今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞調査研究本部  丸山淳一

感染症にかかった為政者はどう動いたか

 コロナ禍が一向に収まらない。菅首相は7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせる方針だが、ワクチン供給の遅れや予約システムの不備などの不手際が相次ぎ、内閣支持率は低迷が続いている。

 国会議員がパーティーを開いたり、夜の会合に出席したりした事実が発覚するたびに「自粛をお願いしておきながら、なぜ自分は守らないのか」という批判の声が上がる。国民に自粛を求め、ワクチンを行き渡らせることを最優先すべき立場にいる人が、自粛を迫られ、ワクチン接種を望む国民のことを本当に最優先に考えているのか、「統治者としてのモラル」が問われている。

 過去の感染症の大流行で、対策の陣頭指揮に立った為政者はどのように動いたのか。特に注目したいのは、自身や親族が感染症にかかった統治者の行動だ。自ら感染症の恐怖に直面した時こそ、為政者のモラルが試されると思う。

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  •  麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼
  • 「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」
  •  天然痘ワクチンを後押しした藩主
  • 原敬にインフル感染の後遺症?
  • 国民の不安を取り除く努力を

 麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼

 鎌倉幕府5代執権の北条時頼(1227~63)は建長8年(1256)、麻疹(はしか)と赤痢にかかっている。一時は陰陽師おんみょうじが死者をよみがえらせる秘術を施す「泰山府君たいざんふくんさい」まで行われるほど重篤な状況に陥った。当時、麻疹は赤斑瘡あかもがさと呼ばれ、感染力が強力で致死率が高い深刻な病だった。

 死を悟った時頼は、執権職や邸宅を義兄に譲って、その翌日に出家した。だが、出家後に病は癒えた。回復した時頼は、粗末な格好に身をやつして諸国を遍歴し、民の救済に努めたという「廻国かいこく伝説」がある。水戸黄門のような話だが、「いざ鎌倉」の語源となった能の演目「鉢木はちのき」の話は特に有名だ。

 上野こうずけ群馬県)の佐野で大雪にあって立ち往生した時頼は民家に泊めてもらう。家の主人は僧が時頼とは知らぬまま、まきが尽きると大切にしていた梅と桜と松の鉢の木を火にくべて時頼をもてなす。主人は「今は領地を横領されて落ちぶれているが、鎌倉で事変があれば誰より先に駆けつける」と語る。後に時頼は関東八州の武士に召集をかけ、約束通り鎌倉に駆け付けた主人の領地を回復させた上に、梅、桜、松の鉢植えにちなんで加賀国(石川県)梅田庄、越中国富山県)桜井庄、上野国松井田庄に新たな領地を与えたという。

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鉢の木を薪にしようとする主人(左)を見つめる時頼(右)(『芳年武者无類 相模守北条最明寺入道時頼』 国立国会図書館蔵)

「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」

 時頼は北条氏に敵対する三浦氏を滅ぼす(宝治合戦)など北条本家の勢力拡大に努め、病で執権を退いてからも幕府の実権を握り続けて、本家の当主(得宗)の専制政治を始めたとされる。麻疹や赤痢への感染は出家の口実に過ぎないという見方もあり、諸国遍歴も実際にはしていないとみられる。

 では、なぜこんな美談が残っているのか。それは、時頼が建長5年(1253)に民を労われと命じた「撫民ぶみん令」や、農民から田畑を取り上げることを禁じるなどの農民保護策をとったからだろう。

 時頼は「酒は害がある」として「一屋一壺制」で酒の醸造量を制限し、自らも台所の味噌みそだけをさかなに質素な「家飲み」をしていたという。家飲みは質素倹約のためで感染対策ではないが、感染症飢饉ききんで民が苦しんでいるときにぜいたくはできないと考えたのは史実とみられる。

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台所の味噌で酒盛りをする時頼(菊池容斎前賢故実国立国会図書館蔵)

 鎌倉時代御家人救済策として有名な徳政令については以前にも取り上げたが、撫民令は徳政令より前に出されている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「時頼の撫民政策は荒くれ者・収奪者だった武士が、民衆の利益を優先する統治者へと変化した意識改革の重要な転機だった」と評価している。

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謎だらけ 聖徳太子の肖像画

 2021年は聖徳太子厩戸皇子うまやどのおうじ、574~622)の1400回忌にあたる。奈良の世界遺産法隆寺では4月3日から5日まで、100年に1度の節目となる遠忌おんき法要が行われた。

 聖徳太子はひと昔前まで、間違いなく日本で最も有名な歴史上の人物だった。何しろ昭和5年(1930)の百円札以降、昭和59年(1984)に1万円札の顔を福沢諭吉(1835~1901)に譲るまで7度も紙幣の顔になった。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は終戦後、「軍国主義を象徴している」として、戦前の紙幣の肖像を次々に使用禁止にしたが、聖徳太子だけは生き残った。日本銀行総裁だった一万田いちまだ尚登ひさと(1893~1984)が、「太子は十七条憲法の第一条で『和をって貴しとなす』を掲げた平和主義者だ」とGHQを説き伏せたためといわれる。

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 これほど有名な肖像画だが、この人物が本当に太子なのかどうか、いつ、どんな経緯で、誰を描いたのかは、実は解明されていない。その謎に迫った大阪大学名誉教授・武田佐知子さんの『信仰の王権 聖徳太子』をテキストに、その経緯をたどってみた。

 早くから言われた「絵の作者は日本人ではない」

 紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は、しゃくを持ち帯刀して立つ太子、その左に弟の殖栗皇子えぐりのみこ(生没年不明)、右に長男の山背大兄王ましろのおおえのおう(?~643)を描いたとされる。眉などの描き方から、8世紀半ばの奈良時代に描かれたというのが通説になっている。太子の死より100年以上後の作ということになるが、想像や回想を交えた肖像画はほかにもたくさんある。これだけで太子とは別人とはいえない。

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聖徳太子二王子像(摸本『聖徳太子伝』国立国会図書館蔵)

 だが、肖像画が太子本人かどうか疑問を抱かざるを得ない別の由来がある。絵の作者は日本人ではないとする由来が二つも残っており、この肖像画には唐本とうほん御影みえい」「阿佐太子あさたいし御影」という二つの異名があるのだ。

 「唐本」とは「唐(古代中国)の人」のこと、「阿佐太子」は百済くだら(古代朝鮮の国)の王族の画家の名前だ。阿佐太子は日本に仏教を伝えた聖明王(?~554)の子孫で、『日本書紀』には推古天皇5年(597)に来日したと記されている。

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四天王寺所蔵の聖徳太子像(模写、国立国会図書館蔵)

 なぜ異国の作者が太子の肖像を描いたのか。平安時代の学者、大江親通おおえのちかみち(?~1151)はその疑問を率直に文書に残している。仏教美術の研究家でもあった親通は、保延6年(1140)に法隆寺の宝蔵にあった聖徳太子像を拝観した感想を『七大寺巡礼私記』にこう記している。

 「太子の俗形ぞくぎょうの御影一舗。くだんの御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし」

 衣装に陰影をつける画風や、本人の両脇に二人が並ぶ構図は唐のもので、俗人姿の太子の衣装は日本のものとは思えない。寺側は唐人が描いたからだと説明するが、ならばなぜ太子を描いたのか、ならばなぜ絵が唐ではなく、法隆寺にあるのか。不可思議だ。これは改めて詳しく見なければならないぞ――。

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天守閣復旧の熊本城 復旧はこれからが正念場

      

 2016年の熊本地震で傷んだ熊本城天守閣の復旧工事が完了した。5年前に熊本地震に遭遇した筆者にはうれしいニュースだ。だが、復旧工事が完了したのは天守閣と重要文化財長塀ながべいだけで、熊本城全体の復旧はまだ2割程度しか終わっていないとされる。

 復旧がすべて完了するのは2037年度の予定。まだ16年以上先のことだ。完全復旧がいかに気の遠くなるような作業かについては以前にも触れたが、熊本地震から5年の節目にあわせ、改めてまとめた。

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  •  気が遠くなるような石垣の積み直し 
  • 西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価
  •  元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も
  •  明治熊本地震からの復旧、裏に2人の巨頭 
  •  宇土櫓を倒壊から救った昭和の解体修理

 気が遠くなるような石垣の積み直し 

 天守閣は昭和35年(1960)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート建造物で、重要文化財ではないから早く復旧できた。しかし、やぐらなどの重要文化財建造物は解体して取り出した瓦や柱などを可能な限り使って元通りにしなければならない。

 さらに難題なのは石垣だ。崩落した石垣はもちろん、変形した石垣も、すべて地震の前の状態に積み直す必要がある。崩落時に割れた石は貼り合わせて使う。再使用が無理な石は新しい石に差し替えるが、形は崩落した石と寸分違わぬように加工する。再び大きな地震が来ても石垣が崩れないように、崩落の原因を究明する必要もある。

 熊本地震では全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの石垣が被災し、このうち8200平方メートルで石垣が崩落したが、天守閣の復旧工事に伴って積み直した石垣は740平方メートルにすぎない。積み直しが必要な石は一説には10万個を超える。

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 1列の隅石すみいしが櫓を支え、「奇跡の一本石垣」が有名になった飯田丸五階櫓はすでに解体されているが、石垣の積み直しは今年度から始まる。戌亥櫓いぬいやぐら地震から5年たった今も「一本石垣」の状態が続き、今年度からようやく建造物の解体・保存工事に着手する。

 重要文化財宇土うと櫓の復旧も難航が予想される。建物は傾き、外壁の漆喰しっくいが落ちるなど大きな被害が出たが、より深刻なのは櫓が立つ巨大な高石垣に「はらみ(膨らみ)」が出ていることだ。

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加藤清正(『肖像』国立国会図書館蔵)

西南戦争で発揮された「難攻不落」の真価

  熊本城が全国有数の「石垣の城」になったのは、城を築いた加藤清正(1562~1611)が鉄壁の守りを目指したためとされる。城内に120以上の井戸を掘り、食料になる銀杏の木を植え、土塀にかんぴょう、畳の芯に芋茎ずいきを埋め込んで籠城戦に備えていた、という逸話は有名だが、高い石垣に「武者返し」と呼ばれるりをつけ、攻め込んでくる敵を撃退するため、城の出入り口(虎口)から箱形の石垣(桝形ますがた)を幾重にも並べたことこそ、「難攻不落の城を造る」という清正の築城方針の表れだろう。

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城を攻める薩摩軍と守る鎮台軍(『鹿児島の賊軍 熊本城激戦図』国立国会図書館蔵)

 結局、江戸時代に熊本城が攻められることはなかったが、その真価は明治10年(1877)の西南戦争で発揮される。当時熊本鎮台が置かれていた熊本城は1万3000の薩摩軍の総攻撃を受けたが、薩軍は城の一角に取り付くこともできなかった。敗れた薩軍総大将の西郷隆盛(1828~77)は鹿児島で自害する直前に「わしは官軍ではなく、清正公に負けたのだ」と言ったという話がある。

 ちなみに、天守薩軍総攻撃の2日前に火災で全焼している。火事の原因については諸説あるが、最近は鎮台軍側が薩軍の大砲の的になるのを避けるために焼き払ったという説が有力だ。籠城した鎮台軍が頼みにしたのは天守ではなく、石垣だったのかもしれない。

 薩軍が熊本城の攻略に失敗したことで西南戦争の勝敗は決した。軍にその記憶が残ったことは、その後の熊本城の帰趨きすうにも大きな影響を与えることになる。熊本城は明治以降、3度にわたって廃城の危機を迎えているが、いずれも軍が城を守っているのだ。

 元藩主が廃城を申請、「さよなら熊本城」特別公開も

 西南戦争の7年前の明治3年(1870)、熊本藩知事となった細川護久(1839~93)は、中央政府に熊本城の廃棄を願い出て許可されている。藩政改革を進めていた護久にとって、維持費がかかる熊本城は無用の長物だった。最後のお別れということで、一般庶民に城を公開する「御城拝見」まで行われている

 それが一転して存続となったのは、翌年に城内に鎮西鎮台が置かれ、陸軍が管理することになったためだ。天守などの建造物も軍の管理下に入り、外部から手出しができなくなった。その2年後には廃城令が出され、全国の多くの城の天守や櫓が取り壊されたが、熊本城は破却を免れた。

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川中島の合戦で捏造された「戦いに勝った証し」とは

 コロナ禍が長期化し、全国各地のお祭りやイベントの多くが延期や中止、縮小を余儀なくされている。戦国武将、武田信玄(1521~73)の命日(4月12日)にあわせて開催される山梨の春の風物詩、甲府市の「信玄公祭り」も10月下旬に延期された。信玄の好敵手、上杉謙信(1530~78)の地元、越後・春日山新潟県上越市)で毎年8月下旬に開かれている「謙信公祭けんしんこうさい」は縮小され、川中島に出陣する越後軍団の武者行列などは2年続けて行われない予定だという。

 残念だが仕方ない。今年は信玄の生誕500年という節目の年だけに、節目の祭りは命日より誕生日(11月3日)にあわせて行う方がふさわしいかもしれない。

  • 史料によって大きく異なる合戦の記録 
  • 一騎打ちは原野で?川の中で?
  •  上杉方の合戦記は誰が書いたのか
  • 紀州藩の軍師がなぜ上杉の軍記を書いたのか
  •  『甲陽軍鑑』の写しを手に出奔、定行の子孫名乗る
  • 頼宣は本当に勝興に騙されたのか

史料によって大きく異なる合戦の記録 

 信玄と謙信が信濃北部の領有権を巡って激突した川中島の合戦は、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで12年にわたって続いたといわれる。特に永禄4年(1561)の合戦は最大の激戦となり、信玄も謙信も合戦直後から自軍の勝利を喧伝けんでんしている。負けを認めたとたんに求心力を失う戦国武将として当然の振る舞いではあるが、勝者がはっきりしないもうひとつの理由について取り上げた。

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 互いに「勝った」というだけならよくある話ともいえる。しかし、主な戦いだけで5回あったとされる川中島の合戦については、武田方の史料『甲陽軍鑑』と上杉方の史料『川中島五箇度合戦記』(『合戦記』)の時期や経緯がことごとく異なっている。f:id:maru4049:20210812231518j:plain

一騎打ちは原野で?川の中で?

 『甲陽軍鑑』は「啄木鳥きつつきの戦法」や「車懸くるまがかりの戦法」を永禄4年の第4回合戦での出来事とするが、『合戦記』では第3回合戦の出来事となっている。最大の違いは信玄と謙信の一騎打ちで、『甲陽軍鑑』では第4回合戦に八幡原はちまんぱらで行われ、信玄が軍配で謙信の太刀を受け止めるが、『合戦記』では第2回合戦のシーンとされ、信玄と謙信は御幣川おんべがわの中で、ともに馬上で太刀を交わしたことになっている。

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信玄・謙信の一騎打ちを描いた錦絵の陸上版(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

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信玄・謙信の一騎打ちを描いた錦絵の水中版(『大日本歴史錦絵』国立国会図書館蔵)

 『合戦記』はわざわざ「一騎打ちが第4回合戦で行われたという甲陽軍鑑の記述は誤りだ」と記しているから、どうやら『合戦記』は先に世に出た『甲陽軍鑑』を読んで書かれたようなのだが、両雄が一騎打ちをした可能性がある最大の激戦は、『甲陽軍鑑』が記す通り、第4回合戦だったことはほぼ間違いない。なぜ『合戦記』は虚偽とみられる経緯を強調したのだろう。

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鎖国下で進められた人類初ワクチンの接種

 先進国ではワクチン接種が遅れたところに、感染の第4波がやってきた。ワクチンについては副反応を懸念して接種しない人もいるが、効き目を信じている人も打つワクチンがなければどうしようもない。こんな状況で東京五輪が本当に開催できるのか、疑問を持つ人は少なくない。

 しかし、日本はかつて、鎖国下の正確な情報が乏しい中で、人類初のワクチンとなった天然痘ワクチン(痘瘡)をものすごいスピードで拡げたことがある。今回は江戸時代にあったワクチン接種プロジェクトの話を取り上げた。

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  •  人類初のワクチンを鎖国下で拡散
  • 牛痘より前から始まっていた人痘
  •  届いていたワクチン開発のニュース 
  • バタビアルートでついに到着
  • 漢方医らの“抵抗勢力”にもめげず
  • コロナワクチン接種は遅れているが…

 人類初のワクチンを鎖国下で拡散

  天然痘はWHO(世界保健機関)が1980年、全世界で撲滅されたと宣言した唯一の感染症だ。ワクチンは1796年、イギリスでエドワード・ジェンナー(1749~1823)が雌牛からとった牛痘ぎゅうとうを使って開発した。このワクチンは人類が初めて手にしたワクチンで、「ワクチン」の語源がラテン語のvacca(ワッカ=雌牛)なのは、初のワクチンが牛痘から開発されたためだ。

 ウシから取った痘苗をヒトに接種するのだから、欧米でも当初、抵抗があったのは当然だろう。ジェンナーの論文は最初は英国の学会(王立協会)でも相手にされず、効果があるとわかってからも「接種すると角が生え、牛になる」といううわさが広がった。

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1802年に描かれたアメリカの天然痘ワクチン接種の風刺画(米議会図書館蔵)

 欧米ですらこんな調子だったのだから、日本ではさぞ普及に時間がかかっただろうと思いきや、意外にも日本の対応は早かった。長崎に外国製の痘苗が上陸したのjは嘉永2年(1849)のことだが、この時日本ははまだ鎖国をしていたにもかかわらず、上陸したその年に痘苗は江戸まで広がっている。

 開国の5年前、明治維新より20年近くも前に、欧米でさえ進まなかったワクチン接種を進めたのは、緒方洪庵(1810~63)を中心とする民間蘭学者のネットワークだった。

牛痘より前から始まっていた人痘

 天然痘の有効な治療法はなかったが、死を免れると二度かかることはほとんどないことは古くから知られていた。寛政2年(1790)には秋月藩(福岡県)の藩医、緒方春朔しゅんさく(1748~1810)が、ジェンナーより6年も早く、清(中国)から伝えられた「患者のかさぶたを鼻から吸う」方法で日本初のワクチン接種を行ったとされる。

 ジェンナーの牛痘ワクチンはほとんど無毒なのに対し、人のウイルス(人痘)を使う春朔の方法は、天然痘にかかった人のウイルスをそのまま使う危険な方法だった。だが、のちに牛痘を普及させる洪庵も、牛痘を手に入れるまでは人痘を使っている。牛痘より前に免疫の有効性が実証されていたことが、早期のワクチン普及を後押ししたといえる。

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ジェンナー(左、『中外医事新報』)と緒方春朔(右、『医学先哲肖像集』)
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貞観津波と「末の松山」が物語る震災忘却の歴史

 マグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)から10年がたつ。今年も「3・11」には、新聞もテレビも「あの巨大地震を忘れてはならない」と特集記事や特番を組む。あの悲劇を思い出したくないと思う人もいるだろうが、やはり、これは続けなければならない。人間は忘れる生き物なのだ。

 それは、10年前の地震に匹敵する超巨大地震だったとみられる貞観じょうがん11年(869)5月26日夜に発生した貞観地震の伝承でもうかがい知ることができる。コラム本文では、貞観地震の教訓を歌枕にした和歌に注目し、地震の記憶が人々からいつごろ、どのように消えていったかを紹介した。

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  •  津波が決して届かない届かない「末の松山」
  •  元歌の特異点から浮かび上がるのは
  • 貞観地震の詳しい状況、朝廷に残らず
  • 地震はまた必ずやってくる

 津波が決して届かない届かない「末の松山」

 貞観地震による大津波で仙台平野はほぼ一面が冠水したが、国府多賀城の宝国寺にある末の松山(宮城県多賀城市八幡)には届かなかった。「末の松山」は「決して波が越えることがない地」として、好んで和歌に詠まれる言葉(歌枕)となった。

 最も有名なのは、小倉百人一首にも選ばれた清原元輔きよはらのもとすけ(908~990)が詠んだ『後拾遺ごしゅうい和歌集』にある歌だろう。元輔は『枕草子』の作者、清少納言(966?~1025?)の父で三十六歌仙のひとりという高名な歌人だ。

 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
 (私たちは心変わりすることはないと約束したのに。お互いの着物の袖が涙で絞れるくらいらして、末の松山を波が越えることはないのと同じように)

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百人一首の絵札に描かれた元輔

 この歌には、元になったと思われる歌がある。『古今和歌集』に収められた陸奥の詠み人知らずの歌だ。

 君をおきて あだし心をわが持たば 末の松山 波も越えなむ
 (あなたを差し置いて、他の人への浮気心を持つようなら、末の松山を波が越えてしまうでしょう)

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『青天を衝け』渋沢栄一のすごさを知る三つのポイント

 「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一(1840~1931)を吉沢亮さんが演じるNHK大河ドラマ『青天を衝け』が始まった。渋沢は3年後には福沢諭吉(1835~1901)に代わって1万円札の顔になる。

 波乱万丈の人生は、大河ドラマの主人公にふさわしい。天保から昭和まで11もの元号を生き抜いた栄一は、幕末には尊王攘夷運動に傾倒し、明治維新を軌道に乗せ、大正時代には関東大震災からの復興に尽くし、昭和には国際協調にも尽力して、2度もノーベル平和賞の候補になった。言論を通じて日本の近代化を進めた福沢の思想を、実務面から形にしたのは渋沢だ。福沢の後の1万円札の顔としても最適任だろう。

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 今回のコラムは『青天を衝け』のガイドブックのつもりで書いたが、渋沢の生涯については自叙伝を含め、多くの記録が残っている。エピソードが多い一方で創作がしにくいわけで、大河ドラマがどこまで史実に忠実に描くのかも楽しみにしている。

栄一成功の3つのポイント(1)相手の懐に飛び込む

 渋沢は倒幕の火付け役になろうと高崎城(群馬県)を乗っ取って横浜を焼き討ちする計画を立てるが、直前に取りやめる。横浜では外国人は見つけ次第斬る計画だったから、これは今なら立派なテロだ。

 計画を直前に取りやめたのはいとこの尾高長七郎(1836~68)から「うまくいくはずがない」と止められたからだが、栄一はすでに150両も使って武具などを買いそろえていた。普通なら取りやめずに決行するところだ。いとこの反対を無視していたら、その後の栄一の活躍はなかった。

 テロ計画の発覚を恐れて京都に逃げた栄一は、かつて江戸で知り合った一橋慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)に会いに行き、平岡の計らいで一橋家に仕える。慶喜が将軍になると、渋沢も幕臣に取り立てられる。京都では身を潜めるどころか、面識がなかった西郷隆盛(1828~77)にも会って同じ鍋をつついている。

 渋沢は、自分の間違いに気づいたら、すっぱりと方針を変える柔軟さを持っていた。自ら相手の懐に飛び込み、「人の話をよく聞く」ことができたからだろう。

栄一成功の3つのポイント(2)官尊民卑を嫌う

 栄一は京都で江戸遊学中に知り合った一橋慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)が京にいると知って平岡を訪ね、平岡の計らいで一橋家に仕える。慶喜が将軍に就任すると栄一も幕臣となり、パリで開かれる万国博覧会に将軍の名代として派遣された慶喜実弟徳川昭武(1853~1910)に随行することになった。

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欧州滞在中の徳川昭武一行(国立国会図書館蔵)

 それまで攘夷を主張してきた栄一が、随行を嫌がるどころか大喜びでフランスに渡ったのも、何にでも好奇心を抱いて取り込もうとする柔軟性の現れだろう。欧州で乗った鉄道や、目にした新聞、流通する紙幣を見て、これは便利だと思ったことが、後の鉄道や製紙会社の設立につながった。

 栄一が欧州にいる間に、日本では慶喜が朝廷に大政を奉還し、滞在費用の送金が途絶えたが、栄一はすでに滞在費用の一部でフランス鉄道債と公債を買って利益を得ていたため、滞在資金には困らなかった。

多くの人から金を集めて経済発展の元手にする「間接金融」のすべを知ったことは、のちの銀行や証券取引所の設立につながる。

 栄一が設立した東京株式取引所(今の東京証券取引所の母体)が開業した明治11年(1878)年5月時点で上場していたのは公債だけで、株式はゼロだった。明治新政府が官業創出の資金を求め、民間の株式会社がまだ数少なかったことが主因だろうが、欧州での自らの経験が、まず公債からという考えにつながったのかもしれない。

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東京株式取引所(国立国会図書館蔵)

 最も大きな収穫は、役人と商人の間に分け隔てがないことを知ったことだろう。日本では金もうけは卑しいこととされていたのに、欧州ではフランス皇帝が産業振興に熱心で、役人と商人が上下の区別なく相談している。渋沢はのちに「この風習だけは日本に移したいと深く感じた」(『竜門雑誌』)と記している。

 帰国後に渋沢は大蔵省(現・財務省)の有力者、井上かおる(1836~1915)の補佐役に抜擢ばってきされ、廃藩置県や郵便制度の導入、紙幣の発行などにあたる。国立銀行条例をつくったのも、「金行」か「銀行」か迷ったあげく、「銀行」という言葉をつくったのも渋沢だ。政府内部の意見対立で大蔵省を退官すると、まず渋沢の条例で設立された第一国立銀行の総監(頭取の監督役)に就任し、次に文明の基となる抄紙しょうし会社(王子製紙)を設立する。フランスで官尊民卑の愚を知り、自ら民間に活躍の場を移して日本の近代化に必要な順に会社をつくる――。500社もの会社を設立し、600にのぼる公共事業を進めたのは、「人の意見を聞く」「分け隔てしない」という経営哲学の実践でもあった。

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明治5年ごろの栄一(右から3人目、国立国会図書館蔵)

栄一成功の3つのポイント(3)利をひとり占めしない

 だが、第一国立銀行を手始めに続々と会社を設立していく渋沢に、競争相手が現れる。三菱グループの初代総帥、岩崎弥太郎(1835~85)だ。渋沢と岩崎の経営哲学や事業戦略は水と油ほどに異なっていた。

 人の話を聞き、分け隔てをしない渋沢は、多くの人から資金を集めてひとつにし、大きな事業を行う元手にする「合本がっぽん主義」を経営哲学に掲げていた。出資者を束ねるには「完全かつ強固な道理」が要るとして、「道徳と経済の合一」も説いている。

 これに対して岩崎は、「そんなやり方では迅速な経営判断はできない。三菱の事業は岩崎家単独の事業であり、経営判断や人事はすべて社長がひとりで決める」というのが経営哲学で、独裁と独占による利益を目指し、政界にも露骨に接近した。両者は経済的にも激しく対立し、泥沼の買収合戦に発展するのだが、その経緯はコラム本文に詳しく記したのでお読みいただきたい

読売新聞オンラインのコラム本文

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 渋沢が合本主義を曲げなかったのは、利益をひとり占めせずに多くの人を会社経営に巻き込むことで、経済発展を担う人材を育成する狙いもあったのだろう。76歳で実業界引退の声明を出し、すっぱりと後進に道を譲ったのも、「利をひとり占めせず、独裁者にはならない」という信念に基づいた決断だったと思う。

「資本主義の父」は今の市場をどう見るか

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渋沢の地元ではアンドロイドの渋沢が講義をする(画像提供・深谷市

 大河ドラマで渋沢が再注目される中、コロナ禍で経済が落ち込んでいるにもかかわらず、日経平均株価が30年ぶりに一時、3万円の大台を超えた。異次元金融緩和の株買いによって日本銀行が主要企業の大株主に名を連ね、市場は富めるものをさらに富ませる格差拡大の場と化している、との指摘がある。「株主が多いと経営の自由度が奪われる。もはや市場で資金を集める必要もない」と、上場廃止を選択する企業も少なくない。

 資本主義の父は、あの世で首をかしげつつ、自分の方がもはや古いのだ、と納得しようとしているのではないか。だが、戦略は古くなっても、信条は古くなっていないはずだ。人のいうことに耳を傾け、上下の分け隔てなく知恵を出し合っているか、損得ばかりに気を取られ、会社や組織で働く社会的な意義を忘れていないか、折にふれて考えるのは大切なことだ。

 

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