今につながる日本史+α

今につながる日本史+α

読売新聞編集委員  丸山淳一

熊本地震から7年 邸宅再建、ジェーンズってどんな人?

 平成28年(2016年)4月に発生した熊本地震から間もなく7年が経つ。熊本のテレビ局に赴任して地震に遭遇した筆者は、4月14日(前震)と16日(本震)の揺れをまだ体で覚えている。

再建されたジェーンズ邸。内部展示を整備し、2023年9月に一般公開の予定(熊本市提供)

 毎年この時期には地震からの復興も見据えて熊本の記事を書いてきたが、今年は移築・再建がほぼ完了した「ジェーンズ邸」(洋学校教師館、県重要文化財)を取り上げた。

読売新聞オンラインコラム本文

↑読売新聞オンラインに読者登録すると全文を読めます

熊本の近・現代を見続けてきた洋館

 ジェーンズ邸は全前震には何とか耐えたものの、本震でぺちゃんこに倒壊し、無残な瓦礫の山と化した。倒壊した部材の7~8割を再利用したというから、文化財の復元ならではの苦労もあっただろう。

  

 熊本の復興といえば話題の中心になるのは熊本城で、ジェーンズ邸についてはその存在すら知らない人が多い。この洋館は過去に4回も移築を繰り返しつつ、熊本のみならず、日本の近代史の重要な舞台となってきた。

熊本のみならず日本を変えた教師 

L.L.ジェーンズ(『熊本県教育史』国立国会図書館蔵)

 だが、ジェーンズ邸が歴史を大きく動かしたのは、最初の住人となった熊本洋学校教師のリロイ・ランシング・ジェーンズ(1837~1909)が住んだ最初の5年間かもしれない。再建にあたって創建地の古城地区の住民が、「創建地の熊本城域に戻すべきだ」と強く求めたのも、古城地区にあった頃にこの邸宅が果たした重要な役割を知っているからだ。

 ジェーンズが熊本のみならず、日本の近代化に尽くしたことは、あまり知られていない。筆者はジェーンズは「少年よ大志を抱け」で有名なウィリアム・スミス・クラーク(1826~86)に匹敵する功績を残したと思っている。

「求む改革者」で白羽の矢

オハイオ州の小さな町の農家に生まれたジェーンズは、フランス皇帝ナポレオン(1769~1821)に憧れて米国の陸軍士官学校に進み、南北戦争では北軍の砲兵隊士官として最前線で活躍した。だが、戦場の激務で体を壊して退役し、来日を打診された時はメリーランド州で農場を営んでいた。

 「日本のクマモトというところが改革派の教師を求めている」と聞いたジェーンズは、半年間悩んだ末に、見知らぬ地の改革・近代化を導く決断をする。北軍の一員として奴隷解放に賛同し、退役後は保守的なメリーランドの農村に近代的な農業経営を導入しようと奮闘していた「改革派」としての自負が、熊本へと背中を押す最後のひと押しになったのではないか。

少人数クラス、超スパルタ教育

 家族とともに熊本に赴任したジェーンズは自ら教育カリキュラムを立案し、英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地学、生物など20科目をすべて一人で教えた。授業は全て英語で、生徒たちは能力別に少人数のクラスに分けられた。

 毎日テストが課せられ、座席は成績順とされた。後席に下がって次のテストも悪ければ退学という超スパルタ教育だったというが、生徒たちの英語力はめきめき向上したという。

ジェーンズが生徒に出した「免許証」。科目履修証明書にあたる

ミカン、パン、ミルク、レタス…農業に新風

 農業経営をしていたジェーンズは、熊本の農業にも新風を吹き込む。レタスやカリフラワーなどの西洋野菜を紹介し、ミカンの栽培拡大運動を始めたほか、国産小麦でパンを焼き、栄養価の高い牛肉や牛乳の摂取を奨励した。洋学校での講義では、県外に売れるコメと絹と茶の3品目を特産とすべきだと説き、その主張を小冊子『生産初歩』にまとめて県民に広げた。熊本県内ではその後3品目の出荷が増え、牛乳やパンが急速に普及している。

コメ、絹、茶を特産品に、とする提言が記載された『生産初歩』(国立国会図書館蔵)

 洋学校では世界の学校で初めてかもしれない「サマータイム」が導入された。教科書を刷るためジェーンズが米国から輸入した印刷機はその後払い下げられ、熊本での日刊紙の創刊につながった。

日本初の男女共学も

 特筆すべきは男女共学の導入だろう。「男女七歳にして席を同じうせず」が当たり前だった明治8年(1895年)、ジェーンズは徳富蘇峰そほう(1863~1957)の姉の初子(1860~1935)ら2人の女生徒の洋学校入学を許可した。

男子との共学を初めて認められた徳富(湯浅)初子は蘇峰の姉だった
(『蘇峰自伝』国立国会図書館蔵)

 男女共学に反対する男子生徒はジェーンズ邸に押しかけ、「女性に教育が必要なら女子校を作ればよい」と入学許可の撤回を求めた。だが、ジェーンズ邸元館長の黒田孔太郎さんの研究によると、この時、ジェーンズはこう答えたという。

 「男女共学は自然であり必然なのだ。女性は男性より劣るという偏見を持つことは、米国で奴隷に読み書きを教えることを罪悪と考えていたのと同じだ。日本でも精神と道徳の奴隷制をやめなければならない」

花岡山の結盟であっけなく閉校へ

 ジェーンズの改革精神は生徒に浸透し始めたが、同時に生徒たちはジェーンズの意図を超え始める。キリスト教に関心を持った生徒たち35人が明治9年(1876年)1月30日に熊本市街を一望できる花岡山(熊本市中央区)に集まり、キリスト教で祖国を救うことを宣言して集団入信したのだ。

花岡山から熊本市街を望む

 当時はキリスト教禁制が解かれたばかりで、まだ反キリスト教感情が根深く、「花岡山の結盟」を聞いた市民や生徒の父兄は拒否反応を示す。

 ジェーンズも授業時間外にジェーンズ邸で聖書の勉強会を開いていたことが発覚し、熊本県はジェーンズとの契約を延長しないことを決め、洋学校は廃校となった。ジェーンズは花岡山の結盟に署名した生徒たちの多くを新設間もない京都の同志社英学校に送り出して、熊本を去る。

 ジェーンズは心残りだったかもしれないが、結果的にはこれで良かった。洋学校の廃校から1か月もたたずに神道重視の勤王党が熊本鎮台を襲い、数百人を殺傷する「神風連の乱」が起きている。ジェーンズや結盟を結んだ生徒が熊本に残っていたら、彼らの命はなかっただろう。

楊洲斎周延「神風連の輩種田政明少将の私邸を襲う」
(『西海暴動電信紀聞』国立国会図書館蔵)

熊本バンドに引き継がれた遺志

 熊本から転入した生徒たちは秀才ぞろいで同志社でも目立つ存在となり、尊敬の念を込めて「熊本バンド」と呼ばれた。「國民新聞」を主宰した徳富蘇峰のほかに、同志社総長となった海老名弾正(1856~1937)や石破茂衆院議員の曽祖父で「自由新聞」の主筆を務めた金森通倫みちとも(1857~1945)など、熊本バンドからは多くの日本の指導者が巣立った。

 男女共学に反対する男子学生(その筆頭は海老原だった)が撤回を求めて押しかけた場所も、授業時間外に聖書の勉強会が開かれた(この勉強会が熊本バンドにつながった)場所もジェーンズ邸だった。ジェーンズのみならず、邸宅も日本の近代史に大きな足跡を残したといえる。

 コラム本文では最後にもうひとつ、ジェーンズのすごい功績になるかもしれない話も紹介している。なお、熊本地震関連の過去のコラムも並べておくので、よろしければあわせてお読みいただきたい。

熊本地震から7年 関連コラム

 

 

 

books.rakuten.co.jp

ランキングに参加しています。お読みいただいた方、クリックしていただけると励みになります↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


日本史ランキング