佐賀県神埼市、吉野ヶ里町にまたがる吉野ヶ里遺跡(国指定特別史跡)で、弥生時代後期の有力者の墓の可能性がある石棺墓が見つかり、覆っていた4枚の石蓋を外して内部の調査が行われた。
残念ながら遺骨や埋葬品は出土しなかったが、佐賀県の山口祥義知事は「調査の結果、石棺墓は邪馬台国の時代の有力者の墓と裏付けられた」と発表した。調査の意義などについて、「朱」をキーワードに考察した。
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「有力者の墓」決め手になった赤色顔料
今回の調査地点は神社があったためにこれまで調査されていなかった「謎のエリア」で、神社が昨年移転したことから県が調査を進め、今年4月に石棺墓(長さ約192センチ、幅約35センチ)を発見した。
遺跡内からはこれまでに18基の石棺墓が見つかっているが、今回調査された石棺墓は墓坑が大きく、見晴らしのよい丘に単独で埋葬され、石蓋には線刻があった。通常の墓とは異なる特徴から、集落を統治した首長の墓の可能性があるとみられていた。
遺骨や副葬品が出土しなかったにもかかわらず、県が「邪馬台国時代の有力者の墓だった」と発表した決め手の一つは「赤色顔料」だった。墓の内部を埋めていた土をすべて取り除いたところ、墓の底部などから赤色顔料の痕跡が見つかり、内部全体が朱に塗られていたことが確認されたのだ。
『魏志』倭人伝が記す「朱」の記録
邪馬台国は、赤色顔料すなわち「朱」と密接な関係があり、歴史や神話に関する著述活動をしている蒲池明弘さんは『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)で、邪馬台国は朱と密接な関係があり、所在地は朱の産地だったのではないか、との仮説を展開している。
邪馬台国について記した『魏志』倭人伝は、「日本の山には丹(朱)あり」「朱丹を 以てその体に塗る」と記している。火山国である日本には各地に朱の産地があり、当時の倭人は魔除けのために顔や体に朱を塗ったり、朱の入れ墨(文身)を入れたりしていたという。
日本の中でも火山が多い九州には西部と南部に二つの鉱床群があり、小さな産地も含めると、ほぼ全域で朱の採掘が行われていたという。『魏志』倭人伝によると、倭国は魏に対し、生口(奴隷)や弓矢、綿布などとともに「丹」を献上したという記録がある。蒲池さんはさらに踏み込んで、邪馬台国は朱などの鉱物資源を中国に輸出していたのではないか、と推測している。
伊都国は朱の輸出拠点か
倭人伝の記述などからは、当時、九州では邪馬台国を頂点とする「クニ」(都市国家)連合があったこともうかがえるが、その中では 伊都国(現在の福岡県糸島市)の繁栄が目立っていた。伊都国は九州各地から産出した朱などの輸出基地があったのかもしれないという。
だとすると、朱は魔除けや防腐剤としてだけでなく、富を持つ権力者の象徴とみてもいいことになる。糸島市の平原古墳、福岡県みやま市(旧山門郡)の藤の尾垣添遺跡、熊本県和水町の江田船山古墳など、九州北部の遺跡や古墳からは、朱の墓や朱が付着した土器などが出土している。吉野ヶ里遺跡でも出土した甕棺の内部から朱が見つかっている。
九州には50を超える候補地
邪馬台国の所在地をめぐっては、畿内説と九州説が長年にわたって対立してきた。九州には50を超える邪馬台国の候補地があり、畿内説を唱える学者からは「まず九州予選で有力候補を絞り込んでくれないと議論にならない」という皮肉めいた声も出ているが、九州ではほぼ全域から朱が産出しているから、候補地が多くなるのも無理はないのかもしれない。
「畿内」「九州」論争は江戸時代から
邪馬台国の場所を巡る「畿内説」と「九州説」対立の歴史は長い。研究の先駆者だった江戸中期の儒学者、新井白石(1657~1725)は当初は大和(奈良県)説を唱えていたが、のちに筑後国山門郡に自説を変えている。
明治時代末期には大和説を唱える京大の内藤湖南(1866~1934)と九州説を主張する東大の白鳥庫吉 (1865~1942)という2人の東洋史学の大家が、京大と東大のメンツをかけた論争を繰り広げた。
「行程論争」は決め手にならず
『魏志』倭人伝が邪馬台国に至るまでの行程について、二つの説があることを教科書で見た人も多いだろう。畿内説は朝鮮半島から直線的に連続して読み、九州説は伊都国から先の行程を同国を起点に放射線式に読む。
畿内説では伊都国から先を直線的に読み、「南行」は「東行」の誤りとする。九州説に基づいて放射線式に読むと、「南水行(船で南に)20日」かかる投馬国が「南水行10日」で着く邪馬台国より遠くなってしまうが、放射線式に読まなければ邪馬台国の位置は九州から大きくはみ出てしまうから、矛盾を承知で読まざるを得ない。どちらの読み方にも問題があり、邪馬台国の所在地の決め手にはならない。
大和にもあった朱の墓
朱との関係に着目すれば、一大産地だった九州説に軍配が上がるかといえば、そうはならない。奈良県から三重県伊勢地方にかけても東西に広がる「大和鉱床群」があり、邪馬台国の有力候補とされる奈良県桜井市は、その中心にある。3世紀後半の築造とみられる桜井茶臼山古墳(桜井市外山)の石室は、これまでの古墳発掘調査で最も多い推定200キロ以上の朱で覆われていたことがわかっている。大和鉱床群は九州の鉱床群より広がりはないが、産出量はむしろ九州より豊富だったとみられている。
桜井市の 纏向遺跡には、卑弥呼の王宮跡ともいわれる大型建造物の痕跡が残るエリアや、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳もあり、築造時期も卑弥呼の時代に近いとみられる。箸墓は宮内庁が管理していて考古学調査が行われていないが、もし発掘調査が行われれば、茶臼山古墳を上回る朱が出土するかもしれない。
今回の石棺墓の調査で、邪馬台国の時代の有力者の墓が確認されたことで、吉野ヶ里が邪馬台国の都だった可能性は残った。だが、そもそも邪馬台国の所在地は朱だけでは決められないことはいうまでもない。今回の調査結果がただちに邪馬台国論争に大きな影響を与えることはないだろう。
石棺墓の線刻は「夏の夜空」か
最後に朱の話から外れて、7月4日のNHK「クローズアップ現代」で放送された興味深い話を紹介しておく。石棺墓は3枚の石の蓋で覆われていたのだが、その後の調査で3枚の石はもともとは1枚で、蓋に刻まれた線刻は夏の夜空を表しているのではないか、というのだ。
線刻の「✕」は夏空の主な星の位置と一致し、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)を分かつ「天の川」や、天の川の中心を貫く暗黒帯も再現されているという。線刻は死者を封じる魔除けの意味があるとされるが、仮説を唱えた東海大学の北條芳隆教授は「天の川を天と地を結ぶ何か懸け橋のような形で、死生観と絡めていた可能性があるのではないか」と話している。
まだ4割近く残っているという謎のエリアの調査は今後も続く。邪馬台国がどこにあろうと、吉野ヶ里がかき立てる古代のロマンが消えることはない。
※7月4日の「クローズアップ現代」放送を受けて加筆しました。
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