奈良市の富雄丸山古墳から、これまで出土例がない盾形銅鏡と鉄剣が出土した。「古墳時代の金属工芸の最高傑作」で、国宝級の大発見だという。この古墳は昔から謎が多い古墳と言われてきた。今回の発見で、「被葬者は誰か?」というこの古墳最大の謎は、かえって深まったのではないか。
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ピカピカの銅鏡、最長最古の蛇行剣
盾形銅鏡の表面は研磨され、裏には全体に神像や霊獣をあしらった円形の文様が施されていた。鉄剣は幅6センチの剣身が蛇のように曲がりくねる「蛇行剣」で、長さ2.37メートルは国内最長。ともに国産の可能性が高く、奈良盆地にいた工人(加工職人)の手によるものとみられる。
盾形銅鏡と鉄剣は、ともに古墳の北東側に突き出した「造り出し」の「 粘土槨」の中から出土した。粘土槨は被葬者の入った木棺の周りを粘土で覆った固まり。ここに古墳の中心とは別に誰かが埋葬されていた。その木棺を粘土で覆う際に表面を上にした銅鏡と鉄剣を重ね、粘土の中に埋め込まれていたのだ。
家臣にこれだけすごい副葬品を添えるか?
造り出しから出土したのだから、銅鏡も蛇行剣も造り出しの被葬者の副葬品と見るのが自然だ。造り出しに葬られたのは古墳中央に葬られた人を支えた家臣とみられ、当然、中央の人より地位は下になる。中央に葬られた被葬者がいかに有力者だったとしても、その家臣にこれほどすごい副葬品を添えるとはどういうことなのか。
古墳中心に埋葬された有力者の副葬品は造り出しとは別に、古墳の頂上(墳頂)に埋められていたとみられ、明治12年(1879年)ごろに盗掘されている。三角縁神獣鏡などがこの時掘り出され、副葬品の一部は天理参考館や京都国立博物館などに収蔵されている。国の重要文化財に指定されているものもあるが、今回の発見は国宝級だ。なぜ造り出しから出土したのか。
ワンランク下の円墳から出土する副葬品か?
「盾形銅鏡や蛇行剣は造り出しの被葬者ではなく、中心被葬者を守るために副葬されたとも考えられる」(橿原考古学研究所の岡林孝作副所長)。しかし、富雄丸山古墳が築造された4世紀後半には、奈良盆地内でもすでに前方後円墳が築造されており、ヤマト政権内の実力者は前方後円墳に埋葬されていた。富雄丸山古墳のような円墳に埋葬されるのはワンランク下の豪族だったとされる。出土した銅鏡や蛇行剣が中心の被葬者のものとしても、ランクが低い円墳に埋葬された豪族の副葬品としては、すごすぎる。
多くの研究者は、今回発見された副葬品からみて被葬者は相当な富と力を持っていた。当然、ヤマト王権とも強く結びついていたはずだ、とみるが、「すごい副葬品が出たのだから、古墳の被葬者はヤマト王権直属の有力豪族に違いない」という推測は本当に正しいのだろうか。
交通の要衝に日本一の巨大な円墳
富雄丸山古墳が築造された4世紀後半は、卑弥呼(?~247?)が邪馬台国を率いた2~3世紀と、5世紀の「倭の五王」の時代の間の文献記録がない「空白の時代」といわれる。この時代にはヤマト王権の勢力が強まる一方で、奈良盆地の中の古墳の築造場所が南東部から北部に移動するという大きな変化が起きている。変化の理由には諸説があり、はっきりしない。
富雄丸山古墳はこの変化の時代に、奈良盆地を南北に流れる富雄川と、河内(大阪府)と大和(奈良県)を東西に結ぶ古代のバイパス「日下直越道」の交点に築かれている。ヤマト王権有力者の“標準規格”である前方後円墳ではなく、直径109メートルもある日本一の円墳が、他の前方後円墳とは離れてぽつんと築かれているなど、富雄丸山古墳は王権内の有力者の墓にしては特異性が際立っている。
古代学研究者の辰巳和弘さん(元同志社大学教授)は、「被葬者はヤマト王権内部の人物とは思えない。王権とは距離を置き、敵対していた豪族の墓ではないか」と推測する。
地元には、古墳がある場所は、『古事記』や『日本書紀』が記す神武天皇の東征に抵抗した豪族、 長髄彦 の支配地域だったという伝承がある。『日本書紀』に登場する大和の有力豪族・長髄彦は『古事記』では「登美能那賀須泥毘古」と記されるが、地元では、「富雄」の地名はこの「登美」から転じたといわれている。ちなみに長髄彦はジブリ映画『もののけ姫』のアシタカの祖先とも言われている(『もののけ姫』の時代設定は室町時代)。
『日本書紀』によると、神武天皇は日本全土を治める都を探して九州から東に向かい、河内(大阪府)から大和(奈良県)に入ろうとする。大和を支配していた長髄彦は神武天皇と戦い、河内に押し戻された神武天皇は、紀伊半島を熊野(和歌山県)まで 迂回 して東から大和に向かう。この時に熊野から道案内をしたのが「 八咫烏 」。今ではサッカー日本代表のエンブレムとしておなじみの3本足のカラスだ。
大和にたどりついた神武天皇は再び長髄彦と戦うが、またも苦戦を強いられる。その時、神武天皇のもとに金色の「 鵄」が現れ、強烈な光を放って長髄彦らの目をくらませたことで東征軍は勝利する。敗れた長髄彦は神として奉じていた妹婿の饒速日命に殺され、神武天皇は大和の地で初代天皇になる。戦いの勝敗を分けた金鵄 が舞い降りた地は「鵄邑」と呼ばれ、それが「鳥見」、さらに富雄へと転じたという。
記紀神話と地元の伝承を重ねると、富雄丸山古墳は長髄彦(=登美能那賀須泥毘古)の拠点でもあり、長髄彦が神武天皇と戦って金鵄降誕によって敗れた地でもあることになる。
辰巳さんは神武東征を史実と思っているわけでも、古墳の被葬者を長髄彦だとみているわけでもない。だが、記紀の 編纂時に、昔あった「ヤマト政権と交通の要衝である富雄を押さえていた強い豪族が対立した」記憶が投影され、神武天皇と長髄彦の戦いが創作された可能性はあるとみている。そうならば、富雄丸山古墳にその敵対勢力が葬られていることはにあり得ない話ではない。
饒速日命はヤマト政権内の有力豪族、物部氏の先祖とも言われ、富雄丸山古墳の被葬者は物部氏ではないかという見方もある。また、有力豪族だった和珥氏という見方も有力説のひとつだ。邪馬台国畿内説を取る人の中には卑弥呼やその子孫との関係を指摘する人もいるが、辰巳さんは「時代が違いすぎる」と否定する。被葬者に関する推測はコラム本文で詳しく考察しているので、コラムをお読みいただきたい。
読売新聞オンラインのコラム本文
被葬者は誰かはなお、わからないが、今回の発見で被葬者の謎が説くヒントがえっれればいいと思う。来年度には粘土槨の中の木棺の調査も行われるという。富雄丸山古墳は今後も注目される古墳となるだろう。
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