今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

貨幣改鋳でデフレ脱却 天才官僚・荻原重秀が悪人とされたワケ

 ウクライナに侵攻したロシアに対する経済・金融制裁を受けて、ロシア通貨ルーブルが急落し、一方で きんの国際価格が高騰している。これまで人類が長い歴史のなかで掘り出した金はオリンピックプール3杯分しかないという。希少だからこそ価値があり、日本でも江戸時代まで金は最上位の貨幣として使われていた。

 希少であることは貨幣としては弱点でもある。経済活動が活発になっても、金の産出量は急には増やせず、モノやサービスより貨幣価値の方が高くなる「デフレ」が起きやすい。だが、貨幣の供給量が金や銀の産出量に縛られていた江戸時代に、デフレからの脱却に成功した天才官僚がいた。元禄時代勘定奉行を務めた荻原重秀(1658~1713)だ。

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「私腹を肥やした悪人」は誤り

 重秀は世界に先駆けて金の価値と貨幣の額面を切り離し、貨幣(通貨)の信用を落とさず元禄経済を活性化させた。

 金沢大学教授の村井淳志さんが当時の史料を丹念に検証した著書『勘定奉行 荻原重秀の生涯』を読むと、貨幣改悪で物価高騰を招いて庶民を苦しめ、賄賂政治で私腹を肥やしたという従来の評価は間違っていることがわかる。

「財政悪化は将軍綱吉の贅沢」も誤り

 5代将軍、徳川綱吉(1646~1709)の治世に幕府の財政悪化が目立つようになる。綱吉の奢侈しゃしな生活が原因というイメージがあるが、真の原因は鉱山の枯渇による収入減だった。幕府は年貢の増収で鉱山収入の減少を補おうと、天領を中心に「延宝検地」を行う。重秀は延宝2年(1674年)に検地を進める要員として勘定所が採用した32人のうちの1人だった。

 この検地は手心が加えられるのを防ぐため、在地の代官ではなく近隣の大名が行っている。新手法を立案した中心人物は重秀だったとみられ、重秀は検地の後、異例の出世を遂げ、34歳で佐渡金山の再生を任される。

佐渡金山の「道遊の割戸」。金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になった

 元禄4年(1691年)に佐渡に乗り込んだ重秀は、採掘を妨げていた坑道の地下水を抜く排水溝を掘削し、水抜きによって金山の生産量回復に成功する。

貨幣改鋳でなぜ財政再建になるのか

 しかし、重秀は早くから検地や鉱山の生産効率の改善では焼け石に水なことを悟っていたようだ。元禄8年(1695年)から始まった貨幣改鋳は、重秀による抜本的な財政再建策だった。

 改鋳によって鋳造された元禄小判は、純金の含有量を慶長小判の約85%から57.36%に減らし、代わりに銀の含有量を増やしている。慶長小判2枚を回収すれば元禄小判3枚に改鋳(吹き直し)できる。金の含有量は減ったのに、額面価値は同じ「1両」。慶長小判を元禄小判に強制交換させ、幕府の金座で吹き直しをすれば、慶長小判2両で1両の財政収入を得ることができる。

改鋳は名目貨幣への第一歩

 重秀は銭貨の寛永通宝について、「たとえ瓦礫がれきのようなものでも、これに官府の印を施し、民間に通用させれば貨幣となる」と語ったとされる(『 三王さんのう外記がいき』)。この 台詞せりふは後世の作り話という説もあるが、事実なら「実物貨幣」から「名目貨幣」への転換を意識していたことになる。

 元禄小判への改鋳にあたって幕府は、「金銀の産出量も少なくなり、世間の金銀も次第に減じているので位を直し、世間の金銀を増やすことにする」と布告し、改鋳は「名目貨幣化」の第一歩で、狙いは貨幣供給量の拡大であることを明確にしている。

富裕層増税、「貯蓄から投資へ」も推進

 改鋳によって幕府が得た出目(貨幣発行益)は、銭貨の改鋳まで含めると530万両にのぼった。通貨の品位が下落したことでインフレが起きたと思われがちだが、村井さんが江戸と大坂の米価格を次の改鋳までの11年間にわたって調べたところ、この間の物価上昇率は年率2.7~3%程度にとどまっていたという。庶民から改鋳への 怨嗟えんさの声が上がったという記録も残っていない。

 改鋳で損をしたのは庶民ではなく、豪商などの富裕層だった。慶長小判を金の含有量が低い元禄小判と交換しなければならなくなり、蔵の中にため込んでいた慶長小判の実質購買力が一気に目減りしたのだ。

徳川時代の金座』(東京都立中央図書館蔵)

 目減り分は出目として幕府の収入になったから、改鋳は富裕層に対する増税と同じだった。『三貨さんか 図彙ずい』によると、重秀に煮え湯をのまされた豪商らはこの後、小判を退蔵せずに在庫投資などに振り向けるようになったという。重秀は「貯蓄から投資へ」も進めたことになる。

重秀の悪評を広げた新井白石

 大きな混乱もなく成功した元禄の改鋳に対し、多くの人が悪いイメージを持つのは、重秀の政策を強く批判した儒者新井白石(1657~1725)のプロパガンダによるところが大きい。

新井白石京都大学附属図書館所蔵)

 白石は若いころ、なかなか世に出る糸口をつかめず、めきめき頭角を現して出世していく重秀への嫉妬を募らせていた。儒官として仕えた徳川綱豊が6代将軍家宣(1662~1712)となり、一躍将軍のブレーンとなると、白石は重秀の更迭を家宣に直訴している。

 しかし、自身の将軍宣下の費用をねん出するための銀貨の再改鋳を黙認していた家宣は、重秀を使い続けた。白石の3度目の激しい罷免要求が出た時、死の床にあった家宣はついに折れ、重秀罷免を承認する。

5代綱吉(右)と6代家宣(『絵本徳川十五代記』国立国会図書館蔵)

 重秀はその半年後に急死するが、死因は断食死とも自殺ともいわれ、はっきりしない。村井さんは、評定所の正式な裁判にかけても、有罪にする自信がなかった白石が、重秀をひそかに幽閉して死に至らしめたのではないか、と推測している。

 重秀の名目貨幣導入は今の管理通貨制度という形に引き継がれているが、紙幣の発行によって通貨供給量をコントロールできるようになった今も、日銀は物価安定目標を達成できずに苦しんでいる。緻密な洞察力とベストを尽くして不透明な先行きを切り開く突破力をどう磨くか、もっと重秀から学ぶべきではないか。

 

 

 

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