今につながる日本史+α

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読売新聞調査研究本部  丸山淳一

感染症にかかった為政者はどう動いたか

 コロナ禍が一向に収まらない。菅首相は7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせる方針だが、ワクチン供給の遅れや予約システムの不備などの不手際が相次ぎ、内閣支持率は低迷が続いている。

 国会議員がパーティーを開いたり、夜の会合に出席したりした事実が発覚するたびに「自粛をお願いしておきながら、なぜ自分は守らないのか」という批判の声が上がる。国民に自粛を求め、ワクチンを行き渡らせることを最優先すべき立場にいる人が、自粛を迫られ、ワクチン接種を望む国民のことを本当に最優先に考えているのか、「統治者としてのモラル」が問われている。

 過去の感染症の大流行で、対策の陣頭指揮に立った為政者はどのように動いたのか。特に注目したいのは、自身や親族が感染症にかかった統治者の行動だ。自ら感染症の恐怖に直面した時こそ、為政者のモラルが試されると思う。

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 麻疹と赤痢…死を悟り、出家した北条時頼

 鎌倉幕府5代執権の北条時頼(1227~63)は建長8年(1256)、麻疹(はしか)と赤痢にかかっている。一時は陰陽師おんみょうじが死者をよみがえらせる秘術を施す「泰山府君たいざんふくんさい」まで行われるほど重篤な状況に陥った。当時、麻疹は赤斑瘡あかもがさと呼ばれ、感染力が強力で致死率が高い深刻な病だった。

 死を悟った時頼は、執権職や邸宅を義兄に譲って、その翌日に出家した。だが、出家後に病は癒えた。回復した時頼は、粗末な格好に身をやつして諸国を遍歴し、民の救済に努めたという「廻国かいこく伝説」がある。水戸黄門のような話だが、「いざ鎌倉」の語源となった能の演目「鉢木はちのき」の話は特に有名だ。

 上野こうずけ群馬県)の佐野で大雪にあって立ち往生した時頼は民家に泊めてもらう。家の主人は僧が時頼とは知らぬまま、まきが尽きると大切にしていた梅と桜と松の鉢の木を火にくべて時頼をもてなす。主人は「今は領地を横領されて落ちぶれているが、鎌倉で事変があれば誰より先に駆けつける」と語る。後に時頼は関東八州の武士に召集をかけ、約束通り鎌倉に駆け付けた主人の領地を回復させた上に、梅、桜、松の鉢植えにちなんで加賀国(石川県)梅田庄、越中国富山県)桜井庄、上野国松井田庄に新たな領地を与えたという。

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鉢の木を薪にしようとする主人(左)を見つめる時頼(右)(『芳年武者无類 相模守北条最明寺入道時頼』 国立国会図書館蔵)

「民が苦しんでいるときにぜいたくはできない」

 時頼は北条氏に敵対する三浦氏を滅ぼす(宝治合戦)など北条本家の勢力拡大に努め、病で執権を退いてからも幕府の実権を握り続けて、本家の当主(得宗)の専制政治を始めたとされる。麻疹や赤痢への感染は出家の口実に過ぎないという見方もあり、諸国遍歴も実際にはしていないとみられる。

 では、なぜこんな美談が残っているのか。それは、時頼が建長5年(1253)に民を労われと命じた「撫民ぶみん令」や、農民から田畑を取り上げることを禁じるなどの農民保護策をとったからだろう。

 時頼は「酒は害がある」として「一屋一壺制」で酒の醸造量を制限し、自らも台所の味噌みそだけをさかなに質素な「家飲み」をしていたという。家飲みは質素倹約のためで感染対策ではないが、感染症飢饉ききんで民が苦しんでいるときにぜいたくはできないと考えたのは史実とみられる。

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台所の味噌で酒盛りをする時頼(菊池容斎前賢故実国立国会図書館蔵)

 鎌倉時代御家人救済策として有名な徳政令については以前にも取り上げたが、撫民令は徳政令より前に出されている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「時頼の撫民政策は荒くれ者・収奪者だった武士が、民衆の利益を優先する統治者へと変化した意識改革の重要な転機だった」と評価している。

 天然痘ワクチンを後押しした藩主

 江戸時代の佐賀藩主、鍋島直正(1815~71)は、天然痘のワクチン接種を積極的に後押ししたことで知られる。麻疹とともに恐れられた天然痘のワクチン(牛痘)については、鎖国下での蘭学者ネットワークの活躍を以前も取り上げた(こちら)が、直正はシーボルト(1796~1866)に西洋医学を学んだ伊東玄朴(1801~71)らを次々に藩医に採用し、このネットワークを作り上げた立役者のひとりだ。

 嘉永2年(1849)に海外から長崎に牛痘の苗が届くと、まだ3歳だった跡継ぎの淳一郎(のちの鍋島直大なおひろ、1846

~1921)や長女の貢姫みつひめ(1839~1918)に接種させている。海外でも「接種すると牛になる」と敬遠されていた牛痘を率先してわが子に打たせ、安全性をPRしたことは、その後の牛痘ワクチン普及に大きく貢献した。

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鍋島直正(左、『佐賀藩海軍史』国立国会図書館蔵)と直大(『中国と日本:世界一周旅行中の経験、研究、観察』)

 日本で最初に天然痘ワクチン接種を受けた殿様になった直大だが、文久2年(1862)に長崎で麻疹にかかっている。直正は長崎に蘭学医を派遣し、最後は最新鋭の軍艦「電流丸」を使って直大を佐賀まで緊急搬送した。若殿ひとりの搬送のために軍艦まで出したのは、感染症対策を統治者のためと考えていたからではないか。わが子に牛痘を打たせたのも、領民に模範を示して牛痘を普及させるためというより、統治者への“優先接種”の意味合いがあったのかもしれない。

 進歩的な鍋島藩でさえ感染症の予防は支配者優先だったとすれば、幕府が庶民の感染症対策に十分な意を用いなかったことは想像に難くない。幕末に天然痘コレラなどが庶民に流行したことで、幕府は急速に求心力を失っていく。

原敬にインフル感染の後遺症?

 スペイン・インフルエンザの本格的な流行は大正7年(1918)の秋から始まるが、流行開始に合わせるように首相に就任したのが原敬(1856~1921)だ。首相になって1か月もたたないうちに、原はスペイン・インフルエンザに感染した。国際日本文化研究センター教授の磯田道史さんは『感染症の日本史』のなかで、原の日記の記述をもとに、原に感染した経緯を解き明かしている。

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 原は日記に「北里研究所の祝宴に招かれ、その席にて風邪にかかり……」と記しているが、磯田さんは、潜伏期間を考えると、それ以前の工業倶楽部、交詢社、国産奨励会の会合のいずれかで感染したと推理する。いずれの会合も会員限定で、締め切られた会場内で飲食をともにしながら会話する形式だった。

 原は首相になってから日が浅く、ストレスも抱えていた。軍備増強案を閣議決定したものの、世論の反発を危惧して未公表としている。本当なら財界や実業家のお歴々に愛想を振りまくのは避けたいところだが、立憲政友会総裁としては選挙対策も怠れない。ストレスと激務で疲れているところに伊藤博文(1841~1909)の墓参りで冷たい秋風にさらされたのだから、インフルエンザにかかるのも無理はなかった。

 幸いにも原は2日寝込んだだけで回復したが、日記には、11月、12月になっても体の不調が続いたと記している。磯田さんは「体へのダメージは相当大きく、後遺症が残ったのだろう」とみている。

国民の不安を取り除く努力を

 インフルエンザを「風邪」と記し、少し寝れば治るとみていたのは原だけではなかったことは以前にも紹介した(こちら)。結果的にはスペイン・インフルエンザを甘く見たことで第3波の流行が起きてしまう。ウイルスは変異して強毒化したとみられ、後期の流行は皇族や華族などにも広がった。

 天然痘と麻疹を乗り越え、廃藩置県後に華族に列していた鍋島直大は、大正10年(1921年)に肺炎で亡くなった。その2か月前には娘がインフルエンザに感染しており、直大もインフルエンザに感染し、その後遺症が死因につながった可能性がある。高齢者にとっては、スペイン・インフルエンザはただの風邪ではなかったのだ。

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 変異株が猛威を振るいつつある新型コロナが今後、どう広がっていくかはまだ読めない。国民の不安を取り除く努力を急がないと、政権の土台すら揺らぎかねないことは、徳川幕府の末路を見るまでもない。

 

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