今につながる日本史+α

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読売新聞調査研究本部  丸山淳一

鎖国下で進められた人類初ワクチンの接種

 先進国ではワクチン接種が遅れたところに、感染の第4波がやってきた。ワクチンについては副反応を懸念して接種しない人もいるが、効き目を信じている人も打つワクチンがなければどうしようもない。こんな状況で東京五輪が本当に開催できるのか、疑問を持つ人は少なくない。

 しかし、日本はかつて、鎖国下の正確な情報が乏しい中で、人類初のワクチンとなった天然痘ワクチン(痘瘡)をものすごいスピードで拡げたことがある。今回は江戸時代にあったワクチン接種プロジェクトの話を取り上げた。

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 人類初のワクチンを鎖国下で拡散

  天然痘はWHO(世界保健機関)が1980年、全世界で撲滅されたと宣言した唯一の感染症だ。ワクチンは1796年、イギリスでエドワード・ジェンナー(1749~1823)が雌牛からとった牛痘ぎゅうとうを使って開発した。このワクチンは人類が初めて手にしたワクチンで、「ワクチン」の語源がラテン語のvacca(ワッカ=雌牛)なのは、初のワクチンが牛痘から開発されたためだ。

 ウシから取った痘苗をヒトに接種するのだから、欧米でも当初、抵抗があったのは当然だろう。ジェンナーの論文は最初は英国の学会(王立協会)でも相手にされず、効果があるとわかってからも「接種すると角が生え、牛になる」といううわさが広がった。

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1802年に描かれたアメリカの天然痘ワクチン接種の風刺画(米議会図書館蔵)

 欧米ですらこんな調子だったのだから、日本ではさぞ普及に時間がかかっただろうと思いきや、意外にも日本の対応は早かった。長崎に外国製の痘苗が上陸したのjは嘉永2年(1849)のことだが、この時日本ははまだ鎖国をしていたにもかかわらず、上陸したその年に痘苗は江戸まで広がっている。

 開国の5年前、明治維新より20年近くも前に、欧米でさえ進まなかったワクチン接種を進めたのは、緒方洪庵(1810~63)を中心とする民間蘭学者のネットワークだった。

牛痘より前から始まっていた人痘

 天然痘の有効な治療法はなかったが、死を免れると二度かかることはほとんどないことは古くから知られていた。寛政2年(1790)には秋月藩(福岡県)の藩医、緒方春朔しゅんさく(1748~1810)が、ジェンナーより6年も早く、清(中国)から伝えられた「患者のかさぶたを鼻から吸う」方法で日本初のワクチン接種を行ったとされる。

 ジェンナーの牛痘ワクチンはほとんど無毒なのに対し、人のウイルス(人痘)を使う春朔の方法は、天然痘にかかった人のウイルスをそのまま使う危険な方法だった。だが、のちに牛痘を普及させる洪庵も、牛痘を手に入れるまでは人痘を使っている。牛痘より前に免疫の有効性が実証されていたことが、早期のワクチン普及を後押ししたといえる。

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ジェンナー(左、『中外医事新報』)と緒方春朔(右、『医学先哲肖像集』)

届いていたワクチン開発のニュース 

 ジェンナーの牛痘に関する情報は、実際に痘苗が入るよりかなり前から日本にもたらされていた。ジェンナーがワクチンに関する最初の論文を出してからわずか4年後の享和2年(1802)、長崎で通訳をしていた馬場佐十郎(1787~1822)が、オランダ長崎商館でワクチン開発のニュースを聞いている。イギリス王立協会はまだジェンナーの論文を異端視して受け付けていなかったが、馬場はその重要性をすぐに理解し、追加の情報とワクチンの種がもたらされるのを心待ちにしたという。

 しかし、肝心のワクチンの種(牛痘の痘苗)は届かなかった。欧州から船で数か月かけて運ばれるうちに苗が死んでしまうのだ。長崎にオランダ商館医として日本に赴任したシーボルト(1796~1866)も文政6年(1823)、オランダから持ち込んだ痘苗を使って接種を試みたが、失敗している。

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シーボルト(左、『伊東玄朴伝』)と中川五郎治(右、『函館市功労者小伝』)

 しかし、実は痘苗やその製造法に関する情報は、オランダーー長崎ルートとは別に、ロシア経由で、もっと早くから日本に入っていた。シーボルトが種痘に失敗した翌年には、中川五郎治(1768~1848)が箱館で種痘を行ったという記録がある。中川はもともと択捉えとろふ島の番人で、ロシアとの紛争(文化露寇ろこう)に巻き込まれて捕虜としてシベリアに連行され、そこで種痘を学んでいた。

 中川は種痘術を秘伝としたため普及しなかったが、捕虜交換交渉の通訳として松前に派遣された馬場は、文化⒑年(1813)に中川がロシアから持ち帰った牛痘の解説書を写し、江戸に持ち帰って邦訳まで完了させている。

 安芸(広島県)の船乗りだった久蔵(1787~1853)も、漂着したロシアで保護され、牛痘接種の手伝いをして接種方法を身につけ、中川の種痘より10年以上前に種痘器具と痘苗を広島に持ち帰っている。広島藩の尋問を受けた久蔵は種痘の有効性を切々と訴えたが、藩は久蔵のいうことを理解できず、没収された痘苗は藩の倉庫の中で死んでしまった。

 また、紀伊和歌山県)の医師、小山肆成しせい(1807~62)は清の医学書をヒントに、嘉永2年に国産初の天然痘ワクチンの開発に成功したとされる。小山は私財を投げうって市場で牛痘に罹患りかんした牛を探し出し、作ったワクチンを妻に接種して安全性を確認している。だが、結局国産ワクチンは近所の子どもに接種されただけで、全国に広がることはなかった。

バタビアルートでついに到着

 ワクチンの情報は届いていたが、肝心の痘苗が手に入らない、という状況がようやく解消したのは嘉永2年のことだった。シーボルトの高弟だった佐賀藩藩医楢林宗建ならばやしそうけん(1802~52)がオランダ商館に働きかけ、ジャワ(オランダ領バタビア)から、有効な痘苗の輸入に成功したからだ。楢林は「瓶詰めの痘漿(液体)ではなく、乾いた痂で輸入してほしい」と提案したことが奏功した。

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楢林宗建(『楢林宗建先生小伝』)と笠原良策(福井市立郷土歴史博物館蔵)

 痘苗は洪庵の適塾で学んだ蘭学者のネットワークに乗って、1年もたたないうちに萩、京都、大坂、福井、名古屋から江戸へと伝えられた。福井藩の医師、笠原良策(1809~80)は、肩に痘苗を持つ子どもとともに、豪雪を踏み分けて栃ノ木峠を越え、京都から福井へ10日をかけて福井城下に痘苗をもたらした。

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子どもから子どもへと痘苗を引き継ぐ(『新訂痘種竒法』国立国会図書館蔵)

 痘苗は輸送の途中で効力を失わないように、蘭学者が連れてきた子どもの肩に種痘し肩の痘苗を子どもごと次の中継地に運ぶ方式がとられた。協力者が見つからない時は、蘭学者本人や親族が接種を受け、身をもって安全性をPRした。

 財政的な支援だけでなく、大切な後継ぎに種痘を受けさせた大名もいたが、幕府は、むしろ蘭学者たちの抑圧に回る。接種が本格化した嘉永2年、老中の阿部正弘(1819~57)は蘭方(医学)禁止令を出し、外科などを除いたオランダ医学を学ぶことを禁じたのだ。

漢方医らの“抵抗勢力”にもめげず

 阿部は禁止令を出す前に、蘭方医の請願を受けて長崎奉行に痘苗の輸入斡旋あっせんを命じており、種痘を阻むのは本意ではなかったようだ。にもかかわらず蘭方禁止令を出した背景には、既得権益を侵されると危機感を抱いた江戸などの漢方医の圧力があった。

 接種が続かないと人から人に牛痘を受け継げず、痘苗が途絶えてしまう。蘭方医側は牛痘の効果を強調するビラ(引札)を配って種痘を呼びかけ、必死に痘苗を守った。 種痘の効果が上がり始めると、漢方医の抵抗も弱まっていくが、漢方医の拠点「医学所」がある江戸での種痘はなかなか進まなかった。神田お玉ヶ池に種痘所を開設できたのは、蘭方禁止令が解除された安政5年(1858年)のことだった。

コロナワクチン接種は遅れているが…

 ほかにも蘭学者ネットワークはさまざま知恵を絞って種痘を江戸で広め、さらに東北、北海道(松前)へと伝えていくのだが、その苦心談はコラム本文をお読みいただきたい。

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 ワクチンを海外からの輸入に頼る点などは、今も昔と変わらない。接種が医療従事者から始まっているのは、新型コロナ患者に接する機会が多いという理由以外に、医師自身が率先して接種をPRする意味もあるという。昔の蘭学者のように、率先して感染症と闘う多くの医療従事者に改めて感謝したい。

 今のところは遅れが目立つ新型コロナワクチン接種だが、何とか最終的には後世の教科書に「2021年のワクチン接種はよく準備され、迅速に行われた」と記されるようになればと思う。

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貞観津波と「末の松山」が物語る震災忘却の歴史

 マグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)から10年がたつ。今年も「3・11」には、新聞もテレビも「あの巨大地震を忘れてはならない」と特集記事や特番を組む。あの悲劇を思い出したくないと思う人もいるだろうが、やはり、これは続けなければならない。人間は忘れる生き物なのだ。

 それは、10年前の地震に匹敵する超巨大地震だったとみられる貞観じょうがん11年(869)5月26日夜に発生した貞観地震の伝承でもうかがい知ることができる。コラム本文では、貞観地震の教訓を歌枕にした和歌に注目し、地震の記憶が人々からいつごろ、どのように消えていったかを紹介した。

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  •  津波が決して届かない届かない「末の松山」
  •  元歌の特異点から浮かび上がるのは
  • 貞観地震の詳しい状況、朝廷に残らず
  • 地震はまた必ずやってくる

 津波が決して届かない届かない「末の松山」

 貞観地震による大津波で仙台平野はほぼ一面が冠水したが、国府多賀城の宝国寺にある末の松山(宮城県多賀城市八幡)には届かなかった。「末の松山」は「決して波が越えることがない地」として、好んで和歌に詠まれる言葉(歌枕)となった。

 最も有名なのは、小倉百人一首にも選ばれた清原元輔きよはらのもとすけ(908~990)が詠んだ『後拾遺ごしゅうい和歌集』にある歌だろう。元輔は『枕草子』の作者、清少納言(966?~1025?)の父で三十六歌仙のひとりという高名な歌人だ。

 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは
 (私たちは心変わりすることはないと約束したのに。お互いの着物の袖が涙で絞れるくらいらして、末の松山を波が越えることはないのと同じように)

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百人一首の絵札に描かれた元輔

 この歌には、元になったと思われる歌がある。『古今和歌集』に収められた陸奥の詠み人知らずの歌だ。

 君をおきて あだし心をわが持たば 末の松山 波も越えなむ
 (あなたを差し置いて、他の人への浮気心を持つようなら、末の松山を波が越えてしまうでしょう)

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『青天を衝け』渋沢栄一のすごさを知る三つのポイント

  

  「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一(1840~1931)を吉沢亮さんが演じるNHK大河ドラマ『青天を衝け』が始まった。渋沢は3年後には福沢諭吉(1835~1901)に代わって1万円札の顔になる。

 波乱万丈の人生は、大河ドラマの主人公にふさわしい。天保から昭和まで11もの元号を生き抜いた栄一は、幕末には尊王攘夷運動に傾倒し、明治維新を軌道に乗せ、大正時代には関東大震災からの復興に尽くし、昭和には国際協調にも尽力して、2度もノーベル平和賞の候補になった。言論を通じて日本の近代化を進めた福沢の思想を、実務面から形にしたのは渋沢だ。福沢の後の1万円札の顔としても最適任だろう。

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 今回のコラムは『青天を衝け』のガイドブックのつもりで書いたが、渋沢の生涯については自叙伝を含め、多くの記録が残っている。エピソードが多い一方で創作がしにくいわけで、大河ドラマがどこまで史実に忠実に描くのかも楽しみにしている。

  • 栄一成功の3つのポイント(1)相手の懐に飛び込む
  •  栄一成功の3つのポイント(2)官尊民卑を嫌う
  • 栄一成功の3つのポイント(3)利を独り占めしない 
  • 栄一の精神を忘れた?今の日本経済

栄一成功の3つのポイント(1)相手の懐に飛び込む

 渋沢は倒幕の火付け役になろうと高崎城(群馬県)を乗っ取って横浜を焼き討ちする計画を立てるが、直前に取りやめる。横浜では外国人は見つけ次第斬る計画だったから、これは今なら立派なテロだ。

 計画を直前に取りやめたのはいとこの尾高長七郎(1836~68)から「うまくいくはずがない」と止められたからだが、栄一はすでに150両も使って武具などを買いそろえていた。普通なら取りやめずに決行するところだ。いとこの反対を無視していたら、その後の栄一の活躍はなかった。

 テロ計画の発覚を恐れて京都に逃げた栄一は、かつて江戸で知り合った一橋慶喜(1837~1913)の側近、平岡円四郎(1822~64)に会いに行き、平岡の計らいで一橋家に仕える。慶喜が将軍になると、渋沢も幕臣に取り立てられる。京都では身を潜めるどころか、面識がなかった西郷隆盛(1828~77)にも会って同じ鍋をつついている。

 渋沢は、自分の間違いに気づいたら、すっぱりと方針を変える柔軟さを持っていた。自ら相手の懐に飛び込み、「人の話をよく聞く」ことができたからだろう。

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明治5年ごろの栄一(右から3人目、国立国会図書館蔵)

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『麒麟がくる』本能寺の変の今の学説は?

 大河ドラマ麒麟がくる』が完結した。天正10年(1582)6月2日、織田家重臣明智光秀(?~1582)が主君の織田信長(1534~82)を襲ったこのクーデターは、光秀の動機を巡る論争が続き、「戦国最大のミステリー」と言われる。

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 真相究明はどこまで進んでいるのか。最新の研究では、変の首謀者は、ドラマではあまり目立たなかった須賀すが貴匡たかまささんが演じた光秀の家老、斎藤利三としみつ(1534~82)だとみられている。

光秀は本能寺にいなかった?

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斎藤利三月岡芳年『月百姿』国立国会図書館蔵)

 最新の研究といえば、富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔さんが「光秀は変の当日、本能寺の現場にはいなかった」とする説をまとめて話題になっているが、利三はこの説にも深い関係がある。

 萩原さんは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する『乙夜之書物いつやのかきもの』という書物に、変の当日、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」という記述があることに注目した。

 『乙夜之書物』が書かれたのは本能寺の変から87年も後で、これだけ時間が空いた記録には後世の脚色や創作が入り込むため、信ぴょう性は低いとされる。だが、この話は変に従軍した利三の三男、斎藤利宗(1567~1647)が、加賀藩士だったおいに語った内容だ。利三に近い人物の証言だからこそ、ここまで注目されているわけだ。

 過去の大河ドラマでも『麒麟が来る』でも、光秀は例外なく本能寺に行き、距離は近くはないが、信長に面と向かって口上を述べるシーンもあった。そのせいか、私も光秀は本能寺に行ったことには何の疑いも持たなかった。だが、言われてみれば、信ぴょう性が高いとされる史料に「光秀は本能寺にいた」とはっきり書かれたものはない。

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 だが、では鳥羽で決まりかというと、それにも疑問がある。光秀が控えたという「鳥羽」(京都市伏見区)は、当時の本能寺(今の本能寺の位置ではない)から8キロ近く離れている。丹波亀山城から山陰道を進んで京都に入った光秀は、七条大路から七条堀川を右折して本能寺と逆の方向に布陣したことになり、ちょっと不自然だ。 

山崎の戦いまで本陣は鳥羽南殿付近か

 光秀は山崎の戦いの2日前の同年6月11日、下鳥羽の鳥羽離宮南殿なんでん伏見区中島鳥羽離宮町)付近に布陣したという記録がある。「利宗が本能寺と山崎の戦いの記憶を混同していたのでは」という声もある。

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はたして本能寺に光秀はいたのか(『新書太閤記国立国会図書館蔵)

 この点について萩原さんは「鳥羽に布陣したのは万一信長を討ちもらした際に、信長が大坂にいた三男、織田信孝(1558~83)のもとに逃走するのを阻もうとしたのでは。鳥羽は交通の要衝ようしょうで、兵力を機動的に動かしやすい。光秀は本能寺の変から山崎の戦いまで、ずっと軍の主力を鳥羽においていたかもしれない」と話す。

 「光秀は桂川を渡ったところで全軍に本能寺襲撃を告げた」という史料もある。光秀軍の主力は七条大路に入らず、桂川の川岸から南東の鳥羽に向かい、本能寺に向ったのは利三隊など一部だけだったというシナリオもありうる。

 

利三が直面していた2つの大問題

 この時、大坂に信孝がいた理由にも、利三が深く関わっている。利三は本能寺の変の直前に「四国問題」と「切腹命令」という2つ問題に直面していた。

 「四国問題」とは、信長の四国統治の方針が急に変わり、四国の長宗我部元親ちょうそかべもとちか(1539~99)とのパイプ役だった光秀が窮地に陥ったというものだ。光秀が取次役になったのは、利三が元親の親戚(小舅)こじゅうとだったためだ。

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長宗我部元親(『絵本太閤記国立国会図書館蔵)

 本能寺の変が起きた時に信孝が大坂にいたのは、変の翌日の6月3日、四国攻めのために渡海するためだった。つまり、本能寺の変は長宗我部氏との衝突を阻止するためだった可能性があるということだ。

 「切腹命令」とは、『稲葉家譜』などにある話で、天正10年、光秀と稲葉一鉄(1515~89)が稲葉家の家老だった那波なわ直治なおはるを奪い合って訴訟沙汰になり、直治の引き抜きに加担した利三が信長から切腹を命じられた問題だ。結局、信長の側近がとりなして信長も切腹命令は取り消したが、「直治は稲葉家に戻せ」という命令が出たことは史料で確認できる。その日付は天正10年5月27日。当時の暦では5月は29日までしかないから、本能寺の変のわずか4日前ということになる。

 このころ、安土城で信長が光秀を足蹴にしたという話があり、それは以前にもこのコラムで紹介した(こちら)。利三に対する切腹命令は取り消されたが、光秀の敗訴は明らかで、利三も無罪放免ではなかったはずだ。

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亀山城址に立つ光秀像

光秀は追い詰められていた

 徳川家の史料『当代記』によると、この時光秀は「利三を隠した(かくまった)」という。6月1日、利三は外部から丹波亀山城に入り、そこから光秀らとともに本能寺に向かっているが、亀山城で利三の顔を見た光秀はたいそう喜んだという。光秀は信長の命令を無視して利三をかくまっていたとすれば、見つかれば光秀も処罰される可能性がある。光秀は追い詰められていた。

伏線を回収しきれなかった

 「四国問題」の詳しい経緯はコラム本文に記したのでお読みいただきたい。『麒麟がくる』の感想もコラム本文にあるので重複は避ける。

読売新聞オンラインのコラム本文

www.yomiuri.co.jp

 「非道阻止説」をベースにしたのはドラマとしては理解できるし、そうでなければ光秀は視聴者に勇気や希望は与えられない。だが、「四国問題」も「切腹命令」も、せっかく伏線(切腹命令の方は利三をめぐるトラブルだったが)を張っておきながら、回収しきれなかった。やはり終盤の「尺」不足が残念だった。本能寺の変を扱った大河ドラマで「四国問題」を扱ったのは初めてだというから、それだけでも画期的とはいえるのだが。

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『麒麟がくる』本能寺のトリガーは家康?は大外れだったが…

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織田信長

 麒麟がくる』最終回の本能寺の変については、ドラマの結末を見てからもう一度書く、と前回のコラムに記したが、公表された最終回の粗筋を読んで言っておきたいことができた。本能寺のトリガーは家康暗殺指令になる恐れがあるが、それはないと思う。

  気になる「究極の命令」の内容

 15分延長で描かれる最終回のあらすじは以下の通りだ。

 「宿敵・武田家を打ち滅ぼした戦勝祝いの席で、光秀は信長から理不尽な叱責を受け、饗応役の任を解かれる。追い打ちをかけるように信長は、光秀と縁深い四国の長宗我部征伐に相談もなしに乗り出すと告げる。『殿は戦の度に変わってしまった』と、その行き過ぎた態度をいさめる光秀に、『己を変えたのは戦ではなく光秀自身だ』と信長は冷たく言い放つ。そしてついに、ある究極の命令を光秀に突き付ける――。」

 気になるのは最後の「究極の命令」だ。すでに謀反に傾いている明智光秀(?~1582)を本能寺の変に走らせる、とても呑めない命令であることは間違いない。

  前のコラムで、光秀が織田信長(1534~82)を月に昇る「桂男」に見たてているのは、本能寺の変と暦との関係を描くつもりではないかと考え、信長が朝廷の大権だった暦の制定にも介入しようとしていたことを紹介した。しかし、暦の改変工作を光秀に命じたというのだけでは、謀反の理由としては弱い。暦の改変を信長の「非道」のひとつとしても、その改変工作を命じたくらいでは究極の命令とはいわないだろう。

史実に従うなら斎藤利三への切腹命令

 本能寺の変直前に信長が光秀に出したと伝わる中で信ぴょう性が高いとみられているのは、主君を稲葉氏から光秀に鞍替えした斎藤利三(1534~82)に対する「切腹命令」だ。直接これを裏付ける証拠はないが、利三とともに光秀に引き抜かれた稲葉家の家臣、那波直治については、信長が「法に背く」として稲葉氏に返すよう裁定した書状が残っている。この時期に稲葉家と光秀が家臣をめぐって揉めていたのは間違いない。

 最終回には長曾我部元親(1539~99)も登場するというから、謀反の理由には「四国説」の要素も加えるのだろう。利三は元親と親戚関係にある。利三が四国攻めに反対し、切腹させよと光秀に命じて光秀の堪忍袋の緒が切れる、という展開はありうるが、究極の命令というには、やはり弱い。ドラマでは利三の引き抜き問題を最初に光秀に話した時、信長は「小さい話」と言っていた。

 もうひとつ、信長が光秀に、領国の丹波、近江を召し上げて、石見、出雲への国替えを命じたという話もある。しかし、領国の再編成は「大きな国をつくる」ためには避けて通れず、光秀は領国を召し上げられて追放されるわけではない。

 では、だれもが「究極」と納得する命令は、と考えると、思い浮かぶのがドラマ終盤に光秀に急速に接近している徳川家康(1543~1616)の暗殺命令くらい残らない。

まさかの家康暗殺命令か

 家康が本能寺の変を事前に知っていたという筋書きが大河ドラマで描かれるのは初めてではない。2017年に放送された『おんな城主 直虎』でも市川海老蔵さん(『麒麟がくる』ではナレーター)が演じる信長が家康暗殺を光秀に命じる展開だった。堺にいる家康を本能寺におびき出し、光秀に襲わせるつもりが、光秀の謀反にあって殺されたという説で、光秀の子孫だという明智憲三郎氏が唱えている説だ。暗殺命令の動機は宿敵の武田氏を滅ぼし、もはや家康は用済みになったからというのだが、これはおかしい。

 信長が家康を暗殺したいなら、わざわざ本能寺におびき寄せなくても、安土の饗応の席で襲えばいい。まだ東国が安定しておらず、信長とは友好的な姿勢をとっているとはいえ、小田原には北条氏がいる。家康を殺す戦略的な理由はどこにもない。

戦略的な暗殺動機はないが…

 戦略的な動機がなければ、感情的な動機で押し通す?まさか、自分になびかない光秀を慕う家康に嫉妬したのが殺害の動機、とはすまい…と書いたところで、いや、あり得るなと思い直した。ドラマの中で信長は、宣教師からもらった洋服を贈ったり、いっしょに鼓を打とうと誘ったり、官位をあげるといったりして、光秀の気を引こうとしている。なのに光秀との溝は深まる一方で、光秀は信長になびくどころか、特段何の便宜も図っていない家康と仲良くしている。

 ひょっとして、家康を殺せば光秀は自分の方を向くだろう、という屈折した心理から家康暗殺を命じる筋書きではないか。そうなると、光秀は家康は殺さず、岡村隆史さんが演じる菊丸に「本能寺には行くな」とでもメッセージを託し、家康を逃がすのだろう。下の岡村さんのコメントは、この予想と符合する。

終盤が駆け足過ぎたのが残念だ 

 もし筆者の予想が当たっていたとしたら、飛躍が過ぎる。ドラマはフィクションだからどう描いてもいいのだが、家康暗殺命令説は学会ではほとんど支持されておらず、時代考証を担当した小和田哲男さんも著書の中で明確に否定している。現時点では「陰謀論」の類といえる。フィクションゆえの細部の創作はいいとしても、信長と家康の関係を決定的に左右する出来事を創作するのはいかがなものか。

 『麒麟がくる』は途中までは最新の学説も取り入れた骨太の大河ドラマと評価していたが、終盤になるにつれて光秀が鞆の浦に行ったり、帰蝶を上京させて「信長に毒を盛る」と言わせたり、家康が船に乗って会いにきたりという荒唐無稽な創作シーンが増えていた。

 全部で44回しかない尺不足のせいで、あわただしく伏線を張って、架空の人物やシーンを挿入して無理に回収している感がぬぐえない。最終回の台本が書きあがったのは昨年12月初めだったというから、コロナの影響もあったのだろう。ドラマの中で「信長様は焦っている」というセリフがあったが、焦っているのはドラマの方ではないか。

 もはや最終回もl撮り終えた時点でこんなことを書いても仕方ないけれど、大河ドラマはやはりホームドラマとは一線を画してほしいと思うのは、私だけだろうか。「家康暗殺命令」は、見当違いの筆者の嫌な夢であってほしいが、桂男のくだりまでは、筆者の予想はおおむね当たっている。

            ◇

 日曜日の最終回、BSの「早麒麟」と総合の「本麒麟」2回視た。上記の結果は大外れ。「義昭暗殺命令」だったとは…。このころ義昭は、身を寄せていた毛利からも疎んじられていたというし、ドラマの中では釣りしかしておらず、もはや影響力はなかったと思う。家康でなくてよかったが、これも史実とは思えず、将軍の影響力を過大評価しすぎだろう。

 『麒麟がくる』の筆者なりの総括は、コラム本文で書くことにする。

*2月9日に加筆しました。

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『麒麟がくる』の桂男に重なる本能寺の変と月=暦との縁

  

 撮り直しでスタートが2週間遅れ、新型コロナの影響で2か月半も放送を休んだNHK大河ドラマ麒麟がくる』が、いよいよ完結する。

 2月7日放送予定の最終回(第44回)「本能寺の変」まであと2回。クライマックスが近づくにつれ、ドラマでは「月」に絡んだ描写が増えていることから、こんなコラムを書いてみた。

読売新聞オンラインコラム本文

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月が強調され、何度も登場する「桂男」

 第41回「月にのぼる者」では、坂東玉三郎さんが演じる正親町おうぎまち天皇(1517~93)が、内裏で長谷川博己さん演じる明智光秀(?~1582)と月見をしながら「桂男かつらおとこ」の話をする。

 桂男は第36回「訣別けつべつ」でも、光秀が木村文乃さんが演じた妻のひろとともに、坂本城で琵琶湖を眺めながら詠じた歌「月は船 星は白波 雲は海 いかにぐらん桂男は ただ一人して」のなかに登場した。

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月に昇る呉剛(月岡芳年『月百姿』国立国会図書館蔵)

 桂男とは、古代中国・唐の時代に書かれた『ゆうようざっ』に登場する伝説の人物で、本名をごうという。月の宮殿にある桂の木の花に不老不死の効能があると知った呉剛は、満月の日だけにかかる梯子はしごを使って月に昇った。だが、花を独り占めしようとして、すべて木からふるい落としたために神の怒りを買い、罰として高さ500丈(約1500メートル)もある桂の木をおのることを命じられる。しかし、斧を入れても切り口はすぐに塞がってしまう。呉剛は桂の木を伐り続け、月に閉じ込められてしまった――というのが伝説のあらましだ。

 ドラマの中で正親町天皇みかど)は、「あまたの武士たちが月に昇るのを見たが、この下界へ帰ってくる者はなかった」と語り、染谷将太さん演じる織田信長(1534~82)が道を間違えぬよう、光秀に「しかと見届けよ」と命じる。このシーンはドラマ上の創作だが、桂男は富や権力を独り占めしようとする権力者、つまり信長を指しているのだろう。

 一方、光秀と煕子が坂本城で詠んだのは『梁塵秘抄りょうじんひしょう』に収められた今様(歌謡曲)が出典。こちらも一人で月の船を漕ぐ桂男を信長とすれば、「一人ではどこへ漕ぎだすか分かったものではない。私が補佐しなければ」という光秀の決意が込められているとも取れる。

 ちなみにこの歌の桂男を「美男」と読み替える向きもあるが、桂男→月の象徴→美男と転じるのは江戸時代になってからのようだ。筆者は光秀の時代には、この歌は「美男子がどちらの女性に漕ぎだすのか」とはやす恋歌ではなかったと思っている。

 

当日、本能寺の上に月はなかった

 本能寺の変が起きた天正10年(1582)6月2日は当時の西暦(ユリウス暦)では6月21日、今の西暦(グレゴリオ暦)では7月1日。「今の暦では6月21日の夏至に起きた」と勘違いする向きが多いが、ローマ教皇庁本能寺の変が起きた1582年10月に西暦をユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替えているので、今の暦なら7月1日になる。

 それでも夏至に近いのは確かだから、日の出は早い。だが、旧暦(太陰太陽暦)は月の初めは新月(朔)から始まる(だから「新月」なわけだが)から、日の出前は真っ暗闇だったことは、科学的に断定できる。漆黒の夜陰に紛れて1万余の大軍を移動させ、空が白んで周囲がはっきり見えるが相手はまだ寝ている未明に襲う――光秀は暦=月を味方につけることまで計算していたのではないか。

 逆に信長は、暦を敵に回したともいえる。前日に起きた日食をみて、京暦(宣明暦)を廃止し、自らの領国などで使われていた三島暦を採用するよう求めて、朝廷と対立していたからだ。

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三島暦(文化15年の暦、国立国会図書館蔵)

暦問題は史実の裏付けがある

 暦(太陰太陽暦)の話は、当ブログでもたびたび書いている。本能寺の変との偶然にしてはできすぎた暦との縁についてはコラム本文に詳しく書いているが、①当時の暦は月の満ち欠けで決められ、月は暦の象徴だった②信長は朝廷が定めた宣明暦を変えるよう求めていた③前日に京都では日食が観測されたが、信長はこれを予想できなかった朝廷を責めていた④しかし朝廷は、大権である暦の制定権を手放す気はなく、信長の要求を却下しようとしていた――ことは、ほぼ間違いない。暦をめぐる信長と朝廷の軋轢は公家の日記など一次史料にも記されている。

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暦の改変は信長の非道のひとつだった? 

 だとすれば、ドラマに唐突に、しかし何度も桂男を登場させた意味も分かる気がする。桂男は富や権力を独り占めしようとする者の象徴で、光秀はその非道を阻止しようと本能寺の変を起こしたという筋書きはあり得る。『麒麟がくる』の時代考証を務める静岡大学名誉教授の小和田哲男さんは「非道阻止説」を唱えている。

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 むろん、以上は筆者の勝手な憶測ではある。光秀が6月2日に信長を襲ったのは暦とは関係なく、「信長が少人数の兵力しか連れずに本能寺に宿泊していたから」「翌3日に四国にわたることになっていた織田信孝(1558~83)率いる四国討伐軍を止めるためだった」という方が、はるかに説得力がある。

 いずれにしても、『麒麟がくる』が本能寺の変をどう描くか、楽しみだ。本能寺の変については『麒麟がくる』の最終回を見終えてから、もう一度取り上げる予定にしている。

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「転落の歴史」からコロナ対策を考える

 2021年は緊急事態宣言の再発令から始まった。今年もコロナとの戦いが最大の懸案になることは間違いない。読売新聞オンラインのコラム本文は、元通産官僚で衆議院議員齋藤健さんのインタビューだ。

 齋藤さんは、日露戦争の勝利から第2次世界大戦に惨敗するまでの旧日本軍の変容について克明に調べ、『転落の歴史に何を見るか』という本を出版している。

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齋藤氏(右)と筆者

 旧通産省を取材していた私とは30年近く前から斎藤さんを知っている。現在の政府のコロナ対応について、旧日本軍の失敗から学ぶところが多い。インタビューの内容は、こちらをお読みいただきたい。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 失敗の本質は「十七条憲法」にある?

 齋藤さんはインタビューの中で、奉天会戦日本海海戦ノモンハン事件真珠湾攻撃などを振り返りながら旧日本軍の問題点を探り、根源は聖徳太子が制定したとされる十七条憲法にあるという説を展開する。十七条憲法が「和をもって貴しとなす」から始まるのは有名だが、条文の並びが持つ意味はあまり考えたことがなかった。

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第一条は「和」を尊ぶ十七条憲法国立国会図書館蔵)

 和を重視すれば、みんなの意見を重視することにつながる。争いを避けるにはいい再組だが、あくまでこれは平時の話。戦時や非常時にまわりの意見を聞きすぎると、戦略目的があいまいになり、さまざまな弊害が出てくる。

 「あの人の意見も入れなければ」「あの人のことも配慮しなければ」と言っていると戦略目的がぼけていき、対策も逐次投入になってしまう。

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真珠湾攻撃で沈没する米戦艦アリゾナ(米海軍歴史センター所蔵)

 例えば真珠湾攻撃の戦略目的は、米戦艦を沈めることもさることながら、燃料庫を徹底的に破壊することだったのに、それを十分にやらずに作戦を終えてしまった。このことは、後に致命傷になった。

和は組織を緩め、前例踏襲をはびこらせる

 和を重視する仲間同士の結びつきはセクショナリズムにつながり、縦割り割拠になることで、組織の中心が消えてしまう。「和」を重視しすぎて信賞必罰ができなくなったことで人事が緩み、能力主義抜擢ばってきも影を潜めてしまう。

 日本の組織は、できた当初は抜擢なども行い、発想も柔軟なのだが、30年もたつと、「誰それが言っているから」とか「前例はこうだから」という理由で重要な決断がなされてしまいがちになる。

 問題点を突き詰めて戦略を立て直そうとすれば、組織の変革が必要になり、内部に摩擦や対立が生まれる。とりあえず日常が回っていれば、前例通りにしていればいいではないか――。山本七平が言う「日常の自転」が始まるというのだ。「それはおかしい」という個人、そして異論を許容する組織を守ることが肝になる、と斎藤さんは言う。 

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コロナとの戦い、過去の教訓をどう生かすか

 インタビューの最後は、「新型コロナと戦いに過去の失敗の教訓をどう生かすか」。斎藤さんは、「ゼネラリストの政治家がスペシャリストの専門家の言うことを踏まえて、大局的見地からハンドリングできるかどうかが大切だ」と強調する。

 コロナとの戦いの戦略目的は、感染の拡大を止め、医療崩壊を防ぐこと。経済への影響をできるだけ少なくすることは、あくまで配慮事項なのだが、様々な意見を聞いているしすぎると、配慮事項がどんどん膨らんで、戦略目的があいまいになり、政策の逐次投入にも陥りかねない。

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 「かつて見た光景が浮かぶ。これではまずいと思った時には戦うつもり。政治家は歴史を学び、それを教訓に動くことが仕事ですから」と斉藤さん。知らないことも多く、勉強になった。

 

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