読売カルチャーセンター錦糸町で「徳川家康はなぜ最後に天下人になれたのか」という題で公開講座を開き、「戦国の三英傑」について話した。織田信長(1534~82)、豊臣秀吉(1537~98)、徳川家康(1542~1616)の性格の違いを話した際に、有名な「ホトトギスの歌」を取り上げたのだが、時間の関係で十分話せなかった。補足をかねて再録することにしたい。
有名なのは『甲子夜話』だが
「ホトトギスの歌」は三英傑の性格の違いを端的に示した狂歌として有名だ。実際に3人が詠んだ歌ではなく、江戸時代後期に創作されたとみられるが、では、だれがいつごろこの歌を詠んだのか。公開講座では、ホトトギスの歌は『甲子夜話』という随筆に収録されており、作者は江戸後期の平戸藩主、松浦静山(1760~1841)の可能性が高いと紹介したが、今は異説が有力だそうだ。
まず、『甲子夜話』のくだりを紹介する。
夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く協へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
鳴かぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
鳴かぬなら鳴くまで待よ郭公 大権現様
【大意】
夜の談話で出た他人の狂歌を記す。ホトトギスを3人に贈った人がいた。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス 信長
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス 秀吉
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス 家康
作者は聡明な名君、松浦静山
静山は幼いころから聡明で、16歳で第9代平戸藩主となってから藩政改革に取り組み、藩校「維新館」を設けて人材の育成に務めるなどした名君といわれる。47歳で隠居し、以後は武芸と文筆活動に明け暮れた。『甲子夜話』は文政4年(1821年)の甲子の日に書き始めたのが名前の由来で、20年間書きためた夜話は278巻にものぼる。
ちなみに静山は剣術の指南書『剣談』も書いており、その中には「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」(偶然や運で勝つことはあるが、負けるときは必ず原因がある)という有名な格言が記されている。
ホトトギスの話には、さらに続きがある。
このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
【大意】
この後に二首を添える。もともと人の詠んだ歌で、はばかりがあるので作者は伏せる。
鳴かぬなら鳥屋へ売ってしまえホトトギス
鳴かぬならもらっておけよホトトギス
「鳥屋に売って、金に換えてしまえ」という歌は、時の将軍、徳川家斉(1773~1841)の作を想定しているとみられる。表立って批判はできないが、家斉の拝金主義への批判が込められている。
ただ、『甲子夜話』より古くに書かれた随筆にホトトギスの歌があるという。勘定奉行などを歴任したべ幕吏、根岸鎮衛(1737~1815)が残した『耳嚢』だ。
下級旗本の根岸家の末期養子となった鎮衛は、家督相続と同時に幕府勘定所に入り、勘定吟味役について日光東照宮の修復、東海道などの川普請を行った。天明3年(1783年)の浅間山噴火の復興に従事し、佐渡奉行、勘定奉行を歴任して寛政10年(1798年)には南町奉行となり、18年にわたって在職した。
『耳嚢』は佐渡奉行在任中の天明5年(1785年)頃から亡くなる直前の文化11年(1814年)まで30年以上に亘って書き溜めた世間話の随筆集で、同僚や来訪者、古老から聞き取った珍談・奇談・怪談が、全10巻1000編にわたって記録されている。
その第8巻に、以下の記述がある。
古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御参会の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、
信長、
鳴かずんば殺してしまえ時鳥
とありしに秀吉、
なかずともなかせて聞こう時鳥
とありしに、
なかぬならなく時聞こう時鳥
とあそばされしは神君の由。
【大意】
古い文献にあるのか、誰かの創作かは分からないが、信長、秀吉、家康が会合した時、4月になったのにホトトギスの鳴き声を聞かないという話になった時、
信長が、鳴かずなら殺してしまえホトトギス、と詠んで、
秀吉が、鳴かなくても鳴かせて聞こうホトトギス、と詠んで、
鳴かぬならなく時に聞こうホトトギス、とお読みになったのは神君(家康)だという。
ニュアンスが『甲子夜話』とは微妙に異なるが、大意は同じ。さらに、『甲子夜話』とは違う続きがある。
紹巴もその席にありて、
なかぬなら鳴かぬのもよし郭公
と吟じけるとや。自然と其御徳化の温純なる、また残忍・広量なる所、其自然を顕はしたるか。
【大意】
(連歌師の)里村紹巴もその席にいて、
鳴かぬなら鳴かぬのもよしホトトギス
と詠んだという。自然と三人の温純な、また残忍な、広量なところが表れている。
連歌師の里村紹巴(1525~1602)は、明智光秀(?~1582)が本能寺の変の直前に謀反の決意を披歴したことで有名な京都・愛宕山の愛宕百韻にも出席した連歌師だ。だが、三英傑の会合に陪席してホトトギスの歌を詠んだ、とは話が出来過ぎている。後世の創作とみていいだろう。
ほかにもある出典候補
書かれた時期をみると、『耳嚢』は確かに『甲子夜話』より古い。しかし、鎮衛の自筆本は残っておらず、残っているのは転写・複製本ばかりだ。しかも、本による表記のぶれが大きく、ホトトギスのくだりがいつ書かれたものかもわからない。
このほか、『百草露』(巻9)にも、
河内ノ国上ノ太子南林寺の什物後水尾院瓢箪の御自画御賛、
世の中は兎にも角にもなるひさごかるき身のこそ楽みはあれ
なかぬならころしてしまへほとゝぎす
鳴ぬならなかして見せふ時鳥
なかぬなら鳴まで待ふほとゝぎす
右信長、秀吉、神君、三将の人となりを深く考へ弁ふべし。
とあるようだ。江戸時代中期から167編が刊行された川柳句集『誹風柳多留』53篇にも「三将で思ひ思ひの時鳥」の句がある。三将が三英傑であることは明らかだ。
『誹風柳多留』の53篇は文化8年(1808年)の編纂とされ、『耳嚢』よりやや新しい。
静山が『耳嚢』を読んだかどうかはわからないが、『誹風柳多留』の川柳が作られた時期から推定すると、ホトトギスの歌は『甲子夜話』より前に広がっていたようだ。ただ、『耳嚢』は鎮衛の原本がなく、構成の写本が書かれた時期がはっきりしないことから、静山が詠んだ可能性もなお残っているといえるのではないか。
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