2016年の熊本地震で傷んだ熊本城天守閣の復旧工事が完了した。5年前に熊本地震に遭遇した筆者にはうれしいニュースだ。だが、復旧工事が完了したのは天守閣と重要文化財の長塀だけで、熊本城全体の復旧はまだ2割程度しか終わっていないとされる。
復旧がすべて完了するのは2037年度の予定。まだ16年以上先のことだ。完全復旧がいかに気の遠くなるような作業かについては以前にも触れたが、熊本地震から5年の節目にあわせ、改めてまとめた。
読売新聞オンラインのコラム本文
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- 気が遠くなるような石垣の積み直し
- 西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価
- 元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も
- 明治熊本地震からの復旧、裏に2人の巨頭
- 宇土櫓を倒壊から救った昭和の解体修理
気が遠くなるような石垣の積み直し
天守閣は昭和35年(1960)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート建造物で、重要文化財ではないから早く復旧できた。しかし、櫓などの重要文化財建造物は解体して取り出した瓦や柱などを可能な限り使って元通りにしなければならない。
さらに難題なのは石垣だ。崩落した石垣はもちろん、変形した石垣も、すべて地震の前の状態に積み直す必要がある。崩落時に割れた石は貼り合わせて使う。再使用が無理な石は新しい石に差し替えるが、形は崩落した石と寸分違わぬように加工する。再び大きな地震が来ても石垣が崩れないように、崩落の原因を究明する必要もある。
熊本地震では全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの石垣が被災し、このうち8200平方メートルで石垣が崩落したが、天守閣の復旧工事に伴って積み直した石垣は740平方メートルにすぎない。積み直しが必要な石は一説には10万個を超える。

1列の隅石が櫓を支え、「奇跡の一本石垣」が有名になった飯田丸五階櫓はすでに解体されているが、石垣の積み直しは今年度から始まる。戌亥櫓は地震から5年たった今も「一本石垣」の状態が続き、今年度からようやく建造物の解体・保存工事に着手する。
重要文化財の宇土櫓の復旧も難航が予想される。建物は傾き、外壁の漆喰が落ちるなど大きな被害が出たが、より深刻なのは櫓が立つ巨大な高石垣に「孕み(膨らみ)」が出ていることだ。

加藤清正(『肖像』国立国会図書館蔵)
西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価
熊本城が全国有数の「石垣の城」になったのは、城を築いた加藤清正(1562~1611)が鉄壁の守りを目指したためとされる。城内に120以上の井戸を掘り、食料になる銀杏の木を植え、土塀にかんぴょう、畳の芯に芋茎を埋め込んで籠城戦に備えていた、という逸話は有名だが、高い石垣に「武者返し」と呼ばれる反りをつけ、攻め込んでくる敵を撃退するため、城の出入り口(虎口)から箱形の石垣(桝形)を幾重にも並べたことこそ、「難攻不落の城を造る」という清正の築城方針の表れだろう。

城を攻める薩摩軍と守る鎮台軍(『鹿児島の賊軍 熊本城激戦図』国立国会図書館蔵)
結局、江戸時代に熊本城が攻められることはなかったが、その真価は明治10年(1877)の西南戦争で発揮される。当時熊本鎮台が置かれていた熊本城は1万3000の薩摩軍の総攻撃を受けたが、薩軍は城の一角に取り付くこともできなかった。敗れた薩軍総大将の西郷隆盛(1828~77)は鹿児島で自害する直前に「わしは官軍ではなく、清正公に負けたのだ」と言ったという話がある。
ちなみに、天守は薩軍総攻撃の2日前に火災で全焼している。火事の原因については諸説あるが、最近は鎮台軍側が薩軍の大砲の的になるのを避けるために焼き払ったという説が有力だ。籠城した鎮台軍が頼みにしたのは天守ではなく、石垣だったのかもしれない。
薩軍が熊本城の攻略に失敗したことで西南戦争の勝敗は決した。軍にその記憶が残ったことは、その後の熊本城の帰趨にも大きな影響を与えることになる。熊本城は明治以降、3度にわたって廃城の危機を迎えているが、いずれも軍が城を守っているのだ。
元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も
西南戦争の7年前の明治3年(1870)、熊本藩知事となった細川護久(1839~93)は、中央政府に熊本城の廃棄を願い出て許可されている。藩政改革を進めていた護久にとって、維持費がかかる熊本城は無用の長物だった。最後のお別れということで、一般庶民に城を公開する「御城拝見」まで行われている。
それが一転して存続となったのは、翌年に城内に鎮西鎮台が置かれ、陸軍が管理することになったためだ。天守などの建造物も軍の管理下に入り、外部から手出しができなくなった。その2年後には廃城令が出され、全国の多くの城の天守や櫓が取り壊されたが、熊本城は破却を免れた。
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