とか完成にこぎつけた。

忠敬の日本地図(中央は「小図」、周囲が「大日本沿海輿地全図国立国会図書館蔵)

地図完成で自信をつけた景保の悲劇

 だが、地図を完成させたという景保の自信は、自らの力への過信につながってしまったようだ。映画は地図完成後の話は描かずハッピーエンドで終わっているが、オランダ商館の医師として来日していたドイツ人医師のシーボルト(1796~1866)と江戸で接触した景保は、シーボルトが持っていた『世界周航記』がどうしても欲しくなり、譲り受ける代わりに、国家機密だった忠敬の日本地図(小図の略図)をひそかにシーボルトに渡してしまう。世にいう「シーボルト事件」である。

シーボルト(左)と間宮林蔵(右、『東韃紀行』)(いずれも国立国会図書館蔵)

 景保の機密漏洩ろうえいを幕府に密告したのは、忠敬の弟子のひとりで、蝦夷地の測量で地図づくりにも携わった間宮林蔵(1780~1844)だった。逮捕された景保は獄死する。映画で忠敬の地図完成に命をかけた景保は、史実では完成させた地図によって命を失ったわけだ。悲しい最期についてはコラム本文をお読みいただきたい。

読売新聞オンラインのコラム全文

↑読者登録はせずにワンクリックで全文お読みになれます 

 忠敬は隠居してから日本初の実測日本地図を作るという一大プロジェクトに取り組んだ。景保もプロジェクトの重要性を理解し、地図完成後に幕府に日本近海に出没する外国船への対処方針について提言し、異国船打払令発布のきっかけも作っている。隠居した忠敬と現役バリバリの景保を結んだのは、日本の国防に役立つ地図を作ることへの使命感だったのではないか。もっとも、それが景保の悲劇の背景になったことを考えると、どこかやりきれないのだが。

 

 

 

books.rakuten.co.jp

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング


人気ブログランキング