先進国ではワクチン接種が遅れたところに、感染の第4波がやってきた。ワクチンについては副反応を懸念して接種しない人もいるが、効き目を信じている人も打つワクチンがなければどうしようもない。こんな状況で東京五輪が本当に開催できるのか、疑問を持つ人は少なくない。
しかし、日本はかつて、鎖国下の正確な情報が乏しい中で、人類初のワクチンとなった天然痘ワクチン(痘瘡)をものすごいスピードで拡げたことがある。今回は江戸時代にあったワクチン接種プロジェクトの話を取り上げた。
読売新聞オンラインのコラム本文
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人類初のワクチンを鎖国下で拡散
天然痘はWHO(世界保健機関)が1980年、全世界で撲滅されたと宣言した唯一の感染症だ。ワクチンは1796年、イギリスでエドワード・ジェンナー(1749~1823)が雌牛からとった牛痘を使って開発した。このワクチンは人類が初めて手にしたワクチンで、「ワクチン」の語源がラテン語のvacca(ワッカ=雌牛)なのは、初のワクチンが牛痘から開発されたためだ。
ウシから取った痘苗をヒトに接種するのだから、欧米でも当初、抵抗があったのは当然だろう。ジェンナーの論文は最初は英国の学会(王立協会)でも相手にされず、効果があるとわかってからも「接種すると角が生え、牛になる」といううわさが広がった。
欧米ですらこんな調子だったのだから、日本ではさぞ普及に時間がかかっただろうと思いきや、意外にも日本の対応は早かった。長崎に外国製の痘苗が上陸したのは嘉永2年(1849年)のことだが、この時日本はまだ鎖国をしていたにもかかわらず、上陸したその年に痘苗は江戸まで広がっている。
開国の5年前、明治維新より20年近くも前に、欧米でさえ進まなかったワクチン接種を進めたのは、緒方洪庵(1810~63)を中心とする民間蘭学者のネットワークだった。
牛痘より前から始まっていた人痘
天然痘の有効な治療法はなかったが、死を免れると二度かかることはほとんどないことは古くから知られていた。寛政2年(1790年)には秋月藩(福岡県)の藩医、緒方春朔(1748~1810)がジェンナーより6年も早く、清(中国)から伝えられた「患者の痂を鼻から吸う」方法で日本初のワクチン接種を行ったとされる。
ジェンナーの牛痘ワクチンはほとんど無毒なのに対し、人のウイルス(人痘)を使う春朔の方法は、天然痘にかかった人のウイルスをそのまま使う危険な方法だった。だが、のちに牛痘を普及させる洪庵も、牛痘を手に入れるまでは人痘を使っている。牛痘より前に免疫の有効性が実証されていたことが、早期のワクチン普及を後押ししたといえる。
届いていたワクチン開発のニュース
ジェンナーの牛痘に関する情報は、実際に痘苗が入るよりかなり前から日本にもたらされていた。ジェンナーがワクチンに関する最初の論文を出してからわずか4年後の享和2年(1802年)、長崎で通訳をしていた馬場佐十郎(1787~1822)が、オランダ長崎商館でワクチン開発のニュースを聞いている。イギリス王立協会はまだジェンナーの論文を異端視して受け付けていなかったが、馬場はその重要性をすぐに理解し、追加の情報とワクチンの種がもたらされるのを心待ちにしたという。
しかし、肝心のワクチンの種(牛痘の痘苗)は届かなかった。欧州から船で数か月かけて運ばれるうちに苗が死んでしまうのだ。長崎にオランダ商館医として日本に赴任したシーボルト(1796~1866)も文政6年(1823年)、オランダから持ち込んだ痘苗を使って接種を試みたが、失敗している。
しかし、実は痘苗やその製造法に関する情報は、オランダーー長崎ルートとは別に、ロシア経由で、もっと早くから日本に入っていた。シーボルトが種痘に失敗した翌年には、中川五郎治(1768~1848)が箱館で種痘を行ったという記録がある。中川はもともと択捉島の番人で、ロシアとの紛争(文化露寇)に巻き込まれて捕虜としてシベリアに連行され、そこで種痘を学んでいた。
中川は種痘術を秘伝としたため普及しなかったが、捕虜交換交渉の通訳として松前に派遣された馬場は、文化10年(1813年)に中川がロシアから持ち帰った牛痘の解説書を写し、江戸に持ち帰って邦訳まで完了させている。
安芸(広島県)の船乗りだった久蔵(1787~1853)も、漂着したロシアで保護され、牛痘接種の手伝いをして接種方法を身につけ、中川の種痘より10年以上前に種痘器具と痘苗を広島に持ち帰っている。広島藩の尋問を受けた久蔵は種痘の有効性を切々と訴えたが、藩は久蔵のいうことを理解できず、没収された痘苗は藩の倉庫の中で死んでしまった。
また、紀伊(和歌山県)の医師、小山肆成(1807~62)は清の医学書をヒントに、嘉永2年に国産初の天然痘ワクチンの開発に成功したとされる。小山は私財を投げうって市場で牛痘に罹患した牛を探し出し、作ったワクチンを妻に接種して安全性を確認している。だが、結局国産ワクチンは近所の子どもに接種されただけで、全国に広がることはなかった。
バタビアルートでついに到着
ワクチンの情報は届いていたが、肝心の痘苗が手に入らないという状況がようやく解消したのは嘉永2年のことだった。シーボルトの高弟だった佐賀藩の藩医、楢林宗建(1802~52)がオランダ商館に働きかけ、ジャワ(オランダ領バタビア)から、有効な痘苗の輸入に成功したからだ。楢林は「瓶詰めの痘漿(液体)ではなく、乾いた痂で輸入してほしい」と提案したことが奏功した。
痘苗は洪庵の適塾で学んだ蘭学者のネットワークに乗って、1年もたたないうちに萩、京都、大坂、福井、名古屋から江戸へと伝えられた。福井藩の医師、笠原良策(1809~80)は、肩に痘苗を持つ子どもとともに、豪雪を踏み分けて栃ノ木峠を越え、京都から福井へ10日をかけて福井城下に痘苗をもたらした。
痘苗は輸送の途中で効力を失わないように、蘭学者が連れてきた子どもの肩に種痘し肩の痘苗を子どもごと次の中継地に運ぶ方式がとられた。協力者が見つからない時は、蘭学者本人や親族が接種を受け、身をもって安全性をPRした。
財政的な支援だけでなく、大切な後継ぎに種痘を受けさせた大名もいたが、幕府は、むしろ蘭学者たちの抑圧に回る。接種が本格化した嘉永2年、老中の阿部正弘(1819~57)は蘭方(医学)禁止令を出し、外科などを除いたオランダ医学を学ぶことを禁じたのだ。
阿部は禁止令を出す前に、蘭方医の請願を受けて長崎奉行に痘苗の輸入斡旋を命じており、種痘を阻むのは本意ではなかったようだ。にもかかわらず蘭方禁止令を出した背景には、既得権益を侵されると危機感を抱いた江戸などの漢方医の圧力があった。
接種が続かないと人から人に牛痘を受け継げず、痘苗が途絶えてしまう。蘭方医側は牛痘の効果を強調するビラ(引札)を配って種痘を呼びかけ、必死に痘苗を守った。 種痘の効果が上がり始めると、漢方医の抵抗も弱まっていくが、漢方医の拠点「医学所」がある江戸での種痘はなかなか進まなかった。神田お玉ヶ池に種痘所を開設できたのは、蘭方禁止令が解除された安政5年(1858年)のことだった。
コロナワクチン接種は遅れているが…
ほかにも蘭学者ネットワークはさまざま知恵を絞って種痘を江戸で広め、さらに東北、北海道(松前)へと伝えていくのだが、その苦心談はコラム本文をお読みいただきたい。
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ワクチンを海外からの輸入に頼る点などは、今も昔と変わらない。接種が医療従事者から始まっているのは、新型コロナ患者に接する機会が多いという理由以外に、医師自身が率先して接種をPRする意味もあるという。昔の蘭学者のように、率先して感染症と闘う多くの医療従事者に改めて感謝したい。
今のところは遅れが目立つ新型コロナワクチン接種だが、何とか最終的には後世の教科書に「2021年のワクチン接種はよく準備され、迅速に行われた」と記されるようになればと思う。
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