今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

安土城天主も江戸城天守も再建できないワケ

 織田信長(1534〜82)の安土城(国の特別名勝)の天主復元を検討してきた滋賀県の三日月知事が建物の復元を見送る方針を明らかにした。デジタル技術を用いた「再現」となる見通しだ。詳しい史料がなく、現時点では史実に忠実に復元することが難しいためだ。

4案の中から選ばれたデジタル化

 滋賀県は2026年の築城450年祭に向け「目に見える形」での復元を目指し、①現地(安土城址)に「復元」②一部を変更する「復元的整備」③安土城址と別の場所に「再現」④デジタル技術を使っての「再現」――の4案について意見を募った。その結果は「建てなくてよい」(53%)という意見が「建ててほしい」(43%)を上回った。「建てなくてよい」のうち(59%)が「デジタルがよい」と答えたという。

 一度城を復元してしまうと、新たな史料が出てきた時に変更が難しくなる。復元には大河ドラマ麒麟がくる」の時代考証も務める小和田哲男さんも反対だったという。当ブログでもアイキャッチに使っている安土城天主の姿については異論がある。妥当な結論だったといえるだろう。

 信長好きの筆者は安土城も大好きで、以前にも当ブログに書いている。

 上記記事の冒頭では、近江八幡市がデジタル技術で「再現」安土城のCG(コンピューターグラフィックス)の映像を紹介している。滋賀県は仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といったデジタル技術で視覚化するというが、日進月歩のデジタル技術を使い、近江八幡市のCG(これも出色の出来だと思うが)よりさらにいいものができることを期待したい(下の映像は滋賀県が制作)。

  

全国の天守は5種類に分かれる

 天守安土城は天主)の復元が検討されているのは安土城だけではない。名古屋城では木造天守の復元が検討されているし、松前城(北海道)、高松城香川県)でも計画が動き出している。なぜ、今なのか。そもそも天守安土城は天主)にはどんな種類があるのか、改めてまとめてみた。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 「復元」とか「再現」と言われても、違いがわからない人も多いだろう。そもそも、全国にある70を超える天守は史実にどこまで忠実かどうかによって5種類に分類される。

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  「木造復元天守」は、内部まで木造で史実に忠実に復元されたもので、平成になって再建されたものばかりだ。これに対して外観だけが史実に忠実なものが「外観復元天守」で、こちらは昭和30年代に再建されたものが多い。

 「復興天守」は、天守の位置や規模はおおむね史実通りだが、外観からして史実と異なるもの。「模擬天守」はさらに史実から離れ、天守があったかどうかも不明確だったり、もとの城とは別の場所に建てられたりしたものを呼ぶ。復興天守と模擬天守は学説によって、はっきり区分するのが難しいものもある。

 熱海城のように史実の裏付けがないものは、「天守閣風建造物」に区分されるが、この中には三重県伊勢市のテーマパークの安土城のように、専門家の考証を経て建てられたものもあるから、ただちに歴史的な価値がないというわけではない。

なぜ同じ時期に同じ種類の再建ブームが起きたのか

 昭和30年代の天守再建に外観復元天守が多いのは、高度経済成長期に地域のシンボルを再建する動きが相次いだため。明治以降に空襲などで失われた天守は焼けた前の写真が残っていて外観は復元しやすく、コンクリート造りの復元は工期が短く費用も比較的安くすむ。

 再建された天守が観光客を集めたことで、復興天守、模擬天守が多く造られるようになった。天守を再建するだけでは観光客が呼べなくなった平成以降は「本物志向」の木造復元天守が主流になった。

 もうひとつの大きな背景に、木造建造物に関する建築基準法と、史跡に建造物を再建する際の文化庁の復元基準の変遷がある。防災面の理由から建築基準法で大規模な木造建築物の建築が禁止されていた時期には、天守はコンクリートで再建するしかない。もともと天守があったところは文化庁によって史跡や特別史跡に指定されており、そこに城を再建する場合は「史料に基づいた復元か」「遺構を保存できているか」など厳しい基準がある。

規制緩和で来るか、令和の築城ブーム

  しかし、平成の初めに建築基準法が緩和されて木造の大規模建築が解禁されたのに続き、今年には文化庁が、完全に史料がそろっていなくても一部を変更して天守を再建できる「復元的整備」の基準を明確にしたことで、不明な部分があっても天守が再建できる可能性が出てきた。

 滋賀県安土城の復元プロジェクトに乗り出したのも、「復元的整備」の可能性を探ったものとみられる。この経緯はコラム本文に詳細に書いたのでお読みいただきたい。

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江戸城天守

江戸城天守はおそらく復元できない

 ここからはコラム本文に入り切らなかった江戸城天守の復元について記したい。江戸城天守についても復元を求める声があり、宮内庁も今年9月、寛政期の天守の復元模型を公開している。だが、現在皇居内に残っている江戸城天守台に天守を復元することは難しい。今も残る江戸城天守台に天守が建った史実はないからだ。

 江戸城天守は徳川初代将軍家康(1543〜1616)、2代将軍秀忠(1579〜1632)、3代将軍家光(1604〜51)の代替わりごとに3度建築されている。慶長12年(1607年)に完成した初代天守閣は、家康の権威の象徴のほかに、豊臣家との決戦もにらんだ防御的な役割もあった。白漆喰壁の連立式天守は雪をいただく富士山のように美しかったという。

 だが、2代将軍秀忠は、家康の死後に慶長天守を破却し、場所を移して元和9年(1623年)に新たな天守閣を建てた。江戸城が政庁として本格的に機能するようになると、政務を行うスペースが必要になり、本丸を拡張するためにふだんは使われない天守の場所を移したのだ。移された天守現在の天守台のある場所だった。

 ところが、3代将軍家光は寛永15年(1638年)、秀忠の建てた元和天守を破却し、場所を変えて新天守を建てた。秀忠よりも家康を敬愛していたためとされ、寛永の新天守は元和天守を上回る外観五層の壮大なものだった。寛永天守は承応2年(1653年)に増築され、当時世界最大級の木造建築物だったという。

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 その寛政天守も4代将軍家綱(1641〜80)の治世に江戸を襲った明暦3年(1657年)の大火(振袖火事)で焼失してしまう。天守層目の窓の扉留具のかけ忘れで扉の隙間から火災旋風が侵入し、火は天守閣から櫓の鉄砲弾薬に回って勢いを増し、本丸御殿、二の丸も全焼したという。

将軍の叔父の諌め「天守より城下の再建を」

 家綱は当初、天守の再建を計画し、天守台の石垣は加賀前田家が再建を買って完成させた。前田家は石垣構築の技能集団として有名な穴太衆を多数召し抱えていたが、当時、穴太衆は大坂城の天下普請で積んだ石垣に落ち度があったと指摘され、名誉回復のために天守台造りの手伝普請を請け負った。

 天守台は完成したが、家綱の後見人で叔父にあたる保科正之(1611〜73)は、「戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、莫大な財を費やすよりも城下の復興を優先させるべきだ」と将軍を諌め、天守閣は再建されなかった。

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保科正之(『新式日本歴史辞典』国立国会図書館蔵)

 正之はそれまで将軍の代替りのたびに莫大な財を投じて建て替えてきたのを苦々しく見ていたのだろう。その後も新井白石らが天守閣の再建を計画するが実現せず、結局、天守台に天守が建つことはなかった。

 今残る天守台には最初から天守はなく、寛永天守を建てるのは史実に反する。秀忠が築いた元和天守は今の天守台の位置に建っていたが、後世に創られた天守台に先々代の天守を再建するのは、やはり史実に反する。ここは正之の諌めに従い、江戸城天守の復元より、城下の東京のインフラ整備に金をかけた方がいいのではないか。

 

 

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