東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開催された特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」にあわせて、後期展示の目玉だった 伊藤若冲 (1716~1800)の『 動植綵絵 』を取り上げた。
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『動植綵絵』は若冲が40歳ごろから約10年をかけて完成させた30幅にわたる超大作で、2021年に国宝に指定された。今回はそのうち10幅が公開された。美術史研究家の辻 惟雄 さんは著書『伊藤若冲』の中で、若冲の絵は「細部まで意識がいきわたっていて、いったいどこに目をやったらいいのか。そうした思いにめまいを覚えそうになることすらある」と記している。
トサカの「ざらり」まで再現
細部までのこだわりを「 向日葵雄鶏図 」で見てみよう。
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鶏のトサカは、微妙な色使いの違いによって、ざらりとした質感まで表現されている。羽の一枚一枚の色使いは見たままではなく、雄鶏の 猛々 しさと優美さを強調する狙いが込められている。若冲は『動植綵絵』30幅のうち8幅で鶏を描いており、鶏の生命力を好んだ。
その一方で背景のヒマワリには、茶色く変色した葉が目立つ。普通は見栄えが悪い朽ちた葉をここまで細密に描くことはない。リアリズムに徹する一方で、若冲はこれまでのしがらみにとらわれず、思い通りに自由に描こうとしている。
京の裕福な青物問屋の子
若冲は京都錦小路の青物問屋「枡屋 」の長男で、父の死により23歳で家督を継いだ。家業は順調で家は裕福だったが、若冲は商売の面白さがわからず、学問も嫌いで酒や女遊びも好まなかったという。
家業を継いで間もなく、狩野派の門人となって絵を習い始める。当時は町で画業を営む「 町狩野 」と呼ばれた絵師がいて、町人に絵を教えていた。教えるといっても絵手本を与えて模写させ、筆の運びや技法を身に付けさせるだけだったから、上達するカギは師の良し悪しより、いかに数多くを模写するかにかかっていた。
若冲は師の手本を写し終えると、京の寺社を回って保有する絵を模写させてほしいと頼んで回った。ひと昔前の色あせた中国画の模写に飽きていた若冲は、最新の中国画を見たかったはずだ。当時、色鮮やかな中国の絵画を日本に持ち込んでいたのは、江戸時代に日本で布教を始めた黄檗宗だった。
若冲の生涯の師となる 賣茶翁 (1675~1763)と、最大の理解者となる 大典顕常(1719~1801)という二人の僧との出会いは、若冲が模写の手本を見せてもらうために黄檗宗萬福寺(京都府宇治市)に接近して始まったのではないか。
最大の理解者と最高の師
萬福寺の学僧だった賣茶翁は、禅僧の在り方に疑問を抱いて茶売りに転じた変わり種だ。若冲と出会ったときは僧を捨てていたが、京や大坂の文化人に一目置かれる存在だった。のちに臨済宗 相国寺 (京都市上京区)の住職になる大典も一時、黄檗宗に入門している。大典と賣茶翁は、若冲の「絵を見せてほしい」という願いをかなえるべく骨を折り、本格的な交流を始めたのではないか。
ちなみに「若冲」は法名で、名前をつけたのは大典とされる。中国の古典『老子』の一節、「大盈は冲しきが若きも其の用は窮らず」(大きな甕の中は空っぽに見えるが、その働きは無限である)が由来で、大典は延享4年(1747年)の夏に賣茶翁が開いた煎茶の会で、賣茶翁の水差し( 注子)に「大盈若冲」と記している。中国語では茶を入れることを「冲茶」といい、大典は座興で語呂合わせをしただけかもしれないが、若冲は感激しただろう。
鶏から虫や魚に対象を拡げたワケ
二人の期待と協力で優れた手本を得て、若冲はめきめき腕を上げていく。だが、模写するだけでは手本を超えられない。若冲は、先人を超えるため、動植物の絵を写すのではなく、動植物を直接見て、その命の息吹まで描こうと考えた。
中国画が描く 孔雀 や 鸚鵡 は華やかで絵のモチーフに適しているが、じかに観察するのは難しい。何を描くか考えた若冲が最初に選んだのは、いつでも観察でき、描くには細密な観察が必要な鶏だった。数十羽の鶏を庭に放し飼いにして、その生態を何年間も観察し、写生したという。さらに観察対象は小さな虫や魚へも広げていった。
『涅槃経』には、「草木国土悉皆成仏」という言葉がある。「草木や国土のように心を持たないものも生きており、みな仏になりうる」という意味だ。若冲は小さな虫も植物も土くれまで細部まで手を抜かずに描くことで、仏教の教義を視覚的に示そうとしたのではないか。宝暦5年(1755年)に40歳で隠居し、家業から解放された若冲が、これまで観察や写生をしてきた動植物をすべて描き込んだのが『動植綵絵』だった。
ここまでの若冲の心情の変化を踏まえて、「池辺群虫図」を見てみる。
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60種類以上の小動物が細かく描かれているが、それぞれにはきちんと個性がある。中央部分に描かれているカエルはみな左向き同じに見えるが、よく見ると、カエルの模様や表情は、意図して一匹一匹を変えている。命はひとつひとつみな違い、みな仏になるのだ、という主張を込めたのだろう。
「見る眼がある人を千年待つ」「今見ても素晴らしい」
『動植綵絵』30幅は『 釈迦三尊像』3幅とあわせて相国寺に寄進された。相国寺から渡されたのは菓子折りだけだったというが、それは若冲が望んだことだ。相国寺は若冲の希望通り、年に1回33幅を並べて供養し、絵を守り続けた。
若冲は30幅の半数を描いたところで、作業場に大典を招いて絵を見せている。大典に同行した大坂の医者、川井桂山(1708~66)に対し、「見る眼のある人を千年待つ」(以て千載、具眼の徒を竢つ)と語ったというが、桂山は詩の中で「そんなことはない。今見ても素晴らしいではないか」と驚嘆している。 桂山の漢詩集からこの記述を見いだした美術史家の佐藤康宏さんは『若冲伝』のなかで、「千年待つ」というのは謙遜の辞ではなく、「自分の絵は永遠に生き続ける価値がある」と思っている若冲の強烈な自信の表れとみている。
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賣茶翁と大典も同じ思いだったようで、賣茶翁は「生き生きとした手で描かれた絵画の見事さは神に通じる」(丹青活手の妙、神に通ず)と記した「一行書」を若冲に贈っている。若冲の死からまだ222年だが、桂山のような審美眼がなくても「今見ても素晴らしいではないか」とつぶやきたくなるだろう。
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