新橋―横浜間に日本で初めて鉄道が走ってから150年になる。文明開化の象徴にもなった鉄道建設に貢献したのは大隈重信(1838~1922)、伊藤博文(1841~1909)、井上勝(1843~1910)の3人だ。
日本の鉄道史には、ペリー提督(1794~1858)の黒船が来航した嘉永6年(1853年)にまでさかのぼる前史があるが、大隈は前史から佐賀で鉄道に関与している。コラムでは前史からその歴史を振り返った。
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「一生の不覚」狭軌の採用
レールや機関車、建設や運行は英国に頼ったとはいえ、大隈が鉄道は自国で建設するという原則を死守し、早期にそれを実現したことは、その後の日本の鉄道発展の礎になった。ただ、建設を急いだことは、ひとつの禍根を残した。軌間(ゲージ)を1067ミリの狭軌としたことだ。
軌間が狭いと列車は踏ん張りがきかず、速度も出せずに輸送力が劣る。世界の標準はすでに1435ミリの広軌(標準軌)だったが、大隈らは英国側が用意した狭軌をそのまま採用した。その理由には諸説あるがはっきりしない。
大隈が「日本は狭い国だから、レールも狭くてよかろう」とよく考えずに容認し、井上はよく考えた末に「山が多い日本に鉄道を通すには多くのトンネルや橋が必要で、広軌にすると工事費がかさむ」と判断したともいわれている。
英国の鉄道権益拡大で結託か
狭軌を日本に持ち込んだのは英国公使ハリー・パークス(1825~88)が紹介した元清国(中国)領事のホレイショ・ネルソン・レイ(1832~98)だった。レイは世界各国で広軌への改軌が進んで不要になった狭軌を高く日本に持ち込み、利ザヤを稼ごうとしたという見方がある。
パークスは英国の権益拡大のため、明治維新に深く介入しており、江戸城無血開城もパークスが江戸総攻撃に同意しなかったからだという説もある。コラム本文にも書いた通り、日本での鉄道建設を狙っていた米国を排除するため、パークスとレイは結託していた可能性が高い。
ここまでの経緯はコラム本文で詳しく書いたのでお読みいただきたい。ここからは書ききれなかった「改軌論争・その後」に触れておく。
その後も続いた改軌論争
結局、日本の長距離鉄道で本格的に広軌が採用されるのは昭和39年(1964年)に開通した東海道新幹線ということになるわけだが、広軌採用の機会は何回かあった。
狭軌を採用した井上は、その後広軌への改軌を主張するようになる。転換の理由は日本の大陸進出。井上は朝鮮や中国大陸などにも鉄道を張り巡らす構想を抱いていた。大陸から客車や貨車を船に乗せ、釜山ー下関を船で運んで下関から日本の鉄道を走らせる――そのためには日本も広軌に改める必要があった。
「おサル訪問」の非礼から始まった?井上と後藤の縁
満鉄から鉄道院総裁に転じた後藤新平(1857~1929)も広軌への改軌を考えていた。井上と後藤は直接の面識はなかったが、井上が後藤を鉄道院に訪ねて以来、意気投合する。
この時、鉄道院の守衛が取り次ぎを求めた井上の名前を聞き違え、「イノウエオサルという人が来ているが、お会いになるか」と後藤に尋ね、後藤が「おサルなんて名前の奴には会わん」と追い返したという逸話がある。後藤は「日本鉄道の父」井上が訪ねてきたと知って大いに恐縮し、井上の自宅に謝罪に訪れ、鉄道の話で意気投合したという(異説もある)。
後藤はすでに南満州鉄道に高速特急「あじあ号」を走らせており、日本にも走らせたいと思っていた。これが新幹線の原型といわれる弾丸列車構想につながっていく。鉄道院で後藤の薫陶を受け、実現に向けて動いたのが、後に国鉄総裁となり「新幹線の父」と呼ばれた十河信二(1884~1981)に大きな影響を与えた。
日本初の地下鉄はなぜ広軌なのか
さらに最後に余談をひとつ。旧国鉄の在来線などは狭軌だが、新幹線以外にも、私鉄や地下鉄などには広軌を採用した事例がある。特に不思議なのは地下鉄。さほどスピードを出さず、広軌を採用すれば掘削面積が増えてしまうのに、日本最初の地下鉄銀座線はなぜ広軌を採用したのか。『東京地下鉄道史 坤』によると、銀座線の軌道については「種々討議もあつた」が、「當時監督官庁である鉄道省の指示もあり、所謂標準軌間4尺6寸2分の1(1435ミリ)と決定した」とある。
銀座線は、架線とパンタグラフを使わず、2本のレールの横に設けた3本目のレール(第三軌条)から集電する方式をとる。この「第三軌条方式」ではレールの幅を広くして第三軌条と電車の台車との距離を縮めた方が集電しやすいとされ、これが広軌採用の理由とされることが多い。しかし、狭軌でも第三軌条方式はかつて信越本線横川―軽井沢間で採用例があったから、これだけが理由ではないはずだ。
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「地下鉄の父」の出自
実は、銀座線建設を主導した「日本地下鉄の父」早川徳次(1881~1942)は大隈がつくった早稲田大学に在学し、在学中から後藤の書生となっている。
卒業後は後藤が総裁を務める満鉄に入社し、後藤が鉄道院総裁に就任すると鉄道院へ転じている。広軌を支持する人的なつながりが銀座線を広軌にした可能性も否定できない。そうだとすれば、大隈の「一生の不覚」は、井上、後藤、早川、十河という人脈を経て、徐々にリカバリーされたことになる。
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