今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

近代最初と最後の詔が示す戦前の神話国家

 終戦から78年が経過した。一般的な日本の時代区分では、明治維新から終戦の日までは「近代」、その後は「現代」に分けられる。3年8か月の「戦中」を加えた「戦前」は77年だから、今年で「戦後=現代」は「戦前=近代」より長くなった。

 

『戦前の正体』の帯には東征でナガスネヒコと戦う神武天皇

 近現代史研究者の辻田真佐憲さんは、近著『「戦前」の正体』で、その大枠を示そうと試みている。戦前には、「日本はこうあるべきだ」という大きな枠組み、つまり「物語」があった。破局と悲劇に終わったこの物語は失敗だったが、戦前の失敗した物語を批判的に整理し、それに代わる新たな物語を創出して上書きする作業は十分に行われていない。

 辻田さんは、戦前の物語を上書きする物語が出てこないことが、「戦前の物語がいつまでたってもきわめて中途半端なかたちで立ちあらわれてくる」(『戦前の正体』)一因となっているという。では、その辻田さんは「戦前の物語」とはどんなものだったと考えているのか。

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玉音放送から消えた「国体」の要

 辻田さんは前掲書の中で、大日本帝国を「神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家」と位置づけている。つまり、「戦前の物語」は、神武天皇による日本創業(神武創業)を中心とする日本神話だったというのだ。その痕跡は、近代の初めと終わりに出された2つのみことのりを巡る逸話に残っている。

 近代の終わりを告げたのは、昭和天皇(1901~89)が78年前、玉音放送で読み上げた「終戦の詔」だが、神話国家の痕跡はその草案に残っていた。詔の草案には、有名な「え難きを堪え、忍び難きを忍び……」のくだりのすぐ後に、「神器を奉じてなんじ臣民と共に在り」という文言があったのだ。

 「神器」とは 八咫鏡やたのかがみ草薙剣くさなぎのつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま三種の神器のことだ。天孫降臨の際にアマテラス(天照大神あまてらすおおみかみ )がニニギ(瓊瓊杵尊ににぎのみこと)に授けて以来、歴代天皇が引き継ぎ、天皇が神の子孫であり、万世一系であることを示す。日本という国のかたち、すなわち「国体」のかなめだった。

 実際に読み上げられた詔からは「神器を奉じて」は消されている。文書の起案にあたった内閣書記官長の迫水久常(1902~77)の回想によると、当時の閣僚から「こんなことを書くと、連合国が天皇の神秘的な力の源泉が神器にあると考え、神器に関心を持ってしまうのではないか」という声が出たためだという。

  戦争終結二関スル詔書案(国立公文書館蔵)。草案には「神器ヲ奉ジ」とある

 「神器を奉じて」が削除されたのは、「敗戦で国体が崩壊すれば、神器を守る意味がなくなるから」ではなかった。むしろその逆、敗戦後も国体を維持するために、神器の存在を連合軍から隠そうとしたわけだ。

王政復古の大号令案に加えられた「神武創業」

 もうひとつの詔は、江戸幕府の廃止と明治新政府の樹立を宣言した近代初の詔である、慶応3年(1868年)の王政復古の大号令だ。この詔には、当初案にはなかった「神武創業」という文言が最終案で加わっている。

 「明治天皇(1852~1912)は、諸事、神武創業の時代にもとづき、出自や階級に関係なく、適切な議論を尽くして国民と苦楽をともにするお覚悟だ。みなもこれまでのおごった怠惰で汚れた風習を洗い流し、天皇と国家のため努めなさい」

 大号令は、大政奉還以降も政治の中心に居座ろうとした徳川慶喜(1837~1913)の排除を狙って出された。だから武家中心の政治体制を「 旧来驕惰きゅうらいきょうだの汚習」と厳しく批判し、天皇が統治するかつての日本に戻ると宣言したわけだが、武家社会を否定するだけなら、神武創業の昔にまで遡る必要はない。事実、詔を起草した岩倉具視(1825~83)は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(1288~1339)の建武の新政に遡ることを想定していた。

    

王政復古の詔。「神武創業」の言葉は岩倉具視の原案にはなかった(国立公文書館蔵)

 それをさらに遡って「神武創業に戻る」よう助言したのは、岩倉の知恵袋といわれた国学者玉松たままつみさお(1810~72)だった。辻田さんは、「神武天皇は神話上の人物で、実像はだれも知らない。知らないからこそ使い勝手がよかった」という。神武天皇は現実とかけ離れた神話上の存在で、実在していたのかも含めて誰も何も知らない。だからこそ、近代化、西洋化を目指す政策も「神武創業に戻る。原点回帰だ」といえば反論は難しい。玉松は「神武創業」は近代化政策の万能のキーワードになり得ると考えた。

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サザン『盆ギリ恋歌』の歌詞にみる「お盆」と「反体制」の考察

 デビュー45周年を迎えたサザンオールスターズが、45周年を記念した三部作の配信を始めた。7月17日にリリースされたのがその第一弾が『盆ギリ恋歌』だ。

  • サザンならでは?「攻めた歌詞」
  • 歌詞が参考にしているのは『五木の子守唄』 
  • 故郷のエネルギーを示す歌
  • 盆は日ごろの抑圧から抜け出せる日
  • 「風紀を乱す」政府が禁止した盆踊り
  • 込められた反体制のメッセージ
  • 「禁止」の踊り、世界文化遺産

サザンならでは?「攻めた歌詞」

 ファンキーでエキゾチックな曲だが、歌詞に「ヤバない?怖ない?正気かい?」と思った人も少なくないのではないか。桑田佳祐さん作詞の歌詞は、ただの「夏ソング」ではない。かなり攻めている。

  

盆ギリ盆ギリ 夏は盆ギリ ヨロシク Hold Me Tight

盆ギリ盆ギリ 今は亡き人と 素敵な Lovely Night

ギンギラギンギラ 踊る女と 男の曼陀羅まんだらえ

シッポリシッポリ 好きなあの子と 故郷ふるさと帰りゃんせ

ヤバない?怖ない?正気かい? 姿は見えねぇけど

誰もがやってるよ~ みんなに内緒だよ~

ちょいと老若男女が熱い魂で 『Rocking On』で Show!!

もう一度死ぬまで 踊り明かすのさ Uh Uh

ほいで 呑めや歌えの迎え送り火 うたげは Oh What A Night!!

遠い…夏の…恋でした

 

盆ギリ盆ギリ おどま盆ギリ ヨロシクHold Me Tight

ほんにゃらほんにゃら 祇園精舎ぎおんしょうじゃは魅惑のHoly Night

ぼんぼりぼんぼり 『牡丹燈籠ぼたんどうろう』がパーティーになっちゃって

Don’t Worry Don’t Worry 般若波羅蜜はんにゃはらみつ 冥土に Going Home

今際いまわの際で叫んだよ 「イクのはエクスタシー!!」

涙はじんじろげ 祭りだ納涼だ!!

こりゃスーパーボウルグラミー賞より 盛り上がるんで Show!!

愛倫情事に うつつ抜かすのも Uh Uh

あのサザンビーチでナンパするならヨシオんとこ(夏倶楽部)でShow!!

遠い… 夏の… 夢でした

ちょいと危険な夢だったよ

 

ちょいと 老若男女が熱い魂で 『Rocking On』で Show!!

夜空の花火で 海がきらめいた Uh Uh

ほいで 呑めや歌えの迎え送り火 Stairway To Heaven!!

遠い…夏の…恋でした

熱い…恋の…物語

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本栖湖の水中遺跡 土器が語る富士大噴火

 富士北麓の夏の喧騒けんそうが過ぎた後、富士五湖のひとつ、本栖湖の湖底で学術調査が始まる。帝京大学文化財研究所(山梨県笛吹市)と富士河口湖町身延町教育委員会が、最新の探査技術を使って「謎の水中遺跡」を探るのだ。今回は、調査を前に、この水中遺跡についての話だ。

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ダイバーが見つけた古墳時代の土器

 本栖湖は全国でも有数の透明度を誇り、湖底に沈木や巨大な溶岩が眠る神秘的な風景が広がる本栖湖は、多くのダイバーが集まるダイビングの名所になっている。

 土器を最初に見つけたのはダイバーで、平成2年(1990年)ごろから、「東側の湖底で土器をみつけた」との通報が相次いだ。当時の上九一色村(現在は南部は富士河口湖町、北部は甲府市と合併)が平成10年(1998年)から翌年にかけて湖底を調査したところ、多数の土器がみつかった。多くが古墳時代前期(5世紀前半)に作られたとみられ、縄文時代中期のものもあった。

25年前の調査で湖底から見つかった土器(富士河口湖町教育委員会提供)

樹海と西湖、精進湖を作った平安時代の富士大噴火

 富士山は貞観じょうがん6年(864年)から2年間にわたり、有史以来最大の「貞観の大噴火」を起こしている。平安時代初期に天皇の命でまとめられた勅撰ちょくせん国史日本三代実録』は、そのすさまじい被害を以下のように記している。

 「噴火の勢いはものすごく、山腹の小岡や岩を焼き砕き、草木を焼け焦がし、これらを巻き込んだ土石流(溶岩流)が本栖湖と『の海』を埋めた。熱した溶岩流が流れ込んだ両湖の水は沸騰して湯のようになり、生息する魚類は死に絶え、溶岩流の通路に位置した民家は流されて湖の中に埋まり、また、埋没の難を逃れても住人が死んだりして無人となった家は数知れない」(現代語訳は『富士吉田市史』に基づく)

富士五湖と剗の海

 「剗の海」は富士北麓にあった湖で、この時の噴火で流れ込んだ大量の「青木ヶ原溶岩」によって西湖と精進湖に分断された。1000年以上を経て青木ヶ原溶岩の上に生えた原生林が、今の青木ヶ原樹海だ。本栖湖にも溶岩が流れ込んだことは地質調査でも裏付けられており、湖岸にある 上野原かみのはら遺跡では、固まった溶岩流の下から平安時代の土器が出土している。

富士北麓に広がる青木ヶ原樹海

平安時代の噴火で古墳時代の土器が沈んだワケ

 湖底から見つかった土器は平安時代より300年以上前のもので、貞観の大噴火とは無関係にも見える。だが、この水中遺跡の調査に長年携わってきた富士河口湖町教育委員会学芸員の杉本悠樹さんは、水中遺跡は貞観の大噴火によって生じたとみている。

 これまでのレーザー波を使った調査で、貞観の大噴火によって本栖湖の水位は約15メートルもも上がったことがわかっている。水中遺跡の水深は最大15メートル。土器は溶岩流の直撃を受けず、本栖湖の水位が上昇して集落もろとも水没したのではないか。

 本栖湖に流れ込んだ溶岩は湖を埋めるほどではなかったにもかかわらず、水位が15メートルも上がった理由は、今も精進湖、西湖と本栖湖の水位が連動して上下し、ほぼ同じなことから推測がつく。大量の溶岩に押しやられた剗の海の湖水が、溶岩を浸透したり、三つの湖を結ぶ地下の水路を通ったりして徐々に本栖湖に流れ込んだのだろう。本栖湖の水位は一気に15メートル上がったのではなく、徐々に上がったとすれば、湖底の土器が衝撃を受けず、原形をとどめている理由も説明できる。

なぜ本栖湖の湖畔に土器があったのか

 本栖湖の湖畔には、静岡と甲府を結ぶ「中道往還」が通っていた。往還甲府盆地への入り口にあたる曽根丘陵には、古墳時代前期では東日本最大級の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳(山梨県甲府市下曽根町)があり、古墳からは三角縁神獣鏡や鉄剣など、ヤマト王権とのつながりを示す副葬品が出土している。甲府盆地ヤマト王権の勢力圏の東端に位置し、中道往還は畿内と東国の最前線を結ぶ重要な幹線路だった。

若彦路の河口湖以南ルートには諸説あり

 「本栖湖の湖底から見つかった台付き甕は、本栖が西日本から甲府盆地への文化の 伝播を支える中継地だったことを示している。ヤマト王権は要所に集落を設けて中道往還を維持・管理し、本栖湖畔はそのひとつだったのではないか」と杉本さんは推測する。

被災しても「元の巣」に帰る村人

 本栖湖の南側には「竜ヶ岳 」という山がある。地元の伝説では、湖に住んでいた竜が、流れ込んだ溶岩の熱に耐えかねて、この山に逃げ込んだという。竜は富士山が噴火する前に本栖湖畔の村に現れ、村人に噴火を警告した。竜のお告げで避難して命拾いした村人たちは、竜を「古根ふるね 龍神」と あがめるようになった。

  「本栖」の名前の由来は、村人たちが、噴火で被災した「元の巣」に戻って暮らす決意をしたことにちなむという伝承もある。

 本栖湖の湖底には龍神伝説を裏付けるような、富士山の噴火と背中合わせに暮らした人々のたくましい歴史が刻まれている。

 

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「神君伊賀越え」は大和経由? 甲賀・伊賀越えの可能性も

 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変織田信長(1534~82)が明智光秀(?~1582)の謀反で命を落とす。信長の招きで安土、京、堺を訪れていた徳川家康(1542~1616)は、命をかけた逃避行で領国の三河(愛知県)へと逃げ帰る。三河一向一揆三方ヶ原の合戦とともに家康の3大危機のひとつとされる「神君伊賀越え」である。

 だが、有名な事件なのにもかかわらず、伊賀越えのルートには諸説あり、謎が多い。富山市郷土博物館主査学芸員萩原はぎはら大輔さんは、家康は通説とは異なるルートを通ったと推測している。

 萩原さんといえば、加賀藩兵学者だった関屋政春(1615~85)が戦国時代の逸話を書き残した『 乙夜之いつやの書物かきもの 』を研究し、2年前に「光秀は変の当日、本能寺の現場にいなかった」という新説を発表して話題になった。『乙夜之書物』は家康の伊賀越えをどう伝えているのか、萩原さんにインタビューで解説してもらった。

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  • 大和越えは宇治田原までか
  • 家康は甲賀越えをしたのか?
  • 服部党の活躍や本多正信の救援は後世の創作か
  • 穴山信君の殺害、家康犯人説も

大和越えは宇治田原までか

 詳しくはインタビューをお読みいただきたいが、萩原さんの説は竹内峠から大和に入り、山城(京都府)、近江(滋賀県)経由で宇治田原に入るルートで、通説通りの伊賀越えルートとは異なる。

 しかし、宇治田原から先は通説の伊賀越えと同じで、いわば「大和経由伊賀越え」といえるものだ。高見峠を越え、伊賀越えをほぼ完全に否定する「大和越え」説もあるが、萩原さんはこの説には同意していない。

 その一方で萩原さんは、小川城から柘植までを信楽経由で大回りする「甲賀越え」も完全に排除していない。このルートでも柘植から先は伊賀を通るが、伊賀より甲賀(近江)の方が距離はずっと長くなる。

 このルートは3説ある「伊賀越え」のルートのひとつで、宇治田原より前に大和を経由しても、経由しなくても、家康が通った可能性はゼロではない。「大和経由伊賀越え」は「大和経由甲賀・伊賀越え」と呼ぶのが正確だったかもしれないわけだ。

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吉野ヶ里遺跡 石棺墓の「朱」と邪馬台国のつながり

 佐賀県神埼市吉野ヶ里町にまたがる吉野ヶ里遺跡(国指定特別史跡)で、弥生時代後期の有力者の墓の可能性がある石棺墓せっかんぼが見つかり、覆っていた4枚の石蓋を外して内部の調査が行われた。

  

 残念ながら遺骨や埋葬品は出土しなかったが、佐賀県の山口祥義よしのり知事は「調査の結果、石棺墓は邪馬台国やまたいこくの時代の有力者の墓と裏付けられた」と発表した。調査の意義などについて、「しゅ」をキーワードに考察した。

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「有力者の墓」決め手になった赤色顔料

 今回の調査地点は神社があったためにこれまで調査されていなかった「謎のエリア」で、神社が昨年移転したことから県が調査を進め、今年4月に石棺墓(長さ約192センチ、幅約35センチ)を発見した。

 遺跡内からはこれまでに18基の石棺墓が見つかっているが、今回調査された石棺墓は墓坑ぼこうが大きく、見晴らしのよい丘に単独で埋葬され、石蓋には線刻があった。通常の墓とは異なる特徴から、集落を統治した首長の墓の可能性があるとみられていた。

 遺骨や副葬品が出土しなかったにもかかわらず、県が「邪馬台国時代の有力者の墓だった」と発表した決め手の一つは「赤色顔料」だった。墓の内部を埋めていた土をすべて取り除いたところ、墓の底部などから赤色顔料の痕跡が見つかり、内部全体が朱に塗られていたことが確認されたのだ。

魏志倭人伝が記す「朱」の記録

 邪馬台国は、赤色顔料すなわち「朱」と密接な関係があり、歴史や神話に関する著述活動をしている蒲池明弘さんは『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)で、邪馬台国は朱と密接な関係があり、所在地は朱の産地だったのではないか、との仮説を展開している。

 邪馬台国について記した『魏志倭人伝は、「日本の山には丹(朱)あり」「朱丹を もってその体に塗る」と記している。火山国である日本には各地に朱の産地があり、当時の倭人魔除まよけのために顔や体に朱を塗ったり、朱の入れ墨(文身)を入れたりしていたという。

日本の中でも火山が多い九州には西部と南部に二つの鉱床群があり、小さな産地も含めると、ほぼ全域で朱の採掘が行われていたという。『魏志倭人伝によると、倭国は魏に対し、生口せいこう(奴隷)や弓矢、綿布などとともに「丹」を献上したという記録がある。蒲池さんはさらに踏み込んで、邪馬台国は朱などの鉱物資源を中国に輸出していたのではないか、と推測している。

伊都国は朱の輸出拠点か

 倭人伝の記述などからは、当時、九州では邪馬台国を頂点とする「クニ」(都市国家)連合があったこともうかがえるが、その中では 伊都いと国(現在の福岡県糸島市)の繁栄が目立っていた。伊都国は九州各地から産出した朱などの輸出基地があったのかもしれないという。

 だとすると、朱は魔除けや防腐剤としてだけでなく、富を持つ権力者の象徴とみてもいいことになる。糸島市の平原古墳、福岡県みやま市(旧山門やまと郡)の藤の尾垣添遺跡、熊本県和水町なごみまちの江田船山古墳など、九州北部の遺跡や古墳からは、朱の墓や朱が付着した土器などが出土している。吉野ヶ里遺跡でも出土した甕棺の内部から朱が見つかっている。

九州には50を超える候補地

 邪馬台国の所在地をめぐっては、畿内説と九州説が長年にわたって対立してきた。九州には50を超える邪馬台国の候補地があり、畿内説を唱える学者からは「まず九州予選で有力候補を絞り込んでくれないと議論にならない」という皮肉めいた声も出ているが、九州ではほぼ全域から朱が産出しているから、候補地が多くなるのも無理はないのかもしれない。

畿内」「九州」論争は江戸時代から

 邪馬台国の場所を巡る「畿内説」と「九州説」対立の歴史は長い。研究の先駆者だった江戸中期の儒学者新井白石(1657~1725)は当初は大和(奈良県)説を唱えていたが、のちに筑後国山門郡に自説を変えている。

内藤湖南(左)と白鳥庫吉国立国会図書館蔵)

 明治時代末期には大和説を唱える京大の内藤湖南こなん(1866~1934)と九州説を主張する東大の白鳥庫吉くらきち (1865~1942)という2人の東洋史学の大家が、京大と東大のメンツをかけた論争を繰り広げた。

「行程論争」は決め手にならず

 魏志倭人伝が邪馬台国に至るまでの行程について、二つの説があることを教科書で見た人も多いだろう。畿内説は朝鮮半島から直線的に連続して読み、九州説は伊都国から先の行程を同国を起点に放射線式に読む。

                                  筆者作成

 畿内説では伊都国から先を直線的に読み、「南行」は「東行」の誤りとする。九州説に基づいて放射線式に読むと、「南水行(船で南に)20日」かかる投馬国が「南水行10日」で着く邪馬台国より遠くなってしまうが、放射線式に読まなければ邪馬台国の位置は九州から大きくはみ出てしまうから、矛盾を承知で読まざるを得ない。どちらの読み方にも問題があり、邪馬台国の所在地の決め手にはならない。

大和にもあった朱の墓

 朱との関係に着目すれば、一大産地だった九州説に軍配が上がるかといえば、そうはならない。奈良県から三重県伊勢地方にかけても東西に広がる「大和鉱床群」があり、邪馬台国の有力候補とされる奈良県桜井市は、その中心にある。3世紀後半の築造とみられる桜井茶臼山古墳桜井市外山とび)の石室は、これまでの古墳発掘調査で最も多い推定200キロ以上の朱で覆われていたことがわかっている。大和鉱床群は九州の鉱床群より広がりはないが、産出量はむしろ九州より豊富だったとみられている。

纏向遺跡居住地跡

 桜井市纏向まきむく遺跡には、卑弥呼の王宮跡ともいわれる大型建造物の痕跡が残るエリアや、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳もあり、築造時期も卑弥呼の時代に近いとみられる。箸墓は宮内庁が管理していて考古学調査が行われていないが、もし発掘調査が行われれば、茶臼山古墳を上回る朱が出土するかもしれない。

吉野ヶ里邪馬台国の邪農政は残ったが…

 今回の石棺墓の調査で、邪馬台国の時代の有力者の墓が確認されたことで、吉野ヶ里邪馬台国の都だった可能性は残った。だが、そもそも邪馬台国の所在地は朱だけでは決められないことはいうまでもない。今回の調査結果がただちに邪馬台国論争に大きな影響を与えることはないだろう。

石棺墓の線刻は「夏の夜空」か

 最後に朱の話から外れて、7月4日のNHKクローズアップ現代」で放送された興味深い話を紹介しておく。石棺墓は3枚の石の蓋で覆われていたのだが、その後の調査で3枚の石はもともとは1枚で、蓋に刻まれた線刻は夏の夜空を表しているのではないか、というのだ。

 線刻の「✕」は夏空の主な星の位置と一致し、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)を分かつ「天の川」や、天の川の中心を貫く暗黒帯も再現されているという。線刻は死者を封じる魔除けの意味があるとされるが、仮説を唱えた東海大学の北條芳隆教授は「天の川を天と地を結ぶ何か懸け橋のような形で、死生観と絡めていた可能性があるのではないか」と話している。

 

  

 まだ4割近く残っているという謎のエリアの調査は今後も続く。邪馬台国がどこにあろうと、吉野ヶ里がかき立てる古代のロマンが消えることはない。

※7月4日の「クローズアップ現代」放送を受けて加筆しました。

 

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なぜ今、世界で『五輪書』が読まれているのか

 日本最強の剣豪といえば、多くの人が宮本武蔵(1584?~1645)の名前を挙げるのではないか。江戸時代初期、60戦無敗の戦績を誇った武蔵は、世界で最も知られた日本人のひとりで、晩年に剣術の奥義をまとめた『五輪書ごりんのしょ』は海外のビジネスマンの愛読書になっている。

 海外のビジネスマンは武蔵の剣術から何を学び、なぜ武蔵を師とするのか。野田派二天一流師範だった父の遺志を継いで『五輪書』の解説書を出版した女性実業家の大浦敬子さんに、『五輪書』から知るビジネスの極意について語ってもらった。

大浦さんと近著『超訳 五輪書 強運に選ばれる人になる』

読売新聞オンラインのコラム本文

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巌流島の武蔵像(左)

5巻で構成された武蔵の剣術の奥義

 インタビューは全文公開されているので、コラム本文をお読みいただきたい。『五輪書』は地、水、火、風、空の5巻で構成されているが、この意味も大浦さんがコラム本文で語っている。

 大浦さんの「超訳」によるいそれぞれの巻のポイントもまとめてある。地と水の巻のポイントを再録しておく。残りの巻のポイントはコラム本文に記載している。

いずれも大浦さんの著書から作成

なぜオリンピックが「五輪」なのか

 「オリンピック」をなぜ「五輪」と言い換えるようになったのか。最初にこの和訳を思いついたのは元読売新聞運動部記者の川本信正(1907~96)といわれている。『昭和史探訪3』によると、ベルリン大会の開会日前日の昭和11年(1936年)7月31日に開かれたIOC総会で、昭和15年(1940年)の開催地が東京に決まった。これから「オリンピック」報道は増えることが予想されたが、表記に6字を費やしてしまう。なんとか略せないか。

考案者がたまたま読んだ菊池寛の随筆に…

 川本は「国際運動」と書いてオリンピックとルビを振ったり、「国際運競」という言葉をひねり出すなど試行錯誤の末に、五つの輪がオリンピックのシンボルマークであること、たまたま当時読んでいた菊池寛(1888~1948)の随筆に武蔵の『五輪書』があったことから「五輪大会」はどうかと思いついた。

 五輪と「オリン」の語呂の類似性も定着した一因といわれている。オリンピックの意味で「五輪」の見出しが初めて使われたのは同年8月6日付社会面の「五輪の聖火」だという。

 武蔵とオリンピックのつながりについては、嘉納治五郎(1860~1938)の功績も交えて以前に紹介している。こちらもお読みいただきたい。

 日本最強の剣豪の教えはさまざまに解釈されているが、今の日本では熱心に読まれているとは言えない。とっつきにくいという人は、まずは大浦さんの「超訳」から読んでみてはどうだろう。

 

 

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『どうする家康』で退場の信玄 終焉の地は駒場ではない?

 松本潤さんが徳川家康(1542~1616)を演じるNHK大河ドラマ『どうする家康』第19回(5月21日放送)で、阿部寛さんが演じる武田信玄(1521~73)が病死した。ドラマでは信玄終焉の地は「信州(現在の長野県)駒場こまんば」とテロップで紹介されたが、信玄がどこで病死したかについては以前から諸説ある。

甲府駅前の信玄像

ようやく三河野田城を落としたが…

 元亀3年(1572年)、三方ヶ原の合戦で大勝した信玄は堀江城を攻め、祝田ほうだに近い刑部おさかべ一帯で年を越す。

 だが、そこから信玄の西上のペースは急に遅くなる。刑部で越年した時には、すでに信玄の健康状態はかなり悪化していたとみられる。甲府進発を半年遅らせて強行した西上作戦で、上洛まで信玄が命を永らえるかどうかはもともと疑問だった。

 元亀4年(1573年)2月10日にようやく野田城を落とした信玄は、さらに西上する構えを見せつつ長篠城に入って養生したが、病状は悪化するばかりだった。野田城攻めの最中に夜な夜な敵が籠る城内から流れる笛の音色に聞きほれて、陣中から出たところを鉄砲に撃たれ、その傷が元で死亡したという俗説は明らかに後世の創作だ。

 作戦を中止して本国の甲斐(現在の山梨県)に引き揚げる途中に死去。死因は「肺肝」とされ、今でいう肺結核か、胃か肺のがんだった、とされている。

『どうする家康』第17回~19回の解説はこちらも

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