今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

『どうする家康』で退場の信玄 終焉の地は駒場ではない?

 松本潤さんが徳川家康(1542~1616)を演じるNHK大河ドラマ『どうする家康』第19回(5月21日放送)で、阿部寛さんが演じる武田信玄(1521~73)が病死した。ドラマでは信玄終焉の地は「信州(現在の長野県)駒場こまんば」とテロップで紹介されたが、信玄がどこで病死したかについては以前から諸説ある。

甲府駅前の信玄像

ようやく三河野田城を落としたが…

 元亀3年(1572年)、三方ヶ原の合戦で大勝した信玄は堀江城を攻め、祝田ほうだに近い刑部おさかべ一帯で年を越す。

 だが、そこから信玄の西上のペースは急に遅くなる。刑部で越年した時には、すでに信玄の健康状態はかなり悪化していたとみられる。甲府進発を半年遅らせて強行した西上作戦で、上洛まで信玄が命を永らえるかどうかはもともと疑問だった。

 元亀4年(1573年)2月10日にようやく野田城を落とした信玄は、さらに西上する構えを見せつつ長篠城に入って養生したが、病状は悪化するばかりだった。野田城攻めの最中に夜な夜な敵が籠る城内から流れる笛の音色に聞きほれて、陣中から出たところを鉄砲に撃たれ、その傷が元で死亡したという俗説は明らかに後世の創作だ。

 作戦を中止して本国の甲斐(現在の山梨県)に引き揚げる途中に死去。死因は「肺肝」とされ、今でいう肺結核か、胃か肺のがんだった、とされている。

『どうする家康』第17回~19回の解説はこちらも

3年間死を伏せたため?終焉の地に諸説

 信玄を乗せた神輿みこし長篠城から鳳来寺山の西側を通り、伊那街道から三州街道に入って甲府に向けて北上するが、その途中のどこで死亡したのかについては諸説がある。通説となっているのは「駒場」だが、他にも「根羽」「波(浪)合・平谷」という説や、信濃に入る前に三河の「田口」で死去したと記す書物もある。

 信玄ほどの大物の終焉の地がはっきりしないのは、自らの死を3年間秘密にせよと遺言したことが影響しているのかもしれない。4つの説を順番に見ていこう。

   

駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)…『当代記』「御宿監物長状」

 「(信玄は)肺肝により、病患たちまち腹心に萌し安んぜざること切るなり。(漢の名医の)倉公華佗が術を尽くし、薬を飲むが業病は更に癒えず。追日病枕に沈む」「終に信州駒場に於いて、黄泉の下既に属纊(臨終)の砌、勝頼公を枕頭に近づけて曰く……」(「御宿監物長状」)

  御宿監物は若いころから信玄に仕えた侍医、御宿友綱(1546~1606)のことだ。その友綱天正4年(1576年)の信玄の葬儀の直後、信玄の重臣だった小山田信茂(1539?~82)に送ったとされるのが「御宿監物長状」だ。友綱は信玄の信頼厚く、臨終にも立ち会っている。信茂は友綱の義弟にあたり、長状の内容は信用できそうだ、というのが、駒場説が通説になった理由のようだ。

 ただ、長状は偽書の疑いがあることが以前から指摘されている。また、信玄は駒場長岳寺で荼毘だびにふされたという伝承はあるが、埋葬地を示す墓などはない。「武田信玄公供養塔」はあるが、建ったのは昭和49年(1974年)のこと。供養塔の下には火葬地を掘って出てきた灰が埋められているという。

 信玄が長岳寺で火葬されたのは事実としても、長岳寺で死去したとは限らない。甲府への帰路の道中に神輿の中で亡くなり、長岳寺に運び込まれた可能性も十分にある。

長岳寺の信玄供養塔。昭和になってから建てられた

根羽(長野県下伊那郡根羽村)…『甲陽軍鑑』『熊谷家伝記』

 「歳五十三歳で天正元年(元亀四年・一五七三)酉の四月十二日、三河・美濃・信濃三ヶ国の間、ねばねの上村と申す所にて御他界」(『甲陽軍艦』元禄本、品第三十九)

 「ねばね」とは「根羽」のこと。根羽村には、信玄の死の折りに武田軍が風林火山の旗を横にしたことが名の由来とされる「横旗」という地名もある。

 『甲陽軍鑑』は武田家の軍記物で最近まで信憑性を疑う声もあったが、江戸末期に書かれ、地元に伝わる『根羽七宮廻り』は「十王の辻堂の傍に五輪塔宝篋ほうきょう印塔いんとう)あり。又其一族の小なる五輪塔多数あり。宝暦の頃、八幡勧請あり。武田信玄の墳墓と称えている」と、信玄の埋葬地についても触れている。

根羽村に伝わる信玄の宝篋印塔

 寛文12年(1672年)に甲斐・恵林寺で営まれた信玄100年忌法要の際に、信玄ゆかりの人が建てたという宝篋印塔も残っている。大きさは大名クラスで、信玄を祀ったとみても不思議はない。信玄の埋葬地は宝篋印塔のある場所ではなく、国道153号線沿いにあった信玄塚の周辺だったという。

平谷(長野県下伊那郡平谷村)・浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)…『三河物語』『改正三河風土記』『徳川実記・東照宮御実記』

 「信州平谷・波合に入て、旅宿にて病を養う」「五十三歳を一期の夢として、浪合の夜の間の露と消うせたり」(『改正三河風土記』)

 三河物語』は信玄の西上作戦を比較的詳しく記し、『徳川実記』は徳川家の公式記録とされるが、必ずしも史料としての信頼度は高いとはいえない。根羽のような埋葬地に関する具体的な言い伝えや供養塔などもないため、4説の中ではあまり支持されていない。

田口(愛知県北設楽郡設楽町田口)…『野田戦記』『野田実録』

 「保養のためとて野田御引上げの後は、長篠に暫く御滞留あり。夫より御帰国の沿途、鳳来寺へ御参詣あらんとて、近習の士跡部美作の肩にかかりて御登山あり。衆徒に御対面の後、礼盤に上がりて静かに薬師の呪を唱え懇祷あり。終りて瀧本坊に於いて休息し給う。小食を奉りたけれども進み給わず、医王院仙正を召して勧盆あり、又僧へも一礼ありて、翌日鳳来寺を下り給い、参州設楽郡田口村福田寺に数日御逗留相成り、御所労を養い給いが、御気力次第に衰弱、御療養その効なく、四月十二日の夜半、老雄機山公は五十三歳を一期とし終に永き眠りに入り給いぬ。翌日帰陣の時、新しいひつぎ一個を行列の跡に持たせ、隊伍を整え信濃に行けりという。この櫃こそ信玄公の死骸なりといい伝えり」(『野田戦記』)

 信濃に入る前、三河で終焉を迎えた説は、田口・福田寺で死去したとする。福田寺では信玄の遺体は荼毘に付されていない。福田寺には小さな墓があるが、寺は何度も火災に遭っており、この経緯については裏付けとなる史料が残っていない。

私見では根羽説を支持

 三河信濃の国境付近で亡くなった」ことは確かなのだから、4か所のどこでもいいではないか、という人もいるかもしれないが、田口から駒場までは約40キロは離れており、どちらでもいいというほど近接してはいない。それぞれの古文書の記載の信憑性を測る意味からも、史実を突き止めることに意義はあると思う。個人的には、断然「根羽説」を支持したい。

かつての五輪塔の位置(『甲鑑戦跡紀行』国立国会図書館蔵)

 この説を唱えたのは『武田信玄終焉地考』を著した郷土史家で地元・法正寺の住職だった一ノ瀬義法よしのり師だが、筆者は生前の一ノ瀬師を昭和62年(1987年)に取材し、読売新聞(山梨県版)で根羽説を紹介している。それから30年以上たつが、筆者はいまだに一ノ瀬師を超える説は出ていないと思っている。

※5月21日、大河ドラマ放送後に記事を修正しました。

 

 

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