今につながる日本史+α

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読売新聞調査研究本部  丸山淳一

牛に引かれて…善光寺詣に隠された史実はあるか

  

 

 長野市善光寺で4月3日から 御開帳ごかいちょう が始まった。数えで7年に1度の御開帳は本来なら2021年春に行われるはずだったが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から1年延期されていた。善光寺というお寺には謎が多い。創建時から説き起こし、その謎に迫るとともに、江戸時代に現在の御開帳を始めた大僧正・等順(1742~1804)について振り返った。

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善光寺本尊は日本最古の仏像

 善光寺の本尊「 一光三尊阿弥陀如来いっこうさんぞんあみだにょらい (善光寺如来)」について、『日本書紀』は欽明天皇13年(552年、壬申)に百済聖明王(?~554)が経典とともに日本にもたらしたと記している。つまり日本最古の仏像なのだが、歴史の授業では仏教伝来には538年と552年の2説あると教わった。552年説の根拠は上記の通り『日本書紀』だが、538年の根拠は何なのだろうか。

 『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、「欽明天皇(509?~571?)の御代の『戊午年』に百済聖明王から仏教が伝来した」とする。ところが欽明天皇の御代(在位は540~571年とされる)には「戊午」の年が存在しない。欽明天皇の御代より前で最も近い「戊午」の年が538年(日本書紀によると宣化天皇3年)となるということらしい。

 つまり、538年と552年のどちらも、伝来した仏像は同じ善光寺如来なわけだ。御開帳で公開されるのは、鎌倉時代に造られたとされる本尊と同じ姿の「 前立本尊まえだちほんぞん 」、つまり本尊のレプリカなのだが、前立本尊には光背などに日本の仏像とは異なる特徴があるというから、百済から渡来したというのは本当かもしれない。

なぜ善光寺無宗派なのか

 善光寺がどの宗派にも属さないのも、本尊が日本仏教の原点といえる仏像だからだろう。無宗派であるゆえに、善光寺は分け隔てなく万人を救済してくれる寺として、庶民の広く深い信仰を集めてきた。古くから女性の参拝を受け入れ、女人救済の寺として知られるのも、その表れといえる。コラム本文でも降れているが、善光寺如来は女帝の皇極天皇(594~661)を地獄から救出したという言い伝えがある。

 絶対秘仏の「神秘性」と万人救済の「開放性」が同居していることが「遠くとも一度は まい れ善光寺」といわれるほど庶民の信仰を集めている一因だろう。

 都(当時は飛鳥)からなぜ長野市に到達したのかについては多くの説がある。本田善光が背負って運んだのは麻績の里で、やはり皇極天皇が現在の地点に創建したという言い伝えがある。コラム本文では(ある程度までだが)この点も解説している。

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善光寺本堂

 

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この世をば…「望月の歌」を巡る新解釈とは

 「平安」時代という名前や「貴族の世の中」というくくり」が影響しているのかもしれない。ちょうど1000年前、平安時代の貴族は優雅で安定した時代を 謳歌おうか していた、というのが多くの人の印象だろう。当時は摂関政治の全盛期で、その頂点にいたのが藤原道長(966~1028)だった。娘を次々に天皇の (皇后、中宮)として権勢をふるった道長には、傍若無人の専横を伝える多くの逸話がある。最も有名なのが、道長が詠んだ「望月の歌」だろう。

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば

 「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」――この時点で3人の娘を次々に天皇や皇太子の后とした道長が、得意満面に詠んだ歌とされてきた。最近登場したこの歌の新解釈と、当時の貴族は本当に優雅な生活をしていたのか、学説を紹介した。

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歌はどんな場面で詠まれたのか

「望月の歌」は「賢人右府」と呼ばれた藤原実資さねすけ(957~1046)の日記『 小右記しょうゆうき』の寛仁2年(1018年)10月16日の条に書き留められている。月夜に開かれた宴席で、道長は当時右大将だった実資に「今から座興で歌を詠むので返歌せよ」と命じて「望月の歌」を詠んだという。

 実資は「優美な歌で、返歌のしようがない。皆でただこの歌を詠じてはどうか」と呼びかけて、一同がこの歌を数回吟詠したという。実資は故実有職に詳しい当代一流の知識人で、道長びずに意見することも辞さない気骨のある人だった。

 このため、実資が返歌を拒んだのは権勢を自慢する「望月の歌」に内心あきれたからで、とはいえ祝いの席を台なしにするわけにもいかず、やむなく唱和を促した、と思われてきた。

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    藤原道長(左)と藤原実資(『前賢故実巻6』国立国会図書館蔵)

 

歌は満月の夜に詠まれたのか

 そもそも「望月の歌」が詠まれた10月16日の月は、通常の年なら少しだけ欠けた十六夜いざよいの月だが、寛仁2年10月16日の月については天文暦法上はほぼ満月だった。新解釈を発表した京都先端科学大学教授の山本淳子さんは、和歌の世界で十六夜の月を満月と詠むのは不自然という前提に立ち、道長は「望月」に別の比喩を込めたのではないかと考えた。だが、ほぼ満月という前提に立てば、従来の解釈も否定されるわけではない。ただ、新解釈に従うと、歌が詠まれた状況もだいぶ変わってくる。詳細はコラム本文をお読みいただきたい。

 

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 なお、新解釈の前提となるはあくまで新解釈で通説なお、道長道長はこの時、病で月は見えなかったという説もあることを付記しておく。

 

ジャパンブルーはサムライブルーか

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2021年に発売されたサッカー日本代表 100周年アニバーサリーユニフォーム

 大河ドラマ「青天を衝け」で藍染めが出てくることから、ジャパンブルーの歴史を探ってみた。

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武士の「勝ち色」由来説には異説も

 サッカー日本代表の青のユニホームは、日本がオリンピックのサッカー競技に初参加した昭和11年(1936年)ベルリン大会で採用された。採用された理由について、江戸時代に武士(侍)が好んだ『勝ち色』にあやかったという説がある」と書いたところ、「東京帝国大学のユニフォームが青だったからではないか」という指摘を複数いただいた。昭和5年(1930年)にサッカーの第9回極東選手権に出場した初の選抜チームのユニホームが、12人の選手を送り込んだ東京帝大のユニホームにならったという説だ。

 確かにこの大会では日本が優勝し、それ以降、日本代表のユニホームは青が基本となったといわれている。だが、東京帝大が由来という見方については日本サッカー協会は「わからない」としており、むしろ協会のホームページは、ユニホームの藍色は「サムライブルー」とも呼ばれてうぃることを紹介していることから、コラムでは「勝ち色」説を紹介した。発祥は東京帝大のユニフォームの色だったとしても、「ベルリンの奇跡」があったから、ユニフォームの色が青に定着したというのは正しいと思う。

 偶然とはいえ、ジャパンブルーを支えた「ベロ藍」と、サムライブルー発祥の「ベルリンの奇跡」がともにドイツだったところに因縁を感じるのだ。

www.yomiuri.co.jp

 

 

 

 

堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか

 史実は変えられないとはわかっていても、「平岡ロス」に陥っている視聴者も多いのではないか。NHK大河ドラマ『青天をけ』の5月30日放送回で、ドラマ前半のキーマンだった一橋(徳川)慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)が暗殺された。あまり知られていない円四郎について調べてみた。

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大恩人をあまり褒めなかった渋沢

 平岡は慶喜とともに公武合体を進め、攘夷じょういの志士と対立したが、倒幕を企てて幕吏に追われていた渋沢栄一(1840~1931)を一橋家の家臣に取り立て、窮地から救っている。だが、意外なことに渋沢は、その大恩人をあまり褒めていない。渋沢の談話集『実験論語処世談』の中で渋沢は円四郎について「一を聞いて十を知ることができる数少ない人だった」と述懐した上で、こうつけ加えている。

 「一を聞いて十を知るというのも、学問なら格別だが、一概に結構な性分とは言えない。(中略)こういう性格の人は自然と他人に嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものだ。平岡が水戸浪士に暗殺されてしまったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせ、あまりに他人の先回りばかりした結果ではなかろうか」

 同書の別のくだりでは、「平岡が非凡の才識を有していたのは間違いないが、人を鑑別する鑑識眼は乏しかった」とも評している。自分を一橋家の家臣にしたのも、「まだ若いのに殺されてしまうのは可哀かわいそうだから助けてやろうくらいのことで、私をて大いに用いるべしとしたからではなかろう」と少々手厳しい。他の史料も円四郎を「人づきあいが下手で、独りよがり」と評している。どうやら堤真一さんが演じた「懐が深く、部下思いの人情家」のイメージとは少し異なる。

優れた行政官だった円四郎の実父と養父

 幕末の動乱下では先を見るとともに、味方を増やす交渉能力が不可欠なはずだ。英名を博した慶喜は、なぜ円四郎を好み、家老格で重用したのか。実は慶喜と円四郎が結びついた裏には、それぞれの実父の思いがあった。

 平岡円四郎は、旗本の岡本忠次郎(1767~1850)の四男に生まれ、天保9年(1838)16歳でやはり旗本の平岡家の養子となっている。忠次郎は「花亭」の別名で漢詩を詠んだ文化人として知られるが、優秀な行政官でもあった。

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円四郎の実父、岡本忠次郎(『近世名家肖像図巻』国立国会図書館蔵)

 勘定奉行の下僚から天保8年(1837)に信濃・中野(長野県中野市)の代官に抜擢ばってきされた忠次郎は、その翌年、領地に冷害が起きると、幕府に掛け合って下賜金を得て、領民に分配している。江戸城の火災で幕府から復旧費の要請が来た時には、領民から2700両を集めている。領民をしっかり掌握できていたことがうかがえる。

 越後・水原(新潟県阿賀野市)と会津・田島(福島県南会津町)の代官を兼ねていた養父の文次郎も、越後と会津を結ぶ山岳ルート「八十はちじゅうごえ」を馬が通れる道に整備・拡充したことで知られる。名代官として領民に慕われ、平岡の転出が決まると、農民代表が江戸にのぼって平岡の留任を訴えたという。

 忠次郎と文次郎はともに幕府と領民の間に立つ中間管理職だった。政策や領民掌握術の情報交換をする仲だったのかもしれない。実父と養父の行政官としての才覚に接した円四郎は、旗本や御家人の子弟が集まる昌平坂学問所の「学問所寄宿中頭取」、つまり学生寮の寮長に就職した。学問所の選抜は実力主義で、成績優秀者は幕府の要職に登用される。全国から集まる向学の士とともに見識を高め、ふたりの父のようになる夢を抱いていたのではないか。

慶喜の人物にほれ込み、側近に

 だが、学問所に集まるのは出来のいい子弟ばかりではなかった。人づきあいが苦手な円四郎には、さほど向学心もない「箱入り息子」のお世話は相当苦痛だったようだ。円四郎はわずか2年で「武術鍛錬のため」と称して学問所を辞め、10年近く定職にもつかず、親を心配させる。だが、夢をあきらめたわけではなく、勘定所への就職を目指し、今でいうアルバイトのような形で町方与力のアシスタントをしていたという。

 『青天を衝け』の時代考証を担当している東北公益文科大学准教授の門松秀樹さんによると、高い筆記・計算能力が求められる勘定所は、家格に関係なく能力があれば出世できる数少ない役所だった(『明治維新幕臣』)。実力主義の世界にいればおべっかや忖度そんたくは必要ない。人づきあいが下手なら、能力をつければいい、と考えたのだろう。

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円四郎の実父、岡本忠次郎(『近世名家肖像図巻』国立国会図書館蔵)



 

 

川路聖謨(『国史大辞典』国立国会図書館蔵)

 

 今は、十を知るために百どころか万の情報に接することができる。だが、取捨選択に費やせる時間は短く、先回りして判断を求められることも多い。情報の洪水から何を選び、何を選ぶべきではないか、人生の師と同時に反面教師を見つけられなければ、不昧因果の小車に取り込まれてしまいかねないのは、今も昔も変わらない。

 

感染症にかかった為政者はどう動いたか

 コロナ禍が一向に収まらない。菅首相は7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせる方針だが、ワクチン供給の遅れや予約システムの不備などの不手際が相次ぎ、内閣支持率は低迷が続いている。

 国会議員がパーティーを開いたり、夜の会合に出席したりした事実が発覚するたびに「自粛をお願いしておきながら、なぜ自分は守らないのか」という批判の声が上がる。国民に自粛を求め、ワクチンを行き渡らせることを最優先すべき立場にいる人が、自粛を迫られ、ワクチン接種を望む国民のことを本当に最優先に考えているのか、「統治者としてのモラル」が問われている。

 過去の感染症の大流行で、対策の陣頭指揮に立った為政者はどのように動いたのか。特に注目したいのは、自身や親族が感染症にかかった統治者の行動だ。自ら感染症の恐怖に直面した時こそ、為政者のモラルが試されると思う。

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  •  麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼
  • 「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」
  •  天然痘ワクチンを後押しした藩主
  • 原敬にインフル感染の後遺症?
  • 国民の不安を取り除く努力を

 麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼

 鎌倉幕府5代執権の北条時頼(1227~63)は建長8年(1256)、麻疹(はしか)と赤痢にかかっている。一時は陰陽師おんみょうじが死者をよみがえらせる秘術を施す「泰山府君たいざんふくんさい」まで行われるほど重篤な状況に陥った。当時、麻疹は赤斑瘡あかもがさと呼ばれ、感染力が強力で致死率が高い深刻な病だった。

 死を悟った時頼は、執権職や邸宅を義兄に譲って、その翌日に出家した。だが、出家後に病は癒えた。回復した時頼は、粗末な格好に身をやつして諸国を遍歴し、民の救済に努めたという「廻国かいこく伝説」がある。水戸黄門のような話だが、「いざ鎌倉」の語源となった能の演目「鉢木はちのき」の話は特に有名だ。

 上野こうずけ群馬県)の佐野で大雪にあって立ち往生した時頼は民家に泊めてもらう。家の主人は僧が時頼とは知らぬまま、まきが尽きると大切にしていた梅と桜と松の鉢の木を火にくべて時頼をもてなす。主人は「今は領地を横領されて落ちぶれているが、鎌倉で事変があれば誰より先に駆けつける」と語る。後に時頼は関東八州の武士に召集をかけ、約束通り鎌倉に駆け付けた主人の領地を回復させた上に、梅、桜、松の鉢植えにちなんで加賀国(石川県)梅田庄、越中国富山県)桜井庄、上野国松井田庄に新たな領地を与えたという。

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鉢の木を薪にしようとする主人(左)を見つめる時頼(右)(『芳年武者无類 相模守北条最明寺入道時頼』 国立国会図書館蔵)

「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」

 時頼は北条氏に敵対する三浦氏を滅ぼす(宝治合戦)など北条本家の勢力拡大に努め、病で執権を退いてからも幕府の実権を握り続けて、本家の当主(得宗)の専制政治を始めたとされる。麻疹や赤痢への感染は出家の口実に過ぎないという見方もあり、諸国遍歴も実際にはしていないとみられる。

 では、なぜこんな美談が残っているのか。それは、時頼が建長5年(1253)に民を労われと命じた「撫民ぶみん令」や、農民から田畑を取り上げることを禁じるなどの農民保護策をとったからだろう。

 時頼は「酒は害がある」として「一屋一壺制」で酒の醸造量を制限し、自らも台所の味噌みそだけをさかなに質素な「家飲み」をしていたという。家飲みは質素倹約のためで感染対策ではないが、感染症飢饉ききんで民が苦しんでいるときにぜいたくはできないと考えたのは史実とみられる。

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台所の味噌で酒盛りをする時頼(菊池容斎前賢故実国立国会図書館蔵)

 鎌倉時代御家人救済策として有名な徳政令については以前にも取り上げたが、撫民令は徳政令より前に出されている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「時頼の撫民政策は荒くれ者・収奪者だった武士が、民衆の利益を優先する統治者へと変化した意識改革の重要な転機だった」と評価している。

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謎だらけ 聖徳太子の肖像画

 2021年は聖徳太子厩戸皇子うまやどのおうじ、574~622)の1400回忌にあたる。奈良の世界遺産法隆寺では4月3日から5日まで、100年に1度の節目となる遠忌おんき法要が行われた。

 聖徳太子はひと昔前まで、間違いなく日本で最も有名な歴史上の人物だった。何しろ昭和5年(1930)の百円札以降、昭和59年(1984)に1万円札の顔を福沢諭吉(1835~1901)に譲るまで7度も紙幣の顔になった。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は終戦後、「軍国主義を象徴している」として、戦前の紙幣の肖像を次々に使用禁止にしたが、聖徳太子だけは生き残った。日本銀行総裁だった一万田いちまだ尚登ひさと(1893~1984)が、「太子は十七条憲法の第一条で『和をって貴しとなす』を掲げた平和主義者だ」とGHQを説き伏せたためといわれる。

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 これほど有名な肖像画だが、この人物が本当に太子なのかどうか、いつ、どんな経緯で、誰を描いたのかは、実は解明されていない。その謎に迫った大阪大学名誉教授・武田佐知子さんの『信仰の王権 聖徳太子』をテキストに、その経緯をたどってみた。

 早くから言われた「絵の作者は日本人ではない」

 紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は、しゃくを持ち帯刀して立つ太子、その左に弟の殖栗皇子えぐりのみこ(生没年不明)、右に長男の山背大兄王ましろのおおえのおう(?~643)を描いたとされる。眉などの描き方から、8世紀半ばの奈良時代に描かれたというのが通説になっている。太子の死より100年以上後の作ということになるが、想像や回想を交えた肖像画はほかにもたくさんある。これだけで太子とは別人とはいえない。

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聖徳太子二王子像(摸本『聖徳太子伝』国立国会図書館蔵)

 だが、肖像画が太子本人かどうか疑問を抱かざるを得ない別の由来がある。絵の作者は日本人ではないとする由来が二つも残っており、この肖像画には唐本とうほん御影みえい」「阿佐太子あさたいし御影」という二つの異名があるのだ。

 「唐本」とは「唐(古代中国)の人」のこと、「阿佐太子」は百済くだら(古代朝鮮の国)の王族の画家の名前だ。阿佐太子は日本に仏教を伝えた聖明王(?~554)の子孫で、『日本書紀』には推古天皇5年(597)に来日したと記されている。

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四天王寺所蔵の聖徳太子像(模写、国立国会図書館蔵)

 なぜ異国の作者が太子の肖像を描いたのか。平安時代の学者、大江親通おおえのちかみち(?~1151)はその疑問を率直に文書に残している。仏教美術の研究家でもあった親通は、保延6年(1140)に法隆寺の宝蔵にあった聖徳太子像を拝観した感想を『七大寺巡礼私記』にこう記している。

 「太子の俗形ぞくぎょうの御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし」

 衣装に陰影をつける画風や、本人の両脇に二人が並ぶ構図は唐のもので、俗人姿の太子の衣装は日本のものとは思えない。寺側は唐人が描いたからだと説明するが、ならばなぜ太子を描いたのか、ならばなぜ絵が唐ではなく、法隆寺にあるのか。不可思議だ。これは改めて詳しく見なければならないぞ――。

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天守閣復旧の熊本城 復旧はこれからが正念場

      

 2016年の熊本地震で傷んだ熊本城天守閣の復旧工事が完了した。5年前に熊本地震に遭遇した筆者にはうれしいニュースだ。だが、復旧工事が完了したのは天守閣と重要文化財長塀ながべいだけで、熊本城全体の復旧はまだ2割程度しか終わっていないとされる。

 復旧がすべて完了するのは2037年度の予定。まだ16年以上先のことだ。完全復旧がいかに気の遠くなるような作業かについては以前にも触れたが、熊本地震から5年の節目にあわせ、改めてまとめた。

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  •  気が遠くなるような石垣の積み直し 
  • 西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価
  •  元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も
  •  明治熊本地震からの復旧、裏に2人の巨頭 
  •  宇土櫓を倒壊から救った昭和の解体修理

 気が遠くなるような石垣の積み直し 

 天守閣は昭和35年(1960)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート建造物で、重要文化財ではないから早く復旧できた。しかし、やぐらなどの重要文化財建造物は解体して取り出した瓦や柱などを可能な限り使って元通りにしなければならない。

 さらに難題なのは石垣だ。崩落した石垣はもちろん、変形した石垣も、すべて地震の前の状態に積み直す必要がある。崩落時に割れた石は貼り合わせて使う。再使用が無理な石は新しい石に差し替えるが、形は崩落した石と寸分違わぬように加工する。再び大きな地震が来ても石垣が崩れないように、崩落の原因を究明する必要もある。

 熊本地震では全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの石垣が被災し、このうち8200平方メートルで石垣が崩落したが、天守閣の復旧工事に伴って積み直した石垣は740平方メートルにすぎない。積み直しが必要な石は一説には10万個を超える。

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 1列の隅石すみいしが櫓を支え、「奇跡の一本石垣」が有名になった飯田丸五階櫓はすでに解体されているが、石垣の積み直しは今年度から始まる。戌亥櫓いぬいやぐら地震から5年たった今も「一本石垣」の状態が続き、今年度からようやく建造物の解体・保存工事に着手する。

 重要文化財宇土うと櫓の復旧も難航が予想される。建物は傾き、外壁の漆喰しっくいが落ちるなど大きな被害が出たが、より深刻なのは櫓が立つ巨大な高石垣に「はらみ(膨らみ)」が出ていることだ。

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加藤清正(『肖像』国立国会図書館蔵)

西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価

  熊本城が全国有数の「石垣の城」になったのは、城を築いた加藤清正(1562~1611)が鉄壁の守りを目指したためとされる。城内に120以上の井戸を掘り、食料になる銀杏の木を植え、土塀にかんぴょう、畳の芯に芋茎ずいきを埋め込んで籠城戦に備えていた、という逸話は有名だが、高い石垣に「武者返し」と呼ばれるりをつけ、攻め込んでくる敵を撃退するため、城の出入り口(虎口)から箱形の石垣(桝形ますがた)を幾重にも並べたことこそ、「難攻不落の城を造る」という清正の築城方針の表れだろう。

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城を攻める薩摩軍と守る鎮台軍(『鹿児島の賊軍 熊本城激戦図』国立国会図書館蔵)

 結局、江戸時代に熊本城が攻められることはなかったが、その真価は明治10年(1877)の西南戦争で発揮される。当時熊本鎮台が置かれていた熊本城は1万3000の薩摩軍の総攻撃を受けたが、薩軍は城の一角に取り付くこともできなかった。敗れた薩軍総大将の西郷隆盛(1828~77)は鹿児島で自害する直前に「わしは官軍ではなく、清正公に負けたのだ」と言ったという話がある。

 ちなみに、天守薩軍総攻撃の2日前に火災で全焼している。火事の原因については諸説あるが、最近は鎮台軍側が薩軍の大砲の的になるのを避けるために焼き払ったという説が有力だ。籠城した鎮台軍が頼みにしたのは天守ではなく、石垣だったのかもしれない。

 薩軍が熊本城の攻略に失敗したことで西南戦争の勝敗は決した。軍にその記憶が残ったことは、その後の熊本城の帰趨きすうにも大きな影響を与えることになる。熊本城は明治以降、3度にわたって廃城の危機を迎えているが、いずれも軍が城を守っているのだ。

 元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も

 西南戦争の7年前の明治3年(1870)、熊本藩知事となった細川護久(1839~93)は、中央政府に熊本城の廃棄を願い出て許可されている。藩政改革を進めていた護久にとって、維持費がかかる熊本城は無用の長物だった。最後のお別れということで、一般庶民に城を公開する「御城拝見」まで行われている

 それが一転して存続となったのは、翌年に城内に鎮西鎮台が置かれ、陸軍が管理することになったためだ。天守などの建造物も軍の管理下に入り、外部から手出しができなくなった。その2年後には廃城令が出され、全国の多くの城の天守や櫓が取り壊されたが、熊本城は破却を免れた。

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