今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

飼い猫1300年の歴史は朝廷内の「政争」から始まった

 2月22日は「ニャンニャンニャン」の語呂合わせで「猫の日」。今年は西暦とあわせて6個も「2」が並ぶ特別な年だ。ペットフードの業界団体「ペットフード協会」によると、2021年に日本で飼われている猫は推計894.6万頭にのぼり、犬の飼育頭数(710.6万頭)より約184万頭も多いという。今回は「猫の日本史」を取り上げた。

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日本人はいつから猫を飼い始めたか

 日本で猫が飼われ始めた時期については諸説あり、最も古い説は今から2100年前の弥生時代までさかのぼる。長崎県壱岐市弥生人の住居跡、カラカミ遺跡からイエネコとみられる動物の骨が出土しており、収穫した穀物を鼠の害から守るために猫を飼っていたという説だ。

 最も有力といわれてきたのは、今から1200~1300年ほど前の奈良時代から平安時代にかけて、仏教典や仏像を鼠害そがいから守るため遣唐使が日本に「唐猫からねこ」を持ち込んだのが始まりという説だ。だが、鼠の害を防ぐためではなく、愛玩用として飼っていたという記録もたくさんある。

 有名なのが、宇多うだ天皇(867~931)が 綴つづ った今の「猫ブログ」の元祖ともいうべき日本初の猫日記だ。

日本初の猫日記の主人公は黒猫だった

日本初の「猫日記」に連なる愛猫自慢

「朕閑時、述猫消息曰」(ひまを見つけたので、猫について綴る)

 宇多天皇の猫日記『 寛平かんぴょう御記ぎょき』は、寛平元年(889年)2月、宇多天皇23歳の時から始まる。飼っていたのは父で先帝の光孝天皇(830~887)に献上された黒猫で、このころ体長は1尺5寸(約45センチ)ほどだったという。元慶8年(884年)ごろに父から黒猫をもらい受けた宇多天皇は、即位前からよく面倒をみて大切に育てていた。

 日記(原典は漢文)には、「 せると丸くなって足や尾が見えなくなり、黒い玉のように見える」「歩くときは音もなく、まるで雲上の黒い竜のようだ」「ほかの猫より素早く鼠を捕まえる」といった愛猫自慢が並ぶ。

 「お前(黒猫)は陰陽の気を宿し、四肢七穴を備えた(心も体もある)ものなのだから、私の心がわかるだろう、と聞いたところ、猫はため息をつき、私の顔を見上げてのどを鳴らし、何か言いたそうだったが、言葉は出てこなかった」と、猫との“対話”まで記している。

「猫日記」を残した宇多天皇(伝金岡/宇多法皇御影
 出典 ColBase<https://colbase.nich.go.jp/>一部改変)

宇多天皇はなぜこれほど猫を溺愛したのか

 宇多天皇はなぜ、一匹の猫をここまで溺愛したのか。日記には「大事にするのは猫が優れているからではなく、先帝から賜った猫だからだ」という記述がある。愛猫家のライター、吉門裕よしかどゆたかさんは『猫の日本史』のなかで、溺愛の背景にはこの黒猫が父の形見であったこと、そして宇多天皇皇位についた複雑な事情があったと分析している。

宇多天皇に黒猫を授けた光孝天皇(『錦百人一首あつま織』国立国会図書館蔵)

 宇多天皇は父の光孝天皇から黒猫を譲り受けた時、皇太子でもなければ皇族でもなく、源定省みなもとのさだみという名前があった。光孝天皇が死の間際に臣籍降下していた第7皇子の定省を「私がとてもかわいがっている者だ」と次の天皇に推薦し、急きょ皇族に復帰して20歳の若さで皇位についたのが宇多天皇なのだ。

「阿衡の紛議」で宇多天皇と対立した藤原基経(『前賢故実 巻第4』国立国会図書館蔵)

藤原基経に一発かまされて…

 当時の朝廷は藤原基経もとつね(836~891)が実権を握り、皇位継承にも影響力を持っていた。光孝天皇の推薦があったから皇族に復帰させてまで天皇に擁立したものの、基経は宇多天皇を特に気に入っていたわけではない。

 若い天皇に「一発かましておこう」と思ったのだろう。基経は即位直後の宇多天皇に難題を突き付ける。引き続き国政の大役を担うよう求める みことのりの中にあった「よろしく阿衡あこうの任を以て卿が任と為すべし」という一文を問題視し、出仕を拒否したのだ。

苦しんだ「阿衡の紛議」…つい猫に愚痴?

 「阿衡」とは古代中国の位で、詔では国の要職を意味する言葉として使われたのだが、基経は「日本には阿衡という役職はない。天皇は自分を名誉職にまつり上げるつもりなのか」とゴネたわけだ。宇多天皇の即位直前には南海トラフ震源とする仁和の大地震が起き、基経なしには国政は回らない。宇多天皇は自らの非を認め、詔の撤回に追い込まれた。

 宇多天皇が猫日記を書き始めたのは、「阿衡の紛議」と呼ばれるこの政争が、天皇の敗北という形で終息した4か月後のことだった。日記にある通り、ようやく「閑を見つける」ことができた宇多天皇が、父の形見の黒猫に「私の心」をぶつけ、癒やしを得ようとする姿が目に浮かぶようだ。

藤原定家滝沢馬琴…猫好きの歴史上の人物は多い

南総里見八犬伝 初編』の中表紙(国立国会図書館蔵)

 コラム本文では、小倉百人一首の選者で歌人としても知られる藤原定家ふじわらのさだいえ(1162~1241)も愛猫家で、「飼い猫がいなくなったら、定家の歌を書いた紙を食器に入れておくと猫が戻ってくる」という言い伝えがあったことも紹介している。『南総里見八犬伝』の作者で知られる滝沢馬琴(1767~1848)が意外にも猫好きで、今でいう保護猫プロジェクトをしていた話も記した。

 宇多天皇藤原定家も多岐沢馬琴も、決して自分たちの都合だけで猫を飼いはしなかった。先人たちが猫を愛した歴史は、命の重みをわきまえて責任ある飼い方をしなければならないことも教えている。

 

 

 

 

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