日本の名刀、宝刀が擬人化され、「刀剣男士」となって歴史を守るために戦う刀剣育成シミュレーションゲーム「刀剣乱舞 ONLINE」を実写映画化したシリーズの第2作「映画刀剣乱舞‐黎明‐」が公開された。
「刀剣乱舞」はこれまでもアニメや映画、ミュージカルになって人気を集めているが、今回の映画の時代設定は「現代」。渋谷のスクランブル交差点などで刀剣男士が大立ち回りを演じる。コラムではこの映画を取り上げ、息長く続く現在の刀剣ブームについて考えている。
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現代に“降臨”した刀剣男士たち
映画は長徳元年(995年)、京都の大江山に住む鬼・酒呑童子(演:中山咲月さん)を源頼光(948?~1021、演:津田寛治さん)らが討伐するところから始まる。討伐に向かう頼光の前に、歴史の改変を狙う「歴史修正主義者」が放った「時間遡行軍」が現れ、頼光らに襲いかかる。
三日月宗近(演:鈴木拡樹さん)が率いる刀剣男士は頼光たちを救い、歴史の記述(史実とは限らない)通りに頼光に酒呑童子を討たせる。だが、そのさなかに刀剣男士のひとり、山姥切国広(演:荒牧慶彦さん)が酒呑童子の呪いを受けて消えてしまう。この出来事が平成24年(2012年)につながって、現代の東京で日本政府も巻き込んだ刀剣男士と時間遡行軍の大きな戦いが勃発する――。
荒唐無稽だが、まじめに歴史と向き合っている
荒唐無稽なストーリーなのに、ゲームの「刀剣乱舞」の世界を知らない筆者もおもしろかった。史実かどうかに関わらず、映画が過去の出来事に真面目に向き合っているからだろう。
映画が描く鬼退治で頼光らは、山伏を装って鬼の居城を訪ね、毒酒を差し入れて酒呑童子を討ち取っているが、これは室町時代初期に描かれた『大江山絵詞』の鬼退治と同じ。昔にも鬼などいないから絵詞の話はフィクションだが、映画では鬼の正体は社会的弱者の人間であることも描いている。鬼の伝承が生まれた時代背景まで考察してストーリーに取り込んでいる。
歴史に真摯に向き合うのは「刀剣乱舞」全体に共通した姿勢だ。名刀と言われる刀はどれも、多くの人と関わってきた来歴があるが、刀剣男士のキャラクターはどれも、元の刀の来歴を踏まえて設定されている。「推し」になればなるほど、元の刀はどんなにすごいものなのか見たくなるし、詳しい来歴が知りたくなるというわけだ。
映画に登場する刀剣のうち、最も美しく、最も古いのは「天下五剣の筆頭」「名物中の名物」といわれる映画の主人公、三日月宗近(国宝)だ。作者は平安時代の刀鍛冶、三条宗近(生没年不明)。貴族出身で優美な刀を得意としたという。
10~12世紀に作られたと推定され、名前の由来にもなった刀身の三日月模様が最大の特徴だ。光を浴びると、地鉄の波模様(刃文)のすぐ上に三日月模様が現れ、まるで闇夜の雲の合間に浮かんでいるかのような幽玄の輝きを放つ。
長年にわたって研ぎ澄まされてきたため、三日月宗近は作刀時より刀幅が細くなり、軽くなっている。作刀当時の三日月宗近の姿を推定・復元しようと「三日月宗近 生ぶ復元プロジェクト」が行われた際に、刀工の石田國壽さんが、三日月模様が現れる謎の解明に挑戦している。
石田さんは、三日月宗近には当初、二重の刃があり、三日月の刃文は刀の研磨によって二重刃が研ぎ減ってできたことを突き止めた。復元された三日月宗近には三日月模様はなく、今後研がれていくと三日月模様が現れる。それはかなり先のことになるのだろう。
三日月宗近が美しいのは、三日月模様だけではない。鍔元(根本)近くは反りが強く、切っ先に向かうにつれて緩くなる曲線美もすばらしい。研磨され続けて刀幅が細くなったことで、曲線美が一層際立つようになったという。研ぎ澄まされて 華奢になり、武具としての威力は低下したが、美術品としての美しさは昔より増したわけだ。
華々しい来歴、室町時代から
「名物中の名物」だけに、その来歴も華々しい。最も古い持ち主という伝承が残るのは室町時代の公家、日野内光(1489~1527)。内光の死後は義父の 畠山尚順(1475~1522)の手に渡り、尚順は内光の菩提を弔うため、三日月宗近を高野山に納めた。
その後高野山から請け出され、「剣豪将軍」として知られる13代将軍、足利義輝(1536~65)の愛刀となった。義輝は三好三人衆らに御所を襲撃されて暗殺される(永禄の変)が、その際に複数の愛刀を畳に突き刺して戦ったという。
義輝の死後、三日月宗近は三好三人衆のひとり、三好宗渭(政康、?~1569)が接収し、後に豊臣秀吉(1537~98)に献上されたとみられる。秀吉から正室の北政所(?~1624)の手に渡った三日月宗近は、尼子氏の家臣、山中鹿之介(1545~78)に贈られたというが、鹿之介は北政所に返却する。北政所(秀吉亡き後は高台院)の死後、三日月宗近は江戸幕府2代将軍の徳川秀忠(1579~1632)に贈られ、それ以降、徳川将軍家が相続した。
ただただ感服した犬養首相
明治維新以降も徳川家達(1863~1940)が所有しており、門外不出の名刀として、戦前は展覧会などでもめったに展示されなかった。目にすることができた犬養毅首相らごく少数の人は,その美しさにただただ感服したという。
東京国立博物館に寄贈され、安住の地を得たのは平成になってから。公開期間に博物館で誰でも見れるようになったのはつい最近で、それは実に幸せなことなのだ。
多くの矛盾点、のみこむ美しさ
高台院から秀忠に渡ってからの来歴は史実とみてよい。しかし、それ以前の来歴には眉唾の部分が多い。尚順は内光より前に亡くなっているから、内光の遺品を高野山に納めるのは不可能だ。義輝が永禄の変で多くの名刀を使って戦ったという逸話は後世の創作の可能性が高い。
山中鹿之介は三日月を深く信仰していたというが、秀吉の死後に高台院が三日月宗近を相続したなら、秀吉より前に死んでいる鹿之介が拝領することはあり得ない。高台院の近習に同姓同名の「山中鹿之介」がいたのだ、という説まであるが、つじつま合わせにもなっていないように思う。
刀の輝きを失わないために
国宝で「名物中の名物」といわれる刀ですら来歴には矛盾がある。映画に登場する三日月宗近以外の9振りの刀にも、名刀ならではのぞくぞくするような来歴があるが、その中には、やはり史実とみなせない部分もある。
だが、「名刀とされるものには、さまざまな伝承をのみ込む度量がある。天下人が所望した、あの武将が、あの合戦で使った、などの歴史的価値や、美的観点から人々の願望や共同幻想を受けとめられるのが名刀だ」(京都国立博物館工芸室主任研究員の末兼俊彦さん)。長い歴史を経て生き残った名刀の輝きには、多くの人に愛され、研ぎ澄まされてきた歴史の裏打ちがある。眉唾であっても、来歴は知っておいて損はないし、刀剣男士のキャラクターへの理解は深められる。
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コラム本文ではさらに三日月宗近の来歴を詳しく紹介しているので、お読みいただきたい。映画が「歴史の改変」をテーマとし、刀剣男士たちが阻止のため奮闘するのは、長年積み上げられてきた名刀に対する人の「思い」を守り、刀に宿る輝きを失わないためなのだろう。
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