今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞調査研究本部  丸山淳一

「今につながる日本史」全国の書店で発売中!

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 読売新聞オンラインで連載したコラムに、このブログの書き下ろしも加えた『今につながる日本史』が本になり、5月20日中央公論新社から発売されました。

 2018年から2020年までに読売新聞オンラインに掲載した「今につながる話」のほか、歴史のこぼれ話〈余話〉、書き下ろしコラムや元号一覧表、作家の堂場瞬一さん、「歴史の達人」出口治明さんのインタビューも収録しました。全国の書店でお求めください。

 

 お読みになった方、本の通販サイトなどにレビューをお寄せいただけると励みになります。もちろん厳しい評価でもかまいません。

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8月15日に帰省する意味と「勝手に大文字」がダメなワケ

 新型コロナウイルスの感染拡大が再び勢いを増す中で、日本最大の民族大移動の時期「お盆(旧盆)」の週がやって来た。多くの感染者が出ている都市部から高齢者が多い地方に帰省し、実家で何日か衣食を共にすれば、ウイルスを拡散させてしまいかねない。

 政府はコロナ分科会の助言を受けて、お盆の帰省についての注意事項をまとめたが、帰省自体は制限や自粛を求めないという。今年は帰省を自粛した人も多いようだ。結論から言えば、お盆の帰省は8月15日近辺に無理にする必要はないと思う。

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8月8日夜に勝手に点灯された大文字
  •  お盆を無視した「勝手に大文字」騒動
  •  お盆はインド発祥の由緒ある行事
  •  太陽暦の採用でスライドしたお盆
  • だが、7月は大人も子どもも忙しかった
  • さらに終戦の日が加わって...、
  • 新たな生活様式にあわせたお盆

 お盆を無視した「勝手に大文字」騒動

 そんな中、「お盆」最終日の8月16日夜に行われる京都の「五山送り火」のうち、「大文字」が8日夜に突如出現して物議を醸した。「大」の字をともす如意ケ嶽(京都市左京区)で何者かが山に登り、ライトを使って「大」の字を点灯したとみられる。

 大文字保存会では「このようなことをする人がいると、16日の点灯もできなくなる」と憤っている。「勝手に大文字」の実行者はLEDライトを使って地球温暖化防止を訴えたかったのかもしれないが、大文字を使うのはまずい。「送り火」はその名前の通り、「お盆=盂蘭盆うらぼんえ」の最終日に精霊を送り出す由緒ある仏教行事で、8月16日に行う意味があるからだ。

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施しから棒引きへ…徳政史の変遷と令和コロナ徳政

 新型コロナ感染拡大を受け、国や自治体が中小企業支援策の拡充に踏み切っている。ただ、営業時間の再短縮や休業(自粛)を求められた店の多くからは「月で最大20万円程度の協力金では足りない」という声が出ている。

 倒産や廃業を食い止めるための思い切った支援策を「令和の徳政」と呼ぶらしい。名古屋市河村たかし市長は中小義業者向けの低利融資制度を「ナゴヤ信長徳政プロジェクト」と名付けた。

 ということで、過去に行われた「徳政」の歴史を振り返り、今につながる真の「徳政」とは何か、考えてみた。

読売新聞オンラインwebコラム本文 

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  • 「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ
  •  今川氏真の徳政令を凍結した井伊直虎
  •  将軍義昭の「代替わり徳政」も計画か
  • 幻の「徳政」と「天下」の意味

「恩徳を施す仁政」から「借金棒引き」へ

 広辞苑で「徳政」と引くと、①人民に恩徳を施す政治。租税を免じ、大赦を行い、物を与えるなどの仁政②中世、売買・貸借の契約を破棄すること――という二つの意味がある。もともと徳政には①の意味しかなかったが、鎌倉時代に出された永仁の徳政令によって②の意味が加わり、室町時代には徳政と言えば②の意味になった。

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永仁の徳政令を出した北条貞時(『柳菴随筆』国立国会図書館蔵)

 コラム本文では「徳政」が①の「人民への恩徳」から始まり、次第に②の「借金の棒引き」の代名詞となり、庶民の熱狂的に受け入れられた後、嫌われるようになった経緯を書いた。

 庶民の味方から敵になったのは、戦国時代末期からだと言われている。室町幕府は徳政令を乱発し、徳政令の手数料収入を得る「分一徳政令」まで出したが、織田信長(1534〜82)は天正5年(1577)に安土に出した楽市楽座令で、徳政は行わないと宣言しているが、この時期に一致する。すでにこのころは、庶民、特に新興商人の経済活動に徳政は邪魔と考えられるようになっていたのだろう。

 江戸時代になってからも困窮した旗本御家人に対する救済策が乱発されたが、徳政令という言葉は使われていない。松平定信寛政の改革で断行した徳政令と同じ借金の棒引きは「棄捐きえん令」と呼ばれた。

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信長も考えた?足利16代将軍・義尋の誕生

 新聞にずっと記事を書いてきた人間が今さら気付くのはおかしいのだが、初めて自分で本を出してみて、自分の文章を読んでくれることの有難さを知った。

 新聞は多くの記者が書いた文章の集合体で、総合力で伝える媒体だが、単著は自分ひとりの力が読んでもらえるかどうかが決まる。私の記事が面白くなくても他の記事が良ければ新聞は読まれるが、ひとりで書いた本はそうはいかない。

 なのに、最近会っていない友人・先輩や、見ず知らずの人が、私の本を買ったり、わざわざ図書館で借りたりして熟読してくれている。感想を書いた手紙をくれたり、通販サイトにレビューを書いてくれたりする。ともかく読んでくれただけでありがたいし、いい評価でなくてもレビューは大変参考になる。実に有難い。

 ということで、私も今後はこれまで以上に読んだ本の紹介を増やしていこうと思う。今回は東大史料編纂所画像史料解析センター准教授の黒嶋敏さんの近著『天下人と二人の将軍』。読んでみて、いくつも目からウロコが落ちた。

www.heibonsha.co.jp

  • 英雄三傑の権力簒奪戦
  • 信長も義昭の子を将軍にしようとした?
  • 義昭も代替わりを意識していた
  • 官位が義昭を超え、安土に城割り
  • 将軍になれなかった義尋は

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三法師を抱いて信長の葬儀に出席した秀吉(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

英雄三傑の権力簒奪戦

 乱世では後継者がひと次々とその地位を失う。豊臣秀吉(1537〜98)は織田信長(1534〜82)の孫の三法師、のちの織田秀信(1580〜1605)織田家の後継に据えたが、岐阜中納言にとどめ、自らは関白になった。

 徳川家康(1543〜1616)は臨終の床に就いた秀吉に豊臣家への忠誠を誓いながら、嫡子の豊臣秀頼(1593〜1615)から天下を奪い取り、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした。

 秀吉はあの世で家康の裏切りに臍をかんだだろうが、自分も秀信を冷遇した過去がある。秀吉と家康が、それぞれの嫡子から天下を簒奪したことは、多くの人が知っている。

 では、信長はどうだったのか。信長は室町幕府15代将軍の足利義昭(1537〜97)を京都から追放して政権を奪ったが、義昭の命は奪っていないし、義昭に代わって将軍職に就いたわけでもない。しかも、義昭の嫡子は三法師や秀頼ほど知られていないから、嫡子から天下を簒奪したイメージもない。

 しかし、黒嶋さんによれば、信長も秀吉、家康と同じことをしていた。義昭には嫡男、足利義尋ぎじん(1572〜1605)がいたが、黒嶋さんは義尋は足利16代将軍に就く可能性があった、と記している。

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『麒麟がくる』8月再開!高橋英樹さん 大河と信長を語る

 新型コロナの影響で放送休止中だった大河ドラマ麒麟がくる』が8月30日から再開される。これまで大河ドラマ9作に出演した高橋英樹さんのロングインタビューを2回に分けて読売新聞オンラインに掲載した。

 高橋さんと言えば『国盗り物語』で演じた織田信長(1534〜82)が有名だが、前編では信長以外の出演作についてじっくりと語ってくれた。他では読めないインタビューだと思う。

 

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インタビューに答える高橋さん

 大河ドラマの秘蔵写真も多数ご提供いただいたが、権利許諾の関係でここでは公開できない。読売新聞オンラインwebコラム「今につながる日本史」でご覧いただきたい。

読売新聞オンラインwebコラム本文

www.yomiuri.co.jp

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大河9作に加え『坂の上の雲』も

 前編では大河ドラマのほかに、スペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもたっぷりお話が聞けた。視聴していて涙腺が崩壊した「そこから旅順港が見えるか―っ」「見えまーす!丸見えでありまーす」というシーンを思い出すが、あのシーン、実は…という話も。

【前編に登場する高橋さんが演じた人物】

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本能寺の変の黒幕、高橋説は…

 後編では、高橋さんが一番好きだという織田信長について、高橋さんならではの人物評価や、本能寺の変の原因、さらには『麒麟がくる』の染谷将太さんの信長像に対する評価についても聞いた。

 私は本能寺の変には黒幕は存在しないと思っているが、高橋さんが「謀反をそそのかした人物がいたのでは」という。その人物は『麒麟がくる』にも今度、登場する。これまでの戦国大河ではほとんど登場していなかったから、ひょっとすると……。

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演じる立場から史を見る

 高橋さんは来る役は拒まず、演じる前にはゆかりの地を訪れたり、本を読んだりして猛勉強するという。私は『国盗り物語』を見た後に山岡荘八の『織田信長』を読んで、「『国盗り物語』のあのシーン、司馬遼太郎の原作よりこっちに近いな」と思ったことが何度かあった。インタビューでその種明かしをされ、なるほど、そういうことだったのか、と納得した。

 高橋さんは日本刀を鑑る目も相当なものだ。さまざまな役で使ってきただけに、知識量も半端ではない。

www.facebook.com

刀を見る目はもはやプロ。高橋さんの知識のすごさがわかる。今後もご活躍いただきたい。なお、高橋さんから直筆サインをいただいた。8月21日まで読者プレゼントの応募を受け付けている。

高橋英樹 #織田信長 #染谷将太

*後編公開にあわせ、7月22日に一部記述を書き足しました。

 

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洪水危険、土砂崩れ注意…「地名」は警告する

*「今につながる日本史」の出版にあわせて、本の中身を確認できるように、2018年に公開したコラムを本に収録した加筆修正後の内容に改めて公開します。九州で豪雨災害にあわれた方、心よりお見舞い申し上げます。

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町の中心部が水没した岡山県真備町

 歴史学者磯田道史さんの『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)を、本棚に戻す前に読みなおすことになるとは思わなかった。大阪北部地震から1か月もたたないうちに、西日本を記録的な豪雨が襲った。被災地はその後も「災害級」の猛暑と台風12号の直撃を受けた。

  • 災害地名は先人たちの警告
  •  水害常習地、豪雨に悩んだ「川辺」「池田」
  •  「滑ヶ谷」「荒川山」…「埋め河」転じて「梅河」に
  • 人柱の伝説も…またも暴れた愛媛「肱川
  • 「周囲に峰々」「大量の地下水」…地名に刻まれた危険
  • オカルトでも都市伝説でもない
  • 天災は忘れないだけでは不十分

災害地名は先人たちの警告

 土砂崩れなどで100人以上が亡くなった広島県では、2014年にも広島市安佐南区八木などで、多くの死者を出している。磯田さんは広島の土砂災害の後、本のタイトル通りにこの地区の郷土史を読みなおし、戦国武将・香川勝雄かつたか(1515~69)の大蛇退治の伝説があること、かつて伝説にちなむ「蛇落地じゃらくち」「蛇王池じゃおういけ」という地名があった、と記している。

 昔は土砂崩れを「じゃ崩れ」や「蛇落じゃらく」と呼び、「蛇落地」は地区で土砂崩れがあったことを示す「災害地名」の可能性が高い。だが、宝暦12年(1762)の土地台帳にはすでに「蛇落地」の地名はなく、代わりに音(読み)がよく似た「上楽寺(上楽地)」という字あざ名がある。後世の住民が忌まわしい記録を縁起のいい名前に変えたとすれば、先人の警告を消してしまったことになる。

 西日本豪雨で大きな被害が出た被災地には「蛇落地」のような災害地名や、災害の伝承や逸話はあったのだろうか。

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 水害常習地、豪雨に悩んだ「川辺」「池田」

 小田川の堤防が決壊し、1200ヘクタールが水没した岡山県倉敷市真備まび町は、奈良時代の学者・吉備吉備きびの真備まきび(695~775)がこの地の出身というのが由来で、町名は災害に由来していない。しかし、被害が大きかった川辺地区は文字通りの「川の辺べ」で、水害の常習地だった。 

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各地で濁流が住宅を襲った(岡山県真備町

 小田川が合流する高梁川は水量が多く、豊臣秀吉(1537~98)の高松城の水攻めにも利用された。国土交通省河川局の「高梁川水系河川整備基本方針」によると、秀吉の時代の高梁川は平野部の流路が今と異なり、足守あしもり川、笹ヶ瀬川を辿って児島湾に注ぐ流路もあったという。一方の小田川は勾配が緩く、増水時には大量の水が逆流する「バックウォーター」が頻発していた。

  江戸時代にこの地を治めた備中(岡山県)岡田藩は、山陽道の宿場町だった川辺宿を丸ごと「神楽かぐら土手」と呼ばれた堤防で囲んでいた。初代藩主の伊東長実ながざね(1560~1629)は、関ケ原の戦いの直前に徳川家康(1543~1616)にいち早く石田三成(1560~1600)の挙兵を知らせた功績で、美濃池田郡にも領地を得た。長実は川辺地区と池田郡の治水を同じ家臣に担当させ、暴れ川を抱える美濃(岐阜県)の輪中わじゅう堤防の技術を神楽土手に導入したとされる。

 ちなみに岐阜の「池田」の「イケ」にも「水のある所」という意味がある。西日本豪雨では岐阜県西部も記録的な大雨に見舞われているが、かつて岡田藩も領地の同時豪雨に悩まされ、水防の専門家を育成しようとしたのかもしれない。

 川辺地区では明治以降も堤防の補強や護岸整備が進められたが、水害はやまず、ふたつの川の合流地点を付け替える大規模な河川整備があと数か月で着工の予定だった。多くの住民は水害を知っていたが、「前回は避難しなくてもよかった。今回も大丈夫だろう」と考えてしまった。過去の災害の記憶がかえって避難の足かせになる「経験の逆機能」は、東日本大震災でも見られたという。

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「暴れ川」「ダム」の歴史と令和の熊本豪雨

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決壊した球磨川と浸水した人吉市

 梅雨前線の影響で熊本県南部に記録的な大雨が降り、球磨川が氾濫した。支流に近い球磨村特別養護老人ホームが浸水し、土砂崩れも多発した。

 八代市人吉市では橋が流失し、多くの人が孤立した。死者・行方不明者は30人を超えた。大雨はまだ続きそうだ。私も熊本にいた時期、梅雨末期の大雨の猛威を経験した。被災された方には心からお見舞い申し上げるとともに、引き続き警戒するようお願いしたい。

  •  洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは
  •  1200年続く水害との戦い
  • 清正が 築いた?遥拝堰
  • 「瀬戸石崩れ」を7日で復旧させた稲津弥右衛門
  • 昭和40年の大水害と市房ダム
  • 緊急放流がは見送られたが…
  • ダムが要るのか、ダム無しがいいのか

 洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは

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球磨川流域図(国土交通省河川局『球磨川水系の流域及び河川の概要』)

 九州は梅雨末期になると毎年のように集中豪雨による水害が発生するが、7月4日未明から朝にかけては観測史上最多雨量を更新する猛烈な雨が降った。球磨川流域は急峻な山々に囲まれ、日本三大急流のひとつとされる。

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 上流の人吉・球磨盆地は、周囲を山に囲まれ、山間部に降った雨がすり鉢状の盆地に集まりやすい。中流域は山の間を流れ、川幅が急に狭まる「山間狭窄部」、つまり「ボトルネック」になっており、急に水位が上昇しやすい。下流八代平野扇状地を蛇行し、河口付近は干拓でできた海抜が低い土地で、堤防決壊や広範囲にわたる浸水が起きやすい。球磨川は上流、中流下流ともに、大雨が降ると一挙に「暴れ川」となり、流域のすべてで氾濫が起きやすく、ひとたび氾濫すると浸水被害は大きくなる。

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