日本学術会議が推薦した新会員候補のうち6人を菅首相が任命しなかった一件が、尾を引いている。為政者による弾圧と抵抗は歴史にはつきもので、今回の任命拒否も学問の自由との関係が議論されている。
だが、今回の一件を現時点で学問の自由の侵害=違憲というのは違う気がする。今の学術会議のあり方については学者の中からも改革を求める声が出ていた。どんな組織でも改革をするとき、人事から手を付けることは間違いではない。江戸時代の寛政異学の禁から、今回の一件を考えてみた。
読売新聞オンラインコラム本文
↑読売新聞オンラインに読者登録するとお読みになれます
定信は老中になる前は朱子学を批判していた
寛政異学の禁は江戸時代に寛政の改革を進めた老中・松平定信(1759~1829)が寛政2年(1790年)に出した命令で、朱子学を幕府の「正学」とし、昌平黌(昌平坂学問所)で朱子学以外を教えることを禁じた命令だ。
一般的には封建時代の典型的な学問弾圧とみられがちだが、禁令はあくまで昌平黌で教える内容に限定されていた。在野の文人は正面から禁令に反発して定信に意見書を出すなどしており、それでも弾圧されてはいない。
定信自身も老中に就任する5年前に書いた『修身録』の中で「学ぶと偏屈になる」と朱子学を批判し、「学ぶのは人それぞれ、〇〇学でなければならないことなどない」と力説している。老中になって宗旨替えしたとしても、学問弾圧の愚を知っていたことは間違いない。
学者が推し進めた異学の禁令
ただ、各藩は幕府に忖度して藩校で教える学問を朱子学にするなど、影響は全国に広がっているのも確かだ。コラム本文にも書いたが、朱子学以外の学問の排斥に熱心だったのは、定信によって昌平黌の教官に抜擢された柴野栗山(1736〜1807)ら学者の方だった。定信は昌平黌で行われた役人の登用試験では朱子学以外も試験科目に加えるよう指示したが、栗山らは子の指示を無視して朱子学中心に改め、そのことが定信に露見しないような工作もしている。
定信には抜擢した学者の監督責任があるから、知らなかったでは済まされないとはいえ、すべてが定信の指示ではなかったわけだ。
背景に林家の乱れも
なぜ定信は朱子学以外を昌平黌から排斥したのか。コラム本文では田沼派との抗争が背景にあったことを紹介したが、大学頭を世襲する林家の人材難も大きな理由だったようだ。
徳川家康(1543~1616)が林羅山(1583~1657)の朱子学を「徳川家侍講の学」と定めて以来、林家は学頭の役職を世襲し、旗本の門弟に朱子学を教えてきた。ところが、元禄時代以降は朱子学よりも実践的で、経済的な視点を備えた学派が台頭していた。林家には人材が出ず、大学頭の養母に艶聞が出るなど、家中に乱れもあった。
定信は外部の朱子学者を昌平黌に招く人事を断行し、まず林家の力を削いだ後、昌平黌を幕府直営にして綱紀粛正を急いだわけだ。禁令は学問の弾圧ではなく、昌平黌の組織改革を主眼にしたといえるだろう。この禁令がどんな展開を辿り、その後の歴史にどんな影響を与えたかはコラム本文をお読みいただきたい。
↑読売新聞オンラインに読者登録するとお読みになれます
学術会議問題は「令和の滝川事件」か
最後に、学術会議問題を「令和の瀧川事件」と呼ぶ声が上がっていることについて付言したい。瀧川事件とは、昭和8年(1933年)、京都帝国大学法学部教授の瀧川幸辰教授(1891~1962)の講演や著書の内容が自由主義的だとして、当時の文部大臣、鳩山一郎(1883~1959)が瀧川教授の休職を決めた思想弾圧事件だ。京大法学部は決定は学問の自由や侵害するものだと反発し、法学部教官全員が辞表を提出する騒ぎになった。
この事件では学術会議問題とは異なり、文部行政のトップにいた鳩山文部相には明白な学問弾圧の意図があり、大学の自治にも足を踏み込んでいる。前述した通り、筆者は学術会議の問題は現時点で学問の自由の侵害とは思っていない。学術会議の6人の任官拒否が組織改革を狙ったというなら、寛政異学の禁の実態の方が近いと考えた。
だが、今の憲法には明治憲法にはなかった学問の自由が明記されている。今回の問題に将来、学問の自由を脅かす懸念がないとは言い切れない。当然ながら、学問の自由についてはしっかり見ておく必要がある。